55.2/13 緊急搬送
部屋でのんびり仕事をしていた時、船内アナウンスが流れた。
「乗客の皆様へお知らせいたします。本日、医療上の理由により緊急搬送が行われます。安全確保のため、搬送完了まで外部デッキへの立ち入りを禁止いたします。ご理解とご協力をお願いいたします。」
いつもより少し硬い声に私は顔を上げた。
『緊急搬送?』
客船だから具合が悪くなる人はいるだろう。けれど、ここは異世界を巡る大型船だ。普通のドクターヘリではなく──竜の一種、ワイバーン便が来るはずだ。
緊急搬送だというのに、『ワイバーンを見てみたい。』そんな不謹慎な好奇心がむくむくと頭をもたげる。
もちろん、搬送される人の無事を願う気持ちはある。 あるのだけれど、それとこれとは別問題だった。
医療搬送用のワイバーン。
どんな装備をしているのか。 どうやって患者を運ぶのか。 船の上にどうやって着陸するのか。
気にならない方がおかしい。
ほんの少しだけ葛藤した末、私はあっさりと良心に負けた。
『ごめんなさい。』
誰にともなく呟いて、私は仕事を中断した。
机の上に資料を置きっぱなしにしたまま部屋を飛び出す。
廊下に出た瞬間、同じ方向へ向かう人影が何人も見えた。みんな考えることは同じらしい。なんだか少し安心する。野次馬仲間だ。
私は早足でメインプールが見える廊下へ向かった。
すると案の定だった。
人。
人。
人。
窓際という窓際に乗客が並んでいる。
年配の夫婦。
紳士然とした男性。
きれいなおねえさん。
船員に「立ち止まらないでください」と言われながらも、少しでも見やすい場所を探してうろうろしている人。
誰もが窓の外を見つめていた。もちろん騒いでいるわけではない。搬送される人がいる以上、お祭り騒ぎにしてはいけない空気は皆わかっている。
けれど。
「まだかな。」
「どこから来るんだろう。」
「私、初めて見るわ。」
「昼間でよかったな。」
「夜だと迫力ありそうだけど怖そうね。」
そんな小さな声があちこちから聞こえてくる。
静かではあるけれど、船全体がそわそわしているような雰囲気だった。
私も空いている場所を探して人の隙間を縫う。
幸い、少し端の方に小さなスペースが見つかった。
「すみません。」
「どうぞ。」
親切な老婦人が少し場所を詰めてくれる。
「ありがとうございます。」
頭を下げて窓際に立つと、ようやく視界が開けた。
眼下にはメインプール。誰かが遊び、昼寝をする人が寝そべっている場所だが、今は完全に立入禁止になっている。
プールサイドには船員たちが慌ただしく行き来していた。救護班らしい人もいる。大きな布で囲いが作られ、患者の姿が見えないよう配慮されているのがわかった。
その様子を見て、少しだけ胸がきゅっとなる。
本当に緊急事態なのだ。どうか無事でありますように。
そう願いながらも、私は何度も空へ視線を向けてしまう。
青く晴れた空。
白い雲。
どこまでも広がる海。
まだ何も見えない。
「船の医療室じゃ診れないくらい悪いのかしらね?」
「そうなんだろうな。我々も明日は我が身。気をつけような。」
「本当にね〜!」
隣のご夫婦のそんな会話を聞いていた時だった。遠くを見ていた誰かが声を上げた。
「あ⋯⋯!」
空気が変わる。何十人もの視線が一斉に海の向こうへ向いた。
私も慌てて目を凝らす。
最初はただの黒い点だった。けれど、その点は確実に大きくなっている。海の上を一直線に近づいてくる影。やがて翼が見えた。さらに近づき、その輪郭がはっきりした瞬間、あちこちから感嘆の息が漏れた。
「わぁ……。」
私も思わず声を漏らす。
大きい。
思っていたより、ずっと。
翼を広げれば十メートル以上ありそうな濃い茶色のワイバーンが、一頭だけ海上を滑るように飛んでくる。
陽の光を受けて艶やかに光る鱗。
風を切るたびにゆっくりとしなる翼。
鋭い鉤爪。
遠目でも猛獣だとわかる迫力があった。
羽根と羽根の間には専用の鞍が設けられており、騎手らしい人物が器用に手綱を操っている。その後方には箱型の小屋のようなものが固定されていた。窓が付いていて、まるで空飛ぶ救急車だ。
「本当に来たな……。」
隣の旦那さんが感心したように呟く。
誰もが窓に釘付けになっていた。
ワイバーンは船の周囲を大きく一度旋回した。巨大な翼が陽光を反射してきらりと光る。その姿は美しくて、同時に恐ろしい。
あんな生き物が頭上を飛んでいるのだと思うと、少し背筋がぞくりとした。
そしてメインプール上空まで来ると、今度はその場で羽ばたきを始めた。
ホバリングだ。
バサバサッ! バサバサッ!
翼が空気を叩く重低音が窓越しにも伝わってくる。プールの水面が激しく波立ち、白い飛沫が踊った。デッキチェアの固定されていないタオルがばたばたと暴れ、船員たちの制服も風にあおられる。
乗客たちから小さなどよめきが起こった。
「すごい……。」
「風が見えるみたいだ。」
誰かがそう呟く。本当にその通りだった。風そのものに形があるようだった。
ワイバーンは慎重に高度を下げていく。
そしてプールサイドに設置されていた鉄骨の台──普段は見かけない専用設備らしい──に向かってゆっくりと降下した。
ガシャン。
大きな鉤爪が鉄骨を掴む。
もう片方の足も着地する。
ワイバーンは翼を二、三度大きく広げてバランスを取り、それからゆっくりと畳んだ。
ようやく風が収まる。
「すごい……。」
「ヘリコプターみたい。」
「あれだけ大きいのに器用ね。」
思わず周囲から拍手が起こりかけて、誰かが慌てて手を止めた。
そうだった。これはショーじゃない。緊急搬送だ。
みんな同じことを思ったのだろう。すぐに静けさが戻る。
着地したワイバーンは意外なほど大人しかった。
黄色い瞳で周囲を見回しながら、じっと待機している。
時折キョロキョロと顔を動かしたり、尻尾がゆっくり揺れるだけだ。
すると鞍から騎手が飛び降りた。革と金属でできた制服を着ている。
すぐに船の医療スタッフが駆け寄り、何か短いやり取りを交わした。
騎手が頷く。
同時に、後方の箱型キャビンの扉が開いた。
「中、ちゃんと部屋になってる。」
私の隣にいた女性が驚いた声を出した。
確かにそうだった。
中にはベッドらしきものが見える。棚もある。小さな診療室のような造りだ。
魔法灯らしい柔らかな光まで灯っていた。
ほどなくして、プールサイドに作られていた目隠しの向こうからストレッチャーが現れた。
その瞬間、窓際にいた全員の空気が変わる。
誰も喋らない。誰も騒がない。搬送される人の姿は布で隠されていて見えなかった。
それでも、なんとなく祈るような気持ちになる。
無事でいてほしい。それだけだった。
医療スタッフたちは慣れた手つきで患者をキャビンへ運び込む。
騎手が最終確認を行い、船医と何か言葉を交わした。
そして扉が閉じられる。
ガチャン。
その音が妙に重く聞こえた。
ワイバーンが首をもたげる。騎手が再び鞍へ飛び乗る。
「帰るんだ。」
誰かが小さく呟いた。
次の瞬間。
ドォッ!!
再び巨大な翼が広がった。
風が吹き荒れる。プールの水が白く弾ける。
そしてワイバーンは鉄骨を蹴った。巨体がふわりと浮く。重そうな体なのに、不思議なほど軽やかだった。
二度、三度と羽ばたくとみるみる高度が上がっていく。
ワイバーンは船からゆっくり離れ、高度を上げ、そして一気に加速した。
数秒後にはもう空の彼方へ向かっている。
ラウンジには自然と拍手が起きた。
搬送された人への応援の気持ちだったのかもしれない。
無事でありますように。
そんな願いが込められていた気がした。




