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6【稽古】



俺はメアリーの目の前で、無様に床へと這いつくばる。

全身の節々が悲鳴を上げ、視界がチカチカと火花を散らす。


「立ってください」


冷徹な声が降ってくる。見上げれば、メアリーが汗一つかかずに、ゴミを見るような冷ややかな瞳で俺を見下ろしていた。


「ぐっ……」

「男なのに弱い……情けないですね」


(……お前が強すぎんだよっ!)


喉元まで出かかった反論を、俺は血の混じった唾と一緒に飲み込んだ。エリート殺し屋の基準で測られたら、この世のほとんどの男が情けないことになってしまう。


「次、はすみです。来てください」


メアリーが視線を向けると、道場の隅でどこ吹く風といった様子だったはすみが、即座に短く返した。


「やだ...」

「…メアリーちゃん、嫌がってる相手に強制するのはよくないよ」


俺が横から口を挟むと、彼女の鋭い眼光が俺の喉笛を射抜いた。


「雑魚は黙っててください」

「ざ、雑魚……」


身も蓋もない一言に、俺の心は関節を外された時以上にボキリと折れた。メアリーは再びはすみに向き直り、諭すような、けれど断固としたトーンで語りかける。


「はすみ、貴方に拒否権はありません。もともと、この稽古は貴方のためのものなのです。貴方は極道の娘、狙われる立場の存在。ある程度戦えなければ、必ずいつかは殺されてしまいますよ」


沈黙。はすみは無表情のまま、メアリーの言葉を咀嚼するように静止している。


「安心してください、この男みたいな稽古の仕方はしません。ですから…はすみ」


「..けいこ..あまり..すきじゃない..。理由は..すきじゃない..から..」


哲学的なのか、ただ面倒なだけなのか。はすみは独自の理論をぼそりと漏らしながらも、トテトテと小気味よい足取りでメアリーの眼前にまで歩み寄った。


「いい子です、はすみ」


微笑みすら浮かべ、慈しむように親友を迎え入れるメアリー。

その温度差に翻弄されながら、俺は床に這いつくばったまま、これから始まる「お嬢様の稽古」を見守る。


「では、前と同じように最初は軽く拳を向けますので、防いでみてください」

「......」


メアリーが、スローモーションのような緩やかな動作ではすみに向けて拳を突き出した。

はすみはそれを無表情に、しかし的確な動作で受け止め、さらりと跳ね返す。


「その調子です。慣れてきたら徐々に速度を上げていきますね」

「......」


(……できれば俺の時も、そんな感じに優しく教えてほしかったな……)


ボロ雑巾のように床を舐めている俺の扱いとはあまりに違う。




だが、数分が経つごとに空気が変わり始めた。


メアリーの拳の速度が、段階を追って目に見えて上がっていく。その鋭さは、もはや「稽古」の域を超え、実戦のそれと変わりないレベルに達していた。


(……まじかよ)


シュッ、シュッ、と鋭い拳風が道場の静寂を切り裂く。


常人なら見失うようなその速度に対し、はすみは依然として心底つまらなさそうな顔をしたまま、淡々とついていっている。


その動きには一切の無駄がなく、流れるような動作で全ての打撃をいなしていた。


「......」


無表情で、退屈そうに。


エリート殺し屋の猛攻を前にしてなお、彼女の「好奇心」が動く気配はない。

ただ、決められたルールを義務的にこなすかのようなその姿に、俺は得体の知れない凄みを感じずにはいられなかった。



(薄々感じてはいたけど…はすみちゃん強いな……中盤時点のメインヒロイン…秋山恵と同程度ってとこだろうか…)


目の前で繰り広げられる攻防に、俺は息を呑む。

メアリーの拳はすでに、並の武闘派なら反応すらできない領域に達していた。


「はすみ、もう少し速くしても大丈夫ですか?」

「飽きた....」

「……もう少し速くしますね」

「飽きた....」


はすみは無機質な声で繰り返す。



さらに拳を加速させようとメアリーが仕掛けた刹那、はすみがふわりと影のようにその一撃を回避した。



「あ! はすみ! これは防ぐ稽古ですよ!」


メアリーの叱責が飛ぶが、はすみは止まらない。


「..でゅくし〜..」


抜けたような声を出しながら、はすみがメアリーの脇腹を軽く人差し指で突っついた。


「でゅくし..デュクシ〜..」

「っ! はすみ!真面目にやってください!!」


顔を真っ赤にして叫ぶメアリー。


(いや、もう充分だろ……)


俺は内心でつっこむ。


稽古とはいえ、あのメアリーの懐に遊びのような動作で入り込んでみせたのだ。


もういいんじゃないだろうか。


「..メアリー..私が..武器を持ってたら..三回は..殺られてる..ね..」


平坦な煽り声が道場に響く。

その瞬間、メアリーのまとう空気が一変した。


「…………」


静まり返った道場に、刺すような殺気が満ちる。

慈しむような微笑みは消え、そこには一人の「殺し屋」としてのプライドを傷つけられた少女の、剥き出しの怒りがあった。



「デュク...」


なおも遊びの延長のように指を突き出そうとするはすみの姿に、俺の生存本能が最悪の警報を鳴らす。


「あっ! はすみちゃん!!」


俺の制止の声は、極限まで加速した殺し屋の反応には届かない。


「——!!!!」


メアリーの瞳から光が消え、深淵のような漆黒の殺意が宿った。


刹那、彼女の細い脚が、重力と視認性を置き去りにして凄まじい速度で跳ね上がる。

逃げ場のない、最短距離の軌道。

回避は間に合わない——。


乾いた衝撃音が道場に響き渡る。

メアリーの鋭い蹴りが、無防備なはすみの顎を正面から捉え、その華奢な体が宙へと浮き上がった。


「——ちょ!!」


俺の声にならない悲鳴が道場にこだまする。

だが、衝撃で吹き飛ぶかと思われたはすみの体は、空中で蝶のようにしなやかに回転し、何事もなかったかのようにスタッとフローリングに着地した。



「……ハッ! す、すみませんはすみ! 大丈夫ですか!?」



我に返ったメアリーが、血の気が引いた顔で駆け寄る。殺し屋としての本能が親友相手に牙を剥いてしまったことに、激しい動揺を隠せないようだ。


「うん..大丈夫..」

「本当にすみません!本気になりすぎてしました!どこか怪我はしていないですか!?」

「..してない..よ..」


はすみは表情一つ変えず、淡々と答える。


「よ、よかったぁ…」


(?…今、確実に顎に直撃したよな……?)


俺は自分の目を疑った。あれほどの速度と威力。

普通なら頸椎けいついごと持っていかれてもおかしくない一撃だったはずだ。


すると、はすみは視線を落とし、無造作に自分の片方の手をもう片方の手で包んだ。



パキッ。


乾いた音が静かな道場に響く。



「?」


メアリーが不思議そうに首を傾げ、俺も「何の音だ?」と耳を澄ませた。


はすみは何でもないことのように、あらぬ方向に曲がっていた小指を自らの手で元の位置へと戻す。

そして、痛みなど感じていないかのように、ただ、ふと思い出したようにぽつりと呟く。


「喉..渇いた..」


その一言で、道場に漂っていた緊張感はふっと消え、静かな午後の空気が戻ってきた



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