第二十章 終わりの光景
足場の上、午前六時半。
鏝を握る指の腹に、コンクリートの冷たさが滲んだ。
一年前と同じ朝だ。
なのに、何もかもが違って見えた。
あれから半年が経っていた。
あの剥離事故の現場で、俺の打診検査が決定打となった。
番頭の権藤の施工写真の使い回しと、打診検査のサボりが、すべて明るみに出た。
現場事務所の書類を、ゼネコンの品質管理者が徹底的に洗い直した結果だった。
権藤は本社で懲戒処分を受けた。
うちの会社もゼネコンから、指名停止を食らいかけた。
でも俺の打診検査が即座に入って、被害を最小限に食い止めた。
最終的に、会社は業務改善命令で済んだ。
権藤は会社を去った。
誰かがねじ曲げて押し込めた半端は、いつか必ず剥がれ落ちる。
千年後ではなく五年で、それが来たというだけだった。
俺は現場の足場の上で、ハンマーを転がしていた。
コロ、コロ、コロ、コロ──。
澄んだ音が続いた。
今日の現場は、新築マンションの外壁タイル。
俺は最終検査を任されていた。
半年前まで見習いの仕事だったのが、今は最終検査の責任者。
社長から直々に依頼された仕事だった。
「拓海、お前、ベテラン職人にもできないことをやってる」
「いえ、普通のことをしているだけです」
「その『普通』ができないんだ。お前、自覚しろ」
社長は苦笑して言った。
「俺、会社の研修で、若い職人にお前の打診のやり方を教えたい。来週、頼んでもいいか」
「ええ、いいですよ」
俺は頷いた。
千年前のロウェン師が自分の弟子に、技術を伝えたように。
俺も次の世代に伝える番だった。
足場の上で、俺は深く息を吐いた。
風が頬を撫でた。
春先の薄曇り。
遠くで、別の現場の削岩機の音が響いていた。
ふとベルトからハンマーを抜いた。
久しぶりに、その重みを確かめる。
胸ポケットのペンダントが、心臓の上で軽く揺れた。
俺はそれをシャツの上から軽く押さえた。
ひんやりと冷たかった。
そして、温かかった。
昼休み、俺は足場の隅で弁当を広げていた。
飯を口に運びながら、空を見上げた。
春先の薄曇り。
風がゆるく流れていて、現場の砂埃を遠くへ運んでいた。
一年前と同じ景色。
でも見える色は、違った。
「拓海さんよ」
隣に来たのは、二回り上のベテラン職人の田島さんだった。
「お前、ノート、まだ続けてるのか」
「ええ」
俺は新品のノートを取り出して見せた。
まだ半年分の記録しかないが、ぎっしりと書き込まれていた。
「やっぱり、お前、十年続けたら、目で見えないものが見えるようになるな」
「もう、見えてる気がします」
「ほう」
田島さんは煙草の煙を細く吐いた。
「お前、変わったな、拓海」
「そうですか」
「一年前は、もっと自信がなさそうな目をしていた」
俺は笑った。
「色々、ありましたから」
「色々、か」
「ええ」
田島さんは、それ以上聞かなかった。
ベテラン職人は、人の事情に深入りしない。
俺はそれが有難かった。
昼休みが終わって、俺は再び足場に戻った。
壁を叩く。
ポコ──。
濁った音が一箇所あった。
今日の現場は新築。普通なら剥離はないはずだ。
でもある。
俺はチョークで印をつけた。
ノートに記録を書き込んだ。
日付、現場名、位置、音の種類、深さの推定。
ロウェン師の書き方と、同じ書式。
四年前、田島さんに教わって始めた癖。
千年前から続いている、職人の手の癖。
俺は書きながら、ふと思った。
世界はタイルでできていると、リネアは言った。
もしそうなら、俺の仕事は世界を直す仕事だ。
それは、どっちの世界でも変わらない。
異世界の聖堂でも、現代日本のマンションでも。
壁を叩いて、剥離を見つけて、直す。
地味な仕事だ。
誰も褒めてくれない。
ベルトに銀色の白金ランクの札もない。
でもいい。
壁は嘘をつかない。
壁を叩けば、必ず答えてくれる。
その答えを聞ける耳を、俺はこれから十年以上、続けて磨いていく。
それが俺の仕事だ。
夕方、俺は足場を降りた。
現場を片付けて、帰り支度を始めた。
道具袋を肩に担いで、現場の門を出た。
空が夕日で赤かった。
遠くで、街の鐘が長く鳴っていた。
あの聖堂の鐘と、似ていた。
いや、似ていない。
でも不思議と、懐かしかった。
俺は胸ポケットのペンダントを出して、夕日にかざした。
古代タイルの青い線が夕日を受けて、淡く光った。
リネアは今、何をしているだろうか。
次の壁の守人を、育てているだろうか。
ヴァルト辺境伯は辺境の町で、変わらず領民を見守っているだろうか。
グロウブ老はまだ生きているだろうか。
ミラ受付嬢は銀色の登録札を、誰かに渡しているだろうか。
俺は笑った。
多分、皆、元気だ。
世界の目地は、繋がっている。
それは俺の足元の、新築マンションの壁の目地と、同じくらい確かなものだ。
俺はペンダントを胸ポケットに戻した。
歩き始めた。
明日は別の現場だ。
また新しい壁を診る。
また新しい音を聞く。
また新しいノートを書く。
現場のいつもの朝が、明日も待っていた。
俺は足を止めた。
深く息を吐いた。
空に向かって軽く頭を下げた。
誰に、というわけでもない。
強いて言うなら、千年前の職人と、千年後の職人の、両方に。
夕日が俺の背中を長く照らしていた。
現場の、終わりの光景だった。
明日もまた続く光景だった。
了




