第五章 修道院の壁
依頼書には、こう書かれていた。
「五十年崩れない修道院の壁。誰も直せず、解体寸前」
ヴァルト辺境伯の差配で、王都郊外の聖アネス修道院へ向かった。
馬車に揺られて二時間。
石造りの古い修道院が、丘の上に佇んでいた。
「拓海殿、ようこそ」
修道院長は、白髪の女性だった。
六十は超えているだろうか。穏やかな目をしていた。
「壁を、診させてもらいます」
俺は早速、北側の外壁に向かった。
高さ十二メートルほどの壁面。タイルではなく、漆喰仕上げの上に薄いタイルが帯状に張られた、いわゆる装飾タイル張りだった。
壁面には、無数のひびが走っていた。
修道院長は、肩を落として言った。
「五十年前、私が見習いだった頃、この壁の修復を試みた職人が、三人ほどおりました。皆、原因を特定できず、結局、応急処置のみで」
「五十年、誰も剥離検査をしなかった、ということですか」
「ええ。打診、というのは、今は失われた技と聞いております」
俺は頷いて、ハンマーを抜いた。
壁面を転がす。
コロ、コロ、コロ──。
澄んだ音と、濁った音が、複雑に交錯した。
俺はチョークで剥離箇所を全て印つけ、それから、壁の一番上から下まで、ノートに音の分布図を書き起こした。
半日、それだけに費やした。
修道院の女たちが、遠巻きに俺を見ていた。
誰一人、声を掛けなかった。
俺は集中していた。
夕方、ようやく診断が終わった。
「剥離面積、壁全体の三十二パーセントです」
俺は修道院長に、ノートを見せながら告げた。
「原因は、下地のコンクリートに、初期の段階で水が回り過ぎていたことです。施工した当時、雨期だったんでしょう」
「そんなことが、分かるのですか」
「剥離のパターンが、上から下へ、垂直に流れています。これは水分が下に溜まって、内側から接着剤を浮かせていったサインです」
俺は、現代日本の現場では、何百回と見てきた剥離パターンだった。
「直せますか」
「直せます。三日くれれば、完全に直して見せます」
修道院長は驚いたように俺を見た。
「五十年、誰にも直せなかった壁を、三日で」
「ええ」
俺は淡々と答えた。
誇示するつもりはなかった。ただ本当に三日でいい。
翌日から、俺は作業を始めた。
まず、剥離箇所のタイルを、慎重に剥がす。
モルタルがほとんど効いていない箇所が大半だったので、これは比較的楽だった。
次に、下地調整。
水湿しを丁寧に行い、補修モルタルで凹凸を均す。
修道院の若い修道女たちが、手伝いに来てくれた。
「これ、何をしているのですか?」
「下地を、平らにしてる」
「そんなに、ピッタリにする必要が」
「ある。下地が一ミリ歪むと、上の仕上げが三ミリ歪む」
修道女たちは、目を丸くした。
俺は、改良圧着張り工法で、新しいタイルを張っていった。
下地にモルタルを塗り、タイルの裏面にもモルタルを塗る。両面でしっかり食いつかせる。
外壁で、剥落が許されない箇所での、定石だった。
モルタルの可使時間は、おおよそ一時間。
俺は時間管理を、頭の中で正確に行った。
日が落ちる頃、一日目の作業が終わった。
俺は手を洗い、修道院の食堂で、簡素な夕食をいただいた。
修道女たちは、俺を、まるで貴族のように扱った。
「拓海様」
「様、はやめてください」
「ですが」
「俺は職人です。ただの、職人です」
俺はパンを齧りながら言った。
修道女たちは、互いに顔を見合わせて、不思議そうに笑った。
二日目、三日目と、作業は順調に進んだ。
目地詰めまで終え、酸洗いで仕上げた。
三日目の夕方、修道院長は壁の前に立ち、無言で見上げていた。
壁面は、まるで新しく生まれ変わったように、滑らかで、清潔だった。
「……信じられません」
修道院長は、目を閉じた。
「これは、神の御業です」
「いえ。職人の業です」
俺は静かに答えた。
「……拓海様」
修道院長の目から、涙が、一筋、流れた。
「五十年です。五十年、私は、この壁が、いつ崩れるかと、毎日、祈ってきました」
「もう、祈らなくても大丈夫です」
「あなた様は」
修道院長は、深く頭を下げた。
「壁の聖人と、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「やめてください。聖人は、リネアさんのほうです」
俺はそう言ったが、修道女たちは、誰一人として、俺を「拓海様」以外で呼ばなくなっていた。
報酬は、銀貨二十枚だった。
現代日本の感覚で、二十万円ほどか。
充分な額だった。
俺は受け取って、馬車に乗ろうとした。
その時、修道院長が、俺を呼び止めた。
「拓海様」
「はい」
「五十年、誰一人として、ハンマーで壁を叩いた者は、いなかったのです」
修道院長は、深く息を吐いた。
「皆、見ようとしました。聞こうとは、しませんでした」
俺は、何も答えなかった。
ただ頭を下げて、馬車に乗った。
馬車が走り出してから、しばらくして、俺は、ポケットからノートを取り出した。
今日の作業記録を、丁寧に書き込んだ。
日付、現場名、施工内容、使用材料、可使時間、温度、湿度。
現代の現場と、何一つ、変わらない記述だった。
俺は、ノートを閉じて、ふと空を見上げた。
異世界の空が、夕焼けで赤かった。
遠くで、修道院の鐘が、長く、鳴っていた。




