59.2/17 オレンジ祭り
ライブ会場へ向かって歩いていた、その時だった。
ぽこんと背中に何か柔らかいものが当たる。
「来た! これだな!」
振り返ると、小さなオレンジ色のボールがテン、テン、と床を跳ねながら転がっていった。
その先には、ニコニコ顔のクルーが立っている。片手にはスタンプを持っていて、私と目が合うと笑顔で近寄ってきた。
「どこに押しますか?」
「じゃあ、腕で。」
左腕を差し出すと、
ぽんっ。
軽い音とともに、オレンジの実をかたどった可愛らしいスタンプが押される。
「はい、ありがとうございます! 楽しんでくださいね!」
そう言ってクルーは手を振ると、また別の乗客へ向かってオレンジボールを投げに行った。
「ほう、これが。」
私は腕を持ち上げ、押されたばかりのスタンプをまじまじと眺める。
今日の船内新聞で読んでいたから知っている。
今日はイテリアのオレンジ祭りの日だ。
本場では、本物のオレンジを大量に投げ合う豪快なお祭りらしい。それを船内向けにアレンジしたのが、このイベントだった。
クルーからオレンジ色のボールを当てられるとスタンプを一つ押される。逆に、船内ショップで販売されているオレンジボールを購入すれば、乗客がクルーに投げてもスタンプを押してもらえるらしい。
もちろん、どちらも優しく投げるのがルールだ。
参加したくない人のための配慮もある。赤いものを身につけている人にはボールを投げない、と船内新聞に書かれていた。
私はこういうイベントには参加したいタイプなので、今日は赤い服も小物も身につけていない。
植物由来の水性インクで押されるスタンプも、石鹸で簡単に落ちるそうなので安心だ。
夕方にはエントランスホールで、最も多くスタンプを集めた人が「キングオレンジ」や「クイーンオレンジ」として表彰されるらしい。
廊下を歩いていると、あちこちで小さな歓声が聞こえてくる。
「あっ、当たった!」
「やった、三個目!」
「逃げろー!」
クルーも本気で追いかけ回すわけではなく、歩いている人へ気軽にボールを放ったり、物陰からひょいと顔を出して投げたりと、どこか鬼ごっこのような雰囲気だ。
ボールが飛ぶたびに笑い声が起こる。
ライブへ向かうだけの通路まで、お祭り会場になっていた。
きっと、たくさん当ててもらおうと船中を歩き回る人もいるのだろう。
私はというと、そこまで熱心ではない。
『そこそこでいいかな。』
一つ、二つくらいスタンプを押されて、お祭り気分を味わえれば十分満足だ。
ライブ会場に着くと、会場の話題はオレンジ祭りに染められていた。
積極的にボールに当てられに行ったのか、腕や足だけでなく、顔までオレンジの水玉模様になっている人もいる。
「オレンジ色になってきてますね!」
「そうだろ? 朝から船内で投げ続けているからな!」
顔見知りになっていた男性に声をかけると、いい笑顔でポケットからオレンジボールを取り出した。
「ボール買ったんですね。」
「もちろん。でも、赤いスカーフをしているクルーもおおくて、当てていいクルーを捜すのが大変だよ。」
「なるほど、クルーも赤いものを身につけるんですね。」
「そうだよ。間違って当てても怒られやしないだろうが、スタンプを押してもらえなきゃ意味がないからな。」
自分の腕をトントンと指で叩きながら首を振る。
「キングオレンジ目指してくださいね。」
「ああ、ぜひなりたいね!」
笑い合っているとピアノの音がして、ロザンナ先生から声がかかった。
ライブが終わり、会場を出た私は、なんとなく辺りを見回した。
さっき聞いた話が気になっていたのだ。
『たしかに、いないね。』
思わず小さくつぶやく。
赤いスカーフを首に巻いているクルーが思った以上に多い。
案内係や清掃のスタッフ、ショップの店員さんまで、結構なクルーが赤いスカーフを身につけている。
一方で、参加しているクルーは分かりやすかった。
腰にオレンジボールを入れた小さなポーチを付けていたり、手にボールを持って歩いていたりする。
乗客を見つけると、ぽこん。と優しく当てては、「どこに押しますか?」とスタンプを押している。
とはいえ、積極的にボールを投げ歩いているクルーは、それほど多くない。
ボールは持っていないけど、スカーフもしていないクルーの方がまだ多そうだ。
なるほど、これなら「キングオレンジ」を目指す人は、当てていいクルーを探して船中を歩き回る必要があるわけだ。
結局、そのあと私がボールをぶつけられたのは、お昼ごはんを食べに行ったビュッフェ会場だけだった。
食事を楽しんでいると、ボールを抱えたクルーが何人か列になって入ってきて、
「失礼しまーす!」
と笑いながら順番に乗客へボールを当てて回る。
ぽこん。
「はい、一つ追加です!」
二つ目のスタンプが左腕に並んだ。
食事中だったこともあり、会場は笑い声に包まれる。
その後は、船内を歩いていても誰にも当てられなかった。
私は腕を持ち上げ、二つ並んだオレンジのスタンプを眺める。
『……二つか。』
十分と言えば十分。
最初は「そこそこでいい」と思っていたはずなのに、不思議なものだ。
みんなが楽しそうにスタンプを増やしているのを見ているうちに、
「もう少し参加してもよかったかな。」
と、少しだけ惜しい気持ちになっていた。
こういうのは、終わりが近づいてから欲が出る。
人間って単純だなぁ、と自分でも思う。
やがて夕方になった。
キングオレンジは誰になったのだろう。
少し気になって、私はエントランスホールへ向かうことにした。
ホールへ近づくにつれ、人の流れがどんどん増えていく。
着いてみると、予想以上の人だかりだった。
一階はもう乗客でぎっしり埋まり、吹き抜けを囲む二階の通路にも何重もの人垣ができている。
これはもっと上に行くしかないかなぁ……。
背伸びをしながら、どこか顔を出せそうな場所はないかと視線を巡らせる。
すると、
「サクラー!」
聞き慣れた声が上から響いた。
声のする方を見ると、三階の手すり越しにマリナとウィリアムが大きく手を振っている。
「こっち! こっち!」
マリナが身を乗り出すようにして手招きしていた。
私は手を振り返しながら階段を上った。
三階はまだ人がぎゅうぎゅうというほどではなく、手すり際にも少しだけ隙間が残っている。
「入れるよ!」
マリナが身体をずらして場所を作ってくれた。
「ありがとう。」
マリナの隣に入り込んでようやく一息つく。
そして改めて二人を見ると、思わず目を丸くした。
「え、スタンプすごくない?」
腕だけじゃない。
手の甲、首筋、ふくらはぎまで、ところ狭しとオレンジのスタンプが並んでいる。
「そ〜でしょ?」
マリナは得意げに両腕を広げて見せた。
その奥でウィリアムが苦笑いを浮かべる。
「わざわざボールまで買って、クルーを追いかけ回したからね。」
「あはは! 追いかけ回したんだ!」
「そう、頑張ったのよ。」
マリナは誇らしげに胸を張る。
「向こうが逃げるなら追いかけるしかないじゃない。」
「狙われる側じゃなくて狙う側だったんだ。」
「もちろん!」
あまりにも迷いのない返事に笑ってしまう。
「クイーンオレンジ、狙わなかったの?」
そう尋ねると、マリナは「あ〜」と残念そうな顔をした。
「それがねぇ……私たちには覚悟と事前情報が足りなかったのよ。」
「覚悟と事前情報? え、事前情報?」
「下、見て。」
マリナが一階を指差した。
「あれがキングオレンジとクイーンオレンジの挑戦者。」
私は手すりから少し身を乗り出す。
エントランスホール中央には十数人ほどの参加者が一列に並んでいた。
全員がオレンジ色の服を着ていて、顔中にスタンプが押されている人や腕などもう地肌が見えないくらいオレンジ色の人。
「うわぁ……。」
思わず声が漏れた。
スキンヘッドの男性など、頭のてっぺんまでびっしりオレンジ色だ。
「顔までオレンジ!」
「そう。それが覚悟。」
マリナが重々しくうなずく。
「でね、もう一つ。」
「事前情報?」
「そう。」
マリナは挑戦者たちを指差した。
「あの服。」
「服?」
「近くで見ると分かるけど、元は白い服なのよ。」
「ええ?」
思わず身を乗り出してもう一度目を凝らす。
確かに。
よく見ると、全員がオレンジに少し緑が浮き上がる、不思議な色合いの上下を着ている。
「ほんとだ……!」
「ね?」
「うわぁ……この日のためだけに白い服を着てきたってこと?」
「そういうこと。」
「さすがにインク、落ちないよね。」
「落ちないだろうね。」
ウィリアムが苦笑いで答える。
「私も白い服着たかった!」
マリナが悔しそうに拳を握った。
その姿があまりにも本気で、私は吹き出してしまう。
「いやいや、どんだけ本気なの。」
「どこまでも本気よ!」
即答だった。
「汚れても惜しくない白い服を持ってきてなかったのが、本当に悔やまれるわ〜。」
ウィリアムはやれやれ、と大げさに肩をすくめた。
そんなやり取りに三人で笑っているうちに、会場の照明が少し落ちた。
軽快な音楽が流れ始め、司会者がステージへ飛び出してくる。
「お待たせしましたー! それでは今年のキングオレンジ&クイーンオレンジを決定します!」
わっと歓声が上がる。
エントランスホール中の視線が中央へ集まった。
先ほど見えていた挑戦者たちが一列に並び、司会者が一人ずつ紹介していく。
「こちらは朝八時から参加!」
「こちらはクルーに百回以上ボールを当てたそうです!」
紹介されるたびに笑いや拍手が起こる。
「百回って……。」
私は思わずつぶやいた。
「本気勢よ。」
マリナが感心したように頷く。
「私たちなんて、まだまだだったわ。」
「十分本気だったと思うけど。」
ウィリアムのぼやきに、また笑いが漏れる。
やがて司会者の音頭で、参加者の誰が優勝か会場の拍手できめることになった。
順番に拍手が沸き起こり、いよいよ優勝者が決まったようだ。
「それでは発表します!」
ドラムロールが流れる。
会場中が息を呑んだ。
「今年のキングオレンジは──こちら!」
スポットライトが一人の男性を照らす。
見事なスキンヘッドまでオレンジ色のスタンプで埋め尽くされた男性だった。
「おおー!」
納得したような拍手と笑いが起こる。
「あれは勝てない。」
思わず私も苦笑した。
「続いて、クイーンオレンジは──こちら!」
今度は一人の女性にスポットライトが当たる。
元は真っ白だったのだろう。
膝丈のワンピースは、オレンジ色のスタンプが何重にも重なり、今では淡い橙色に染まっていた。
袖も裾も、どこを見てもオレンジ色だ。
「すごーい……。」
思わず感嘆の声が漏れる。
「あの服、勲章ね。」
マリナが羨ましそうに見つめる。
「本気でそう思ってる。」
ウィリアムが笑うと、「もちろん。」マリナは即答だった。
私が笑うと、三人とも吹き出した。
壇上ではキングとクイーンに賞品が手渡されている。
司会者が大きく掲げたそれを見て、会場からまた笑いが起こった。
「賞品はアースイテリア限定! オリジナルオレンジTシャツです!!」
鮮やかなオレンジ色のTシャツ。
胸には大きく、笑顔のオレンジイラストが描かれている。
「そこもオレンジなんだ。」
「徹底してるわね。」
「あはは!」
会場中が和やかな笑いに包まれた。
キングとクイーンは、その場でさっそくTシャツを受け取ると、司会者に促されて上に重ね着する。
オレンジ色のスタンプだらけの身体に、鮮やかなオレンジ色のTシャツ。
これ以上ないほど祭りらしい姿だった。
二人が満面の笑みで両手を振ると、会場中から大きな拍手と歓声が送られる。
私も手を叩きながら思う。
優勝を狙うほどではない。
でも、見ているだけでなんだか楽しい。
世界には、本当にいろいろなお祭りがあるものだ。




