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3【泥沼の男】



あらかた皿が空き、俺が小宮の兄貴と今後の活動について言葉を交わしていた、その時だった。

背後から、静寂を乱す無遠慮な足音が近づいてくる。



「やってますでしょうかぁ〜?」



夜の闇から這い出してきたのは、50代半ばといった風貌の男。

清潔感とは無縁の、手入れされていない髭をたくわえた顔。ガタイはいいが、不健康そうに太ったその姿からは、隠しきれない業の深さが漂っている。


「へい、やってます」


店主が短く応じる。

男は、脂ぎった顔に卑屈さと図々しさが混ざったような笑みを浮かべ、俺たちの席を覗き込んできた。



「あら〜、かっこいいお兄さん方に可愛らしいお嬢ちゃん。お隣、失礼しますね〜♪」



その男が放つ独特の嫌な気配に、空気が一変する。


「……河合」


小宮の兄貴が、鋭い眼光を崩さぬまま、視線だけで俺に合図を送った。


(お嬢をこの男に近づけるな)


その意図を瞬時に理解した俺は、さりげなく立ち上がり、はすみと席を入れ替わった。俺が壁となり、お嬢を男から遠ざける形だ。


「よいしょっと。モモをもらえます〜? 私、ももがとても好きなんですよ〜♪」


男は俺たちの警戒心などどこ吹く風で、どっかと椅子に腰を下ろすと、粘りつくような声で注文を飛ばした。


楽しかった食卓に、得体の知れない「不協和音」が混じり始めたのを感じ、俺は密かに懐の得物を確認した。


「やっぱりももは美味しいですよねぇ〜♪お嬢ちゃん..モモ食べましたぁ〜?」


脂ぎった顔を歪ませ、男がニチャアと不気味な笑みを浮かべてはすみに問いかけた。


その粘りつくような視線がはすみに向けられた瞬間、小宮の兄貴の眼光がカチコミの時すら凌ぐほどの鋭利な殺気を帯びる。


ふと男の背後に目をやると、ズボンの後ろポケットから凶器と思わしき鉄の塊が、隠す気もないのか露骨に覗いていた。


「食べ..たよ..美味し..かった...」


だが、はすみはその毒気に当てられる様子もなく、淡々と、どこか虚空を見つめるような瞳で言葉を返した。


「ウフフ♪美味しかったぁ~?でもお嬢ちゃんのももはもっと美味しそう~♪ウフフ♪」


男の口角が吊り上がり、喉の奥で鳴るような笑い声が路地裏に響く。


(やべぇ、なんだこいつ……)


背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。前世でやり込んだ『極アル』の知識をどれだけ掘り返しても、この不気味な男の立ち絵なんて記憶にない。原作にいない「未知の狂気」が、俺の恐怖をさらに煽り立てる。


「人間は..雑食..だから..きちんと..料理..しないと..美味しく..ならない..」


はすみがあまりにシュールで噛み合わない言葉を漏らす。

それに応えるように、男は一定のリズムで体を揺らし始めた。


「んふ〜♪ ウフフ♪ ウフフ♪ ウフフ♪ ウフフ♪」


何の歌かも分からない、音程の狂ったリズム。

冷や汗が止まらない。小宮の兄貴が今にもその喉笛を掻っ切りそうなほど張り詰めた空気の中、男の刻む不気味なハミングだけが、夜の闇に粘りつくように溶け込んでいった。


「小宮..眠い..帰ろ..」


はすみの鈴の音のような声が、張り詰めた空気をふわりと撫でた。


「ウフフ♪ ウフフ♪」


狂ったハミングを続ける男を無視し、小宮の兄貴は「あぁ、そうだな」と短く応じる。


「おっちゃん、釣りは取っといてくれ」

「へい、毎度」


兄貴とはすみが席を立ち、屋台の明かりから夜の闇へと足を踏み出す。

俺もそれに続くべきだった。



しかし気になってしまったんだ。

それで、その不気味な男から目を離すことができなかった。


しかし、それが致命的な過ちだった。



バッ、と。



生き物のそれとは思えない速度で、男が俺の方を向いた。


眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、唇が耳元まで裂けたような、人間を辞めた表情。

その異様な面に、俺は言葉を失い射すくめられる。



男の口が、湿った音を立てて動いた。


「ねぇ、今のは..痛かった?」

「…はっ…は?」


どういう意味だ。何を言っている。


意味は分からなくても、胃の底からせり上がってくるような吐き気が、生存本能が、警報を鳴らし続けている。


冷や汗が滝のように流れ、心臓が爆ぜそうなほど跳ねているのに、指一本動かせない。

小宮の兄貴を呼ぼうとしても、喉が焼け付いたように声が出ない。


ただ確信だけがあった。

こいつは危険だと。


この世界のどんな極道やマフィアよりも、決定的に「何かが違う」。


俺は逃げ出すこともできず、ただその男の、底なしの狂気が宿る表情に魅入られたまま、金縛りにあったように立ち尽くしていた。

そんな俺に向けて男はゆっくりと、粘つくような動作で手を伸ばし、俺の腕を掴んだ。


指先から伝わってくる体温は、死人のように冷たい。

表情は相変わらず、直視すれば精神が削り取られるような、冒涜的な歪みを湛えたままだ。


「見たくない」と本能が叫んでいるのに、呪縛にかかったように目を背けることすら叶わない。


「ウフフ♪ ウフフ♪」


至近距離で刻まれる狂ったリズム。

まずい、引きずり込まれる。


刹那。



「河合」



先ほどとは違う、はっきりとした荒瀧はすみの声が、鼓膜を鋭く叩いた。

その響きはまるで冷水を浴びせられたかのように、俺を泥沼のような現実から引き戻す。



「帰るよ」



ハッとして声のした方を見る。

そこには、いつの間にか先行していたはずの彼女が、一人で佇んでいた。

小宮の兄貴の姿は見当たらない。



まずい、早くここを離れないと——。



焦燥に突き動かされ、恐る恐る男の方を振り返る。


だが、そこにいたのは、先ほどまでの「化け物」ではない。

髭を蓄え、だらしなく笑う、清潔感のない中年の男に戻っていた。


「河合..おいで..」

「……」


さっきまでの異様な表情が嘘のように、男はただ大人しく焼き鳥を咀嚼している。


掴まれていた腕には、あざ笑うような冷たい感触だけが、いつまでも生々しく残っていた。


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