目のないクジラ
彼女は、最後の最後まで攻撃隊を出さないと言った。今、敵の潜水艦と距離が空いている状況で攻撃隊を発進させ、面倒なミサイル巡洋艦と対潜駆逐艦を抑えれば、この艦の生存率はぐんと高くなる。
彼女はむやみに人間を殺そうとしない人種だ。その身が狙われ、やむを得なくなるその瞬間まで、手を出そうとはしない。
ただ、自分が何かを言おうとしても、ファントム大隊は国連軍の所属の機関であり、あくまでも中立でなければならないとはぐらかすだけだろう。その弱さは、彼女を追い詰めていくだろう。
「グラーフさんなら、この状況をどう切り抜けます?」
この問いかけで、彼女は今すぐ攻撃隊を発進させるという答えは期待していない。
「アクティブソナーを使ってみてはいかがでしょう」
「アクティブソナーを?」
「ええ、目標の静音性は完璧です。こちらのパッシブソナーでは目標の駆動音さえ拾えていません。ならば、こちらから探してみてはいかがでしょう。いくら最新鋭潜水艦といえども、この距離ではソナーに映るはずです」
そう提案すると、彼女が左手を口に当てて押し黙る。しばらくして、彼女はそっとその口を開いた。
「ですが、こちらの位置をばらすことになりますが?」
「この艦ならば振り切れるはずです」
「それもそうですね」
そう言って、彼女は微笑む。この艦の性能を一番よく知っているのは、設計者の一人である彼女だ。
「アクティブソナーを使用、送信は一回のみ」
「アクティブソナー用意!」
復唱すると、ソナー員がそれを復唱する。
「送信」
ソナー員が、アクティブソナーのボタンを一回だけ押し込んだ。
ソナー音が一度だけしてすぐに消える。数秒後、またソナーの音がして、ソナー員がデータの解析を始める。
「敵艦、本艦5時の方向、距離35km‼︎」
ソナー員が焦ったように叫ぶと同時に、艦橋に激震が走る。敵攻撃原潜の魚雷の射程距離は40km程と推測されている。
「気付かれていた……ッ!」
レミリアは、己の迂闊さに歯噛みする。もっと早くに気付くべきであった。敵がアクティブソナーを使うということは、己の位置をこちらに知らせる危険な橋を渡るということ。その時点で、こちらを攻撃する覚悟を決めていたということだ。
レミリアは、この短時間でここまで距離を詰められるはずはないと、たかをくくっていた自分を恥じた。敵はこちらを補足してすぐに機関を全力運転させて、全速力でこちらを追尾してきたのだろう。広大な土地を有し、中国大陸内の優秀な科学者を根こそぎかっさらっていったロシアは、潜水艦の静音性を完璧の域へと高めていた。だから、気付くのが遅れた。
もう全て手遅れだ。いくらこの艦でも、魚雷を何本も食らって耐えることはできない。
「艦長、攻撃隊の発艦命令を出しますか?」
こんな状況下で、グラーフは落ち着いていた。彼の長年の潜水艦乗りとしての経験は、この状況下で自己を見失い、パニックに陥れば乗員もろとも死ぬと告げていた。
「……敵艦は魚雷の射程圏内……こちらも射程圏内、だけど今ここで戦闘を始めれば、巡洋艦と駆逐艦に気付かれる……これを先に黙らせないと、対潜ミサイルが……」
「は?」
顔をうつ向かせたレミリアが、小声でボソボソと呟く。その表情は、彼女の黒い前髪に隠れて窺い知れない。
「グラーフさん」
「はい」
やがて、レミリアは顔を上げ、毅然とした目でグラーフの目を捉える。
「攻撃隊に発艦命令を。敵巡洋艦と駆逐艦の攻撃命令を発令してください」
「アイアイ・マム!」
グラーフは、強く応を返すと、内線のマイクを取って口に当てる。
「こちら艦橋、攻撃隊、発艦。敵巡洋艦及び駆逐艦を撃滅せよ」
『こちら格納庫、了解。攻撃隊は発艦、敵巡洋艦と駆逐艦を攻撃します』
「これより全速力で敵艦を引き剥がし、45秒後に上げ舵20度で急速浮上、1分後に攻撃隊を発艦させます」
クズネツォフが答えるのを聞いてから、レミリアは次の指示を出す。
「全速前進!」
「全速前進、宜候!」
グラーフが復唱し、操舵手が舵横のレバーを思い切り押し倒す。同時に、艦の原子力機関内部の水素の核融合反応が激しくなり、超電磁ウォータージェット推進機で作られた磁場によって加速したウォータージェットの勢いが増し、反作用で艦速が32ノットにまで一気に上昇する。その慣性によって、艦橋内部で立っていた人間が、後ろへとよろける。
全力公試以来やったことのない、原子力機関の爆発覚悟の全力運転。この戦闘が終われば、すぐにドック入りして、隅々まで検査する必要があるだろう。
だがその分、凄まじい加速である。凄まじい重力加速度が、艦橋要員たちの体をシートに押し付ける。
「浮上まで30!」
グラーフが、天井の手すりにつかまりながら、懐中時計の秒針を見つめる。その針は一つずつ、正確に時を刻み続けている。だが、それを見る者の時間は引き伸ばされ、あとわずか27秒であるところが、1時間にも匹敵するような気がした。
「15!10、9、8……」
グラーフがカウントする間にも、艦は海流との衝突によってガタガタと揺れ、増速をやめない。背中から押してくる力が段々と増してくる。
「4、3、2……」
「今よ!」
「上げ舵20度、急速浮上!」
レミリアが叫び、グラーフが苦しげに復唱した。そして、操舵手が航空機の操縦桿のように舵を引き起こす。同時に、艦尾にある縦に潰れた形のX字の舵が動き、艦首が上を向く。
「きゃっ‼︎」
シー・ボーイは、今や42ノットもの超速で海底1000メートルから海上をめがけて駆け上がってくる。その間もじわじわと増速し続け、最終的に44ノットで海上に躍り出た。海中を高速で航行していた中、いきなり上げ舵を20度も取ったせいで、艦内のあらゆるものが慣性で艦尾に向かって雪崩れ落ちる。それは人も例外ではなく、艦橋でグラーフが壁に背中をぶつけてしまう。そして立っていなかった人間にも、先ほどの比ではない重力加速度がのしかかってくる。こんな無茶苦茶な航法のせいで、艦内はさながら絶叫アトラクションのような有様になっていた。唯一絶叫アトラクションと違うところと言えば、彼らはこの状況を楽しんではいないというところだろうか。
「減速、第4戦速!」
薄く鋭い艦首が、蒼天の下、揺らめく群青色の海面を突き破って天に向かって聳え立つ。その後、艦体を軋ませながら艦底を海面に叩きつける。海水が間欠泉のように舞い上がり、直後に滝のように甲板を打つ。
シー・ボーイの甲板に溜まった海水が、赤道直下の陽光を受けて煌めく。
「減速、第4戦速!」
グラーフが復唱し、操舵手がスロットルを手前に引く。途端に、凄まじい重力加速度が和らぎ、胸にのしかかる重圧が幾分か晴れる。
「甲板ハッチ開放、カタパルト用意!」
「甲板ハッチ開放、カタパルト用意!」
「甲板ハッチ開放!」
乗員の一人がスイッチとボタンを操作する。すると、平たい甲板上の盛り上がった流線型部分の前方の気密が解かれ、ゆっくりと観音開きに開いていく。そして、中にいたスーパーホーネットのキャノピーのガラスが、陽光を反射していた。
「カタパルト用意!」
また違う乗員がスイッチとボタンを操作する。甲板の中央が縦一文字に凹み、代わりに電磁カタパルトが中から現れて、ガチリとハマった。
「ハッチ開放良し、カタパルト準備良し!」
「発艦準備よろし」
乗員の報告を聞いて、グラーフが判断する。レミリアは、一度息を吸い、背筋を正して乱れた制服を直してから言った。
「攻撃隊、発進!」
その目に、迷いなど一片もなかった。
× × ×
「無茶しやがる」
後席のクレマンソーが、パイロットヘルメットに接続された会話用の回線でぼやく。先ほど、急に増速したこの艦は、尚も増速し続けている。パイロットからすればこの程度の重力加速度など問題にならないが、整備員などはそうもいかない。皆壁に叩きつけられ、工具の雨あられに頭をかばっていた。
「敵艦に見つかったのかもしれない」
「そうでなければ、こんな増速のしかたはしないもんな……」
自分なりの推測をクレマンソーに伝えると、彼が呆れたようにぼやく。
『攻撃隊へ、クズネツォフだ。今、発艦命令が出た。1分後に浮上、カタパルトが用意出来次第、即座に発艦する。以上だ』
クズネツォフとの通信が切れると、すぐに艦が斜めに傾き、増速しながら浮上していく。つくづく攻撃隊に選ばれて良かったと思う。でなければ、今頃凄まじい重力加速度にGスーツなしで耐えていなければならなかった。
機体はしっかりと床に固定されているが、その接続部の金属が悲鳴を挙げているのが振動で分かる。
「これ、圧壊したりしないよな」
「設計者が指示したんだ、問題ない」
そうは答えたものの、自信はない。先ほどから船体はミシミシと音を立てているし、ここまで無茶な航法は見たことがない。このままバラバラになってアリシア共々海の藻屑になるかは、この艦の設計と建造次第である。
艦自体の揺れが激しくなってくる。このまま無事に浮上できるのか、不安になってくる。僅かに高鳴る心臓を感じ、押さえつけようと深呼吸をしていたところ、いきなり振動が消え、僅かに浮遊感を覚える。直後、艦が傾き、内臓六腑が浮き上がるような感覚がしたと思うと、一際大きな振動と轟音がする。
「おい、イオリ。どうやら俺たち生きて陽の目を拝められるらしいぞ」
「どういうことだ?」
クレマンソーに問いかけたその時、機体がガクンと揺れて、勝手に前に進む。アデルの一番機とこの二番機の前輪の固定具が格納庫床のレールにそって進んでいた。そしてある所で一番機を前にして縦一列に並んで止まると、今度は床が上昇しだす。5、6メートルほど上昇すると、そのエレベーターは停止する。キャノピーから見る景色は真っ暗闇で、何も見えない。
『これからハッチが開く。一番機はすぐに発艦、二番機はそれに追従しろ。尚、ハッチは2分後に閉まる。それまでに発艦しろ。God Speed』
あくまで事務的に、最後に儀礼的に一言言い放って、クズネツォフは内線を切った。直後、ガコンと音がして目の前の闇が真ん中から切れて、眩しい光が槍のように突き刺さってくる。ヘルメットのバイザーのおかげで視力を奪われることはなかったが、目を細めてしまう。
『こちら一番機。最終チェックは全省略。直ぐに飛び立つわよ……やってやろうじゃないの。無茶やってくれてさ!』
そう言って、アデルはカタパルトへと進み、エンジンの回転数を上げ、電磁カタパルトに背中を押されて飛び立っていった。
「行くぞ、クレマンソー」
「OK、軍曹」
ハッチから甲板の外に出たそこでは、蒼天と雲と、群青色の海が遥か彼方まで続いて行って、水平線で交わっていた。
海鳥が突如出現した小島を見つけて、休憩のために止まる。しかし、その直後に爆音と急激なジェットによって生み出された気流が海鳥を襲い、海鳥は驚いて、慌てながらも飛び立って行った。
その背後で、スズメバチが飛び立つ。狙いはただ一つ、敵艦隊の撃滅。




