54.2/12 ベネチアンマスク
『今日はなにがあるのかな〜?』
朝ごはんを食べ終えた私は、コーヒーを片手に船内新聞を広げた。午前中には仕事も一区切り出来そうだし、のんびり過ごそうと思っていたのだ。
パラパラと新聞をめくる。
船内ニュース。 本日のレストラン特集。 夜のショーの案内。
そのままイベント欄へ目を移した。
社交ダンスレッスン。カクテル講座。セルマー伝統刺繍教室。世界のチーズ試食会。
相変わらず盛りだくさんだ。
『チーズはちょっと気になるなぁ。』
小さく呟きながら先へ進む。
すると、一つの項目で手が止まった。
【ベネチアンマスク製作体験】
『お。』
思わず声が漏れる。
ベネチア。
そういえば、この船は世界一周をしながら各地の文化を紹介するイベントが多い。
寄港前にその土地の料理を作ったり、伝統工芸を体験したり。 乗客が飽きないよう、本当によく考えられていると思う。
今回もその一環なのだろう。
説明文を読み進める。
・ベネチアのカーニバルで使用される仮面を、自分好みに装飾して制作します。
・制作したマスクはお持ち帰りいただけます。
・一週間後に開催予定のベネチアカーニバルイベントでも着用可能です。
『へぇ〜。』
私は思わず身を乗り出した。船内新聞には小さな写真も載っている。
白地に金の模様が描かれた優雅な仮面。
羽根飾りのついた華やかな仮面。
宝石みたいな装飾が散りばめられた豪華な仮面。
どれも映画で見たことがあるような、いかにもヨーロッパの仮面舞踏会という雰囲気だ。
『楽しそう。』
しかも一週間後には船内でベネチアカーニバルイベントまであるらしい。せっかく世界一周クルーズに来ているのだから、こういう体験は積極的にしてみたい。
それに──
みんなも来そうだな。
なんとなくそう思った。
私は申し込みページを開いた。人気イベントらしく、残席数は思ったより少ない。
『おっと。』
慌てて申込みボタンを押す。
数秒後。
「お申し込みを受け付けました」
という表示が現れた。
よし。
私は満足して頷いた。
完成したマスクをつけて歩く自分を想像してみる。
……うん。
少し恥ずかしい。でも、だからこそ面白そうだ。
船の上という非日常は、人を少しだけ大胆にする。
新聞を閉じながら、私は一週間後のカーニバルイベントに思いを馳せた。
さて。
まずは仕事を終わらせよう。
午後。
指定されたエントランスホールへ向かうと、いつもは人が行き交うだけの広い空間が、すっかり工作教室のような雰囲気になっていた。
長机が何列も並べられ、その上には真っ白なマスクが整然と置かれている。
羽根。 ビーズ。 レース。 リボン。 金銀の塗料。 ラメ入りの絵の具。
色とりどりの装飾品が山のように積まれていて、見ているだけでわくわくしてくる。
『わぁ……!』
思わず声が漏れた。
きらきら光る素材たちは宝箱をひっくり返したみたいで、まだ何も作っていないのに楽しい。こういうの、絶対好きな人多いと思う。何を作ろうか想像するだけで時間が溶けそうだった。
「あら、歩く花畑。」
聞き慣れた声に振り返る。
そこにいたのはマリナだった。
その後ろにはアマンディーヌもいる。
「やめてよ〜もう!」
昨日の鳥型モンスター事件以来、どうやらそのあだ名が定着しつつあるらしい。
花を浴びて鳥に追い回された出来事を思い出し、思わず頬が熱くなった。
「二人も来たの?」
「うん。面白そうだったから。」
マリナが当然のように答える。
「私も。せっかくだもの。」
アマンディーヌも微笑んだ。
どうやら考えることは同じだったらしい。
三人並んで空いている席に腰掛ける。
周囲を見渡すと、女性客がやや多いものの、意外と男性の姿もある。夫婦で参加している人もいれば、友人同士らしいグループもいる。中にはすでに真剣な顔で装飾品を吟味している人もいた。
ほどなくして、講師役らしいスタッフが前に立った。
「本日のマスクは、伝統的なベネチアンマスクを参考にしたものです。ただし、装飾は自由です。正解はありませんので、お好きなように仕上げてください。」
会場から小さな笑い声が上がる。
私が芸術系のイベントで一番困る言葉だ。
正解がない。つまり何を作ってもいい。つまり何を作ればいいかわからない。
「また、同じ内容の製作体験を明日と明後日も行います。本日中に完成しなくても構いません。続きは後日でも大丈夫ですよ。」
その言葉に会場全体の肩の力が少し抜けた。確かに、こういう作業は時間が足りなくなりがちだ。安心したような空気が流れる。
「それでは、まず土台となるマスクをお選びください。」
スタッフがそう言うと、参加者たちが一斉に立ち上がった。私たちも列に加わる。
テーブルの上には様々な形のマスクが並んでいた。
目元だけを隠す小ぶりなもの。
顔の半分を覆うもの。
頬まで覆う豪華なもの。
そして──。
異様に鼻の長いマスク。
まるで鳥のくちばしみたいな形をしたそれを見た瞬間、マリナが吹き出した。
「サクラ、鳥の女王の仮面があるわよ!」
「なにそれ!」
思わず笑う。
昨日だけで十分鳥とは縁があった。
これ以上増やさなくていい。
「あら、医者の仮面ね。」
アマンディーヌがさらりと言った。
「知ってるの?」
「ええ。昔のペスト医師が使っていた形よ。」
「へぇぇ……。」
私は改めて長い鼻を眺める。
確かに言われてみれば見たことがあるようなないような気がする。不思議な形だなと思っていたけれど、ちゃんと意味があったらしい。
「でもちょっと怖いね。」
「夜に廊下ですれ違いたくないわ。」
アマンディーヌの言葉に三人で笑った。
その横で、マリナは早くも一枚を手に取っていた。
目元だけを覆う、曲線の美しいマスクだ。
「私はこれ。」
「決めるの早いね。」
「だって可愛いじゃない。」
くるりと顔に当てて見せる。確かに似合いそうだった。マリナは華やかな装飾が好きだから、完成品もきっと派手になるだろう。
アマンディーヌは少し悩んだ末、左右対称の上品な形を選んだ。
「私はこれにするわ。」
「なんかアマンディーヌっぽい。」
「そう?」
「うん。なんか気品がある。」
「ふふふ。」
照れたように笑う。
さて、私はどうしよう。
いくつか顔に当ててみる。目元だけのものも可愛い。でもせっかくだから少し大きい方が飾り甲斐がありそうだ。
鼻の長い仮面は……ない。絶対にない。鳥が寄ってきそうだ。
結局私は、顔の上半分を覆うオーソドックスな形を選んだ。派手にもできるし、上品にもできる。何より失敗しても誤魔化せそうだ。
席に戻り、真っ白な仮面を膝の上で眺める。
周りでは早速絵の具を選び始める人もいれば、装飾品を吟味している人もいる。
羽根の山とビーズの山を交互に見た。
『……さて。』
問題はここからだ。
私は絶望的に美術のセンスがないのである。
そこからが大変だった。
自由。自由とは⋯!
「何色にしよう……。」
筆を持ったまま固まる。
金も綺麗だ。
青もいい。
白を活かすのもありかもしれない。
ああ、どうしよう⋯⋯。
「サクラってこういうの時間かかるタイプだろ。」
悩んでいると後ろから声がした。
振り返るとセルヒオだった。
「え、なんでいるの?」
「俺も申し込んだから。」
そう言って席に座る。
「意外。」
「写真映えしそうだったからな。」
なるほど。
セルヒオらしい理由だった。
ちなみに彼はすでに構想が決まっているらしく、迷いなく黒と銀を塗り始めている。
早い。
「写真撮る人ってデザイン得意なの?」
「いや全然。」
「じゃあなんでそんな迷いないの。」
「迷うの面倒だから。」
なんだそれ。思わず笑ってしまう。
結局私は深い青を基調にした。海みたいな色。
船旅の記念にもなるだろう。
そこへ銀色でぐるぐるとよくわからない模様を描き、白い羽根をつけていく。
作業に集中していると、あっという間に時間が過ぎた。
周囲を見渡せば、みんな個性が出ている。
マリナはピンクと金を中心にした華やかなもの。
アマンディーヌは白と金で統一された上品な仕上がり。
セルヒオは黒地に銀模様。
なんだか怪盗みたいだ。
「かっこいいじゃん。」
「そうか?」
本人はあまり気にしていないらしい。
でも似合いそうだった。
最後にみんな仮面をつけて記念撮影が行われた。
色とりどりのマスクがずらりと並ぶ。
同じ土台だったはずなのに、一つとして同じものがない。
「面白いね。」
私が呟くと、
「ね。」
アマンディーヌが頷いた。
「性格が出てるわ。」
確かに。
派手な人は派手。繊細な人は繊細。シンプルな人はシンプル。
作品を見るだけで、なんとなく作った人がわかる気がする。
完成したマスクを箱にしまいながら、私は満足した気持ちになった。
寄港地を巡るのも楽しい。
でもこういう船の中でしかできない体験も、結構好きかもしれない。




