第六章 あれを手放したのか
宮廷魔導士グロウブ老の手は震えていた。
修道院の壁の前で、白髪の老人が、ただ膝を折っていた。
俺は、状況が呑み込めなかった。
「拓海殿、これは、貴公が施工したのか」
グロウブと名乗った老人が、震える声で訊いた。
「ええ。三日で終わらせました」
修道院での仕事を終えてから、五日後。
俺は再び聖アネス修道院に呼び戻されていた。
王宮から、宮廷魔導士のグロウブ老が、視察に来ているという。
ヴァルト辺境伯は後方に立って、腕を組んでいた。
「クシ目の、高さを、測ってみたまえ」
グロウブ老は傍らの若い魔導士に告げた。
若い魔導士は不思議そうに俺の張った壁面を、特殊な計測器で調べ始めた。
「……三ミリ。誤差、ゼロです」
「全面、変わらずか」
「変わりません。すべて、三ミリ、誤差ゼロです」
グロウブ老は長く、息を吐いた。
「クシ目ゴテで、ここまで均一に塗布できる職人を、私は、聞いたことがない」
「ええと、すみません」
俺は、横から口を挟んだ。
「クシ目って、別に、難しくないです。誰でもできますよ」
グロウブ老はゆっくり振り向いた。
その目には、怒りでも驚きでもなく、ただ深い、敬意のようなものが、湛えられていた。
「……拓海殿。クシ目の高さは、千年前の文献『大壁経典』に記された、世界の創世時のタイル張りの規格と、寸分違わぬ数字です」
「は?」
「我々は、千年、それを再現できませんでした。残された図面は、ありました。だが、職人がいなかった」
俺は、何も言えなかった。
現代日本では、設備のホームセンターで、誰でも買える、規格品のクシ目ゴテだった。
ただそれを、まっすぐ、丁寧に引いただけだった。
グロウブ老は修道院の庭で、俺と向き合った。
「拓海殿。一つ、質問してもよろしいか」
「どうぞ」
「貴公の手に、神の祝福は、降りておるかな」
「降りてないですよ」
「では、なぜ、これほどの仕事ができる」
俺は、少し考えた。
答えは、簡単だった。
「四年、毎日やってるからです。それだけです」
グロウブ老は長い時間をかけて頷いた。
その夜、俺は王都に戻り、辺境伯邸に泊まらせてもらっていた。
夜更けに、ヴァルト辺境伯が、俺の部屋を訪ねてきた。
「拓海殿、まだ起きておられたか」
「ええ」
ヴァルトは椅子に座った。
手には、書状を持っていた。
「王宮から、急ぎの伝令が来た」
「はい」
「貴公の冒険者ギルド登録について、王宮の魔導院から、強い抗議が出ている」
「抗議?」
「銅ランクは、即刻、白金ランクに引き上げよ、と」
俺は、軽く笑った。
「冗談ですよね」
「冗談ではない」
ヴァルトは書状を畳んだ。
「グロウブ殿が王宮で報告してから、王宮では大騒ぎだ。クシ目三ミリ誤差ゼロ、というのは、神話の領域の精度らしい」
「すみませんが、本当に、そんな大層なものじゃないです」
「拓海殿」
ヴァルトは低く言った。
「我が国は、貴公を、銅ランクとして登録した。これは、外交問題になりかねん。あれを手放したのか、と、近隣諸国の魔導院からも、書状が届き始めている」
俺は、無言でヴァルトを見つめた。
「あれを、というのは」
「貴公のことだ。グロウブ殿が、各国の同僚に手紙を書いた」
俺は、頭を抱えたくなった。
現代日本で、毎日、当たり前にやっていた仕事が、この世界では、神話の再現らしい。
「ヴァルト殿」
「うむ」
「俺は、ランクを上げるつもりはありません。仕事を、ください。それだけで、いいです」
ヴァルトはしばらく俺の目を見ていた。
やがて深く頷いた。
「分かった」
翌朝、俺は中央聖堂に向かった。
リネアが、俺を待っていた。
彼女は、また何かのノートを持っていた。
「拓海様、これを」
俺は、それを受け取り、開いた。
目に飛び込んできたのは、整然と並んだ施工記録だった。
日付。現場名。タイル枚数。下地の状態。打診結果。可使時間。
すべて、俺のノートと、同じ書式だった。
「これは」
「祖父の、施工チェックノートです。私が、子供の頃から、見ていたものです」
リネアは、俺の胸ポケットを、指差した。
「拓海様の持っていらっしゃるノートと、同じです。書き方が、まったく、同じです」
俺は自分のポケットから、ノートを取り出した。
二冊を並べた。
ページの構成、罫線の引き方、項目の配置、文字の傾き。
違うのは、言語と、紙質だけだった。
あとは、すべて、同じだった。
「……どういうことだ」
「祖父は、生前、こう言っていました。『壁を診る者の手は、世界中、どこでも、同じ書き方をする』と」
リネアの目に、涙が滲んでいた。
「拓海様は、本物の、壁の守人です」
俺は自分のノートを握りしめた。
四年前、見習いの時に、田島さんに教わって始めた癖。
それが、千年前のロウェン師と、繋がっていた。
その時、聖堂の奥から、急ぎ足で従者が駆けてきた。
「辺境ザールから、緊急報告です」
従者は、息を切らせていた。
「国境砦の壁が、夜ごと、赤く発光している、とのこと」




