十四
初めは人々のざわめきや、石畳を走り回る靴音や、時折聞こえる悲鳴といったものだった。
夢現にそれらを聞くともなしに聞いていると、突如警鐘が響き始めた。激しく打ち鳴らされるその鐘の音は滅多に聞くものではない――実際の状況でそれが鳴らされた記憶はなく、年に一度の避難訓練で聞いたことがあるだけだった。
それは町の外部から何らかの脅威が迫っているという状況で鳴らされる警鐘だった。
脅威とは例えば盗賊団であるとか他国の軍隊とか、そういった類のものである。
そこまでぼんやりと考えたところで、アイザックはようやく目が醒めた。
「――えっ?」
寝台の上で起き上がる。
途端、背中や上腕の辺りに引きつるような痛みが走った。
「ぐああああ、筋肉痛……!」
それになんとか耐えつつ、夢などではなく実際に警鐘が聞こえていることを確認すると、窓辺へ向かった。木の格子から見える空はまだ薄暗い。それを開いて外を見ると、人々がまばらに走り回っているのが見えた。
革鎧姿の守備隊員の姿もちらほらと見られる。
「何だ……?!」
思いつつも、とりあえず身支度をする。靴――室内履きではなく、学院から履いてきた旅用の頑丈なブーツ――を履き、上着を羽織る。呪符や指輪などが懐に入っていることを確認し、さらに昨夜新しく魔術文字を刻んだ指輪もそこに入れる。
他に何か必要なものはと考え、脅威という言葉から武装を連想し、件の短剣についてカーティスに問うのを忘れていたことを思い出す。
そして思考が妙な方向へ飛躍しているなと思い、緊急時こそ冷静にと頭では判っていたつもりだったがやはり焦っているらしいなと自覚し、それでもどうでも良いことを考え続けるのを止められない自分を興味深く観察していると、
「アイザック! 起きてる?!」
コレットの声と共に部屋の扉を連打する音が来て、アイザックは我に返った。
「起きてる。何があったの?」
扉を開けると、そこにコレットが立っていた。
服装はもちろん昨夜のまま。寝起きという様子ではなく、やや息が上がっている。
「外が騒がしくて、出てみたらちょうど守備隊の伝令が通りがかってたから何があったか聞いたんだけど」
「うん」
アイザックが促すと、コレットは一度、呼吸を整えるために一度大きく息を吸ってから、言った。
「ゴブリンの軍隊だって」
それは異様な光景だった。
ゴブリンという生き物の群れは通常、三十匹を超えることは滅多に無い。それだけの規模に至る前に仲間割れが発生し、群れが分割されるのである。
だが今、先ほど東の地平線から離れたばかりの朝日に照らされて、一〇〇匹近いゴブリンの集団が、草原にたむろしていた。
町から真っ直ぐ西の方角。距離は五〇〇メートルといったところか。
殆どは特に何をするでもなく周辺をうろついているが、全体としては町の方角に顔を向けているらしい。
軍隊がこれから攻め込む目標を前に陣形を整えている様子に、似ていると言えば言えた。
町をぐるりと取り囲む城壁の上、幅三メートルほどの通廊に立ち、守備隊の隊長は腕を組んでその様子を眺めていた。
革鎧を身につけ、額には鉢金を巻き、腰の剣帯には剣を下げている。
隊長の右隣にはイザベルの姿があった。同じように立って同じものを眺めている。革鎧と剣に加え、弓と矢筒を携えていた。
そして隊長の左隣から、やはり同じように立つコレットが隊長に声を掛けた。
「あれが……?」
「おう」
隊長は答え、一度コレットの方をちらりと見やり、視線を前方に戻す。そしてまたコレットを見た。
「……おい、何でお前がここに来てる」
「守備隊員だから」
「正規隊員じゃねーだろが」
それから隊長はコレットのさらに左隣に声を掛けた。
「アイザックまで……つか、大丈夫か?」
「はい……どうも……」
全身で息をしながら、倒れそうになりながら、汗だくのアイザックはどうにか応えた。
西の門の真上だった。家からここまで、町の半径にいくらか満たない程度の距離を、コレットに引っ張られるようにして殆ど休みなしで走って来たのだ。
山の中腹にある学院と麓の町との間の山道を月に数回の頻度で往復する生活をしてきたアイザックは、実はこれで持久力にそこそこの自信があったのだが、それでもさすがに起き抜けにするような運動ではなかった。
ちなみに同じ距離を同じ速度で走ってきた筈のコレットも多少の疲労は見せていたが、アイザックほどではなかった。
「門周辺は封鎖して一般の住人は近づけないようにしていた筈だぞ」
「うん。で、野次馬整理してた隊員の人に『隊長は?!』って聞いたら『門の上だ!』って通してくれたよ」
「誰だよそいつは……」
「えーっと、ほら。名前は知らないけど、川沿いの赤い屋根の宿屋の息子さん」
「ボリスかしら?」息も絶え絶えのアイザックに水筒を手渡しながら、イザベル。「二十歳ぐらいの、髪の長い」
「たぶんその人」
イザベルは頷き、
「彼だったら東方支部所属で、コレットとの面識はあまり無いわね。でも隊長にくっついていろいろ回ってるのは見てるでしょうから、普通に隊員だと思って同行のアイザック共々通してしまった……そんなところかしら?」
「なるほど……」
渋い表情で納得する隊長。
(ていうか、そういう顔見知り程度の相手をコレットが意図的に選んで声掛けたんじゃないかな)
アイザックはそう思ったが、息を整えるのに必死で口には出せなかった。
「見張りがあれを発見したのは夜明けと同時。夜中の間に集まってたようなんだが、それで騒ぐわけでも町に向かってくるわけでもなかったせいで誰も気付かなかったようだな。
とりあえず守備隊に緊急招集掛けて、警鐘鳴らして、現在に至るってとこだ」
と、隊長。
城壁から町の外側を見下ろせば、門のすぐ側で数十人の守備隊員が集まって隊列を組んでいるのが見えた。装備はやはり革鎧と剣、それに多くの者が鉢金ではなく頭の上半分を覆う金属製の兜を被っている。
脇には槍や大剣を積んだ台車や車輪付きの投石機が何台も並べられている。
城壁の上にも十人ほどの弓を持った守備隊員が、互いに適当に距離を置いて配置され、硬い表情でゴブリンの群れを眺めていた。
視線を転じて町側を見れば、門の周辺は守備隊によって封鎖され、その封鎖線の向こう側から住人たちが不安げな表情で遠巻きに見ている。時折、鎧を身に着けた守備隊員がその線を超えて中に入り、門から外に出て隊列に加わる様子が見えた。
「で、見てるだけ?」
コレットが隊長に問う。
「向かってくるようだったらなんぼでも迎え撃つんだが、ああしてたむろってるだけなんでな」
「でもこのままずっとお見合いってわけにも行かないでしょ?」
「ああ。町の評議会の方からもせっつかれてる。とりあえずもうしばらく様子を見ながら、こっちの人数が揃ったら討って出ることになるだろうが……ゴブリンのあんな行動は初めて見るんでな、考えなしに突っ込んで良いものかどうか正直迷ってる」
それから隊長はアイザックの方に視線を向け、
「せっかく来たんだから意見を聞かせてくれ魔術師見習い。
……どう思う?」
「えっと……」どうにか呼吸も落ち着いてきたアイザックは、学院で学んだゴブリンの生態について思い出しながら、「意見と言っても……ご存知でしょうが、普通の状態でゴブリンがあの規模の群れになることはあり得ません。
五十匹近い群れが発生したという事例が過去いくつかありますが、別々の群れがたまたま同一箇所に現れたものだと考えられています。それぞれ別のロードに率いられた陣営に別れて目撃した人間そっちのけで互いに争っていたそうです。あの集団はそういった様子は見られません。数以外は普通の、統率された一つの群れに見えます。
……そういえばロードらしい姿は見えませんね」
ロードとはゴブリンの群れを率いる個体である。普通のゴブリンより体格が良く、肌が青いという外観的特徴がある。
「うむ。まあこの距離だからはっきりとは言えんがな」
と、隊長。
続いて口を開いたのは、イザベルの右隣に立つジャンゴだった。
「それは、あれが尋常な形で生じた群れではないからである」
「ふむ……」
隊長が頷き。
そしてしばし沈黙が五人の間に流れ。
「――?!」
まず弾かれたようにイザベルが身構えた。
「何者?!」
腰の剣に手をやり、鋭く誰何の声を飛ばす。
一拍遅れてコレットが拳を構え、
「ジャンゴさん……?!」
それからアイザックが名を呼んだ。
それに応じるように、小柄なドワーフは腕を組んだまま身体ごと向き直り、
「うむ、某である。昨夜は失礼した、アイザック殿、コレット殿」
そう言って会釈をした。
「……さっきから部外者が気軽に入って来過ぎだろ……」
ただ一人、ずっと同じ場所で同じ腕を組んだ姿勢を崩さないままの隊長が、そう言って眉をしかめた。




