第十九章 帰還
目を開けたら、点滴の管が、見えた。
病室の天井は聖堂の天井と違って、白くて小さくて、なんだか懐かしかった。
頭の中が、しばらく空白だった。
ここは、どこだ。
俺は、誰だ。
答えが、徐々に戻ってきた。
石田拓海。タイル工。落下事故。
病院。
異世界。
いや、待て。
俺は、起き上がろうとした。
全身が痛くて、声が、出た。
看護師が、慌てて、駆け寄ってきた。
「石田さん、目が覚めたんですね! 動かないでください」
「ここ、どこですか」
「市立病院です。三週間、意識が、戻らなかったんですよ」
「三週間」
「現場で、足場から、落下されて」
俺は看護師の説明を聞きながら、自分の手を見た。
透けて、いない。
ちゃんと、固体としての手がある。
左胸のポケットに、何か硬いものがあった。
俺はそれを取り出した。
見覚えのない、ペンダントだった。
古い、銀のチェーン。
石が嵌まっていて、その石の中に青い線が走っていた。
古代タイルの、一片。
俺は、息を呑んだ。
夢じゃなかった。
「あ、それ、ご家族の、お見舞いの品ですか」
看護師が、覗き込んだ。
「いえ、大事なものです」
「ええ、綺麗ですね」
俺は、ペンダントを握りしめた。
ひんやりと冷たかった。
そして、温かかった。
退院までに、二週間かかった。
肋骨にひびが入り、背中に擦過傷が、いくつか。
でも奇跡的に、内臓は、無事だった。
医者も、首を、傾げていた。
「この高さから、落ちて、骨折ひびだけ、というのは、信じられない」
「運が、良かったみたいです」
「運というか、何か、別のもので、守られていたんじゃないかな、と」
俺は、笑って、答えなかった。
退院した日の、夕方。
俺は、家に、戻った。
散らかった、独身のアパート。
現場の作業着が、玄関に、放り投げてあった。
俺はそれを見つめた。
四年分の汗が染みついた、古い作業着。
俺はそれをハンガーに、丁寧に掛けた。
翌朝、俺はいつも通り、現場に出た。
会社の事務所に、顔を出した。
社長は、驚いた顔で、立ち上がった。
「拓海、お前、もう、現場に出るのか」
「ええ」
「いや、もう少し、休んでも、いいんだぞ」
「大丈夫です」
社長はしばらく俺を見ていた。
やがて頷いた。
「分かった。今日は、現場の、見回りだけ、頼む」
「了解です」
俺は現場の住所を聞いた。
別の現場で、剥離事故があったらしい。
幸い、人的被害は、なかったが、外壁タイルが、塊で、落下した。
近隣からのクレームで、緊急の打診検査の依頼が、入った、と。
「番頭は、誰ですか」
「権藤だ」
社長は、苦々しい顔で、言った。
「あいつは、今、本社で、説明を、求められている。お前と、入れ違いだ」
俺は頷いて現場に向かった。
現場は、十階建ての、マンションだった。
三日前に、外壁の、タイルが、塊で、落ちた。
幸い、夜中で、誰も、通っていなかった。
でもこれが、昼間だったら。
住人の頭の上に、降ってきていたら。
俺は、現場に着いて、足場の、下に、立った。
所長と、発注元のゼネコンの担当者と、ヴァルトと同じくらいの年齢の、白髪の品質管理者が、待っていた。
「石田さんですね」
ゼネコンの担当者が頭を下げた。
「お忙しいところ、すみません」
「いえ」
「実は、剥離事故の、原因究明と、補修方針を、決めたいのですが」
「わかりました。打診します」
「あ、その前に、書類を」
「書類は、あとでいいです。先に、壁を、診させてください」
担当者は、目を見開いた。
「えっと、はい、どうぞ」
俺は足場に、登った。
久しぶりの、足場の感覚。
でも不思議と、怖くなかった。
俺は、ベルトから、ハンマーを抜いた。
壁面を転がす。
コロ、コロ、ポコ、ポコポコポコ、コロ、コロ、ポコ、ポコ。
濁った音が、ところどころに、混じっていた。
俺は、チョークで、印をつけた。
ノートを、出した。
ノートが、ない。
あと思った。
四年分のノートはリネアに置いてきた。
俺は、しばらく足場の上で、立ち止まっていた。
胸ポケットの、ペンダントを握った。
ひんやりと冷たかった。
俺は、ふと笑った。
大丈夫だ。
書き方は、覚えている。
また新しいノートを、書き始めればいい。
俺は、現場用の、新品のノートを、ポケットから、取り出した。
退院前に、買い溜めていたものだった。
最初のページに、日付と、現場名を、書き込んだ。
書式は、リネアの祖父のノートと、同じだった。
俺は、足場の上で、深く息を吐いた。
ここから、また始める。
現場の壁が、待っていた。
午後一杯、打診検査を続けた。
半径全体の、剥離分布が、見えてきた。
明らかに施工不良だった。
モルタルの量が、規定の半分以下。
しかも、施工写真が、過去の現場の使い回し。
俺は、検査結果を、まとめて、ゼネコンの品質管理者に、提出した。
白髪の品質管理者は、俺のノートを、めくりながら、息を呑んだ。
「これは……」
「全部、剥離しています。半径全体、施工不良が、原因です」
「証拠は」
「俺の、打診音の記録です。それと、剥離面の写真は、これから、撮ります」
「施工写真の、不一致は」
「そっちは、現場事務所の、書類を、調べていただければ、すぐに、出ます」
白髪の品質管理者は、深く頷いた。
「分かりました」
俺は、頭を、下げて、その場を、離れた。
帰り道、夕日が、街を、染めていた。
俺は、胸ポケットの、ペンダントを握った。
あの聖堂の、ステンドグラスを、抜けた、夕日と、同じ色の、空だった。




