52.2/10 二人でバーへ
午前の柔らかな光を受けながら廊下を歩き、ライブ会場へと到着した。
コーラスの練習が始まるとまだ頭も体も完全には起ききっていないはずなのに、声だけは不思議とよく出た。
今日、なんだか調子いいぞ?
自分でも少し不思議に思いながら、楽譜を目で追う。特別なことは何もしていない。
ただ⋯⋯ちょっと、浮ついているかもしれない。
原因に心当たりがないわけじゃない。
今夜。セルヒオと、二人でバーに行く約束がある。
それだけ。たったそれだけのこと。別に、そんなに意識してるわけじゃないし。
心の中で何度もそう言い聞かせる。
ただの食事。ただの飲み。
深い意味なんてない。……たぶん。
音を伸ばすたびに、頭の片隅にその予定がちらつく。何を着ていこうとか、どんな話になるんだろうとか、そんな断片がふわふわと浮かんでは消える。
集中、集中⋯⋯!
軽く息を整えて、楽譜に意識を戻す。それでも、声はやけに軽やかだった。
練習はそのまま進み、最後の通しもきれいにまとまった。
「はい、今日はここまでにしましょう。」
ピアノの音が止まり、空気がふっと緩む。無事に終わった。
「アオヤマさん。」
呼ばれて振り返ると、ロザンナ先生が立っていた。
優しい笑顔のまま、少しだけ目を細める。
「今日は何かいいことでもあるのかしら? 声がいつもより楽しそうでしたね。」
その一言に、どきりと胸が鳴った。
なにに出てた? 顔? 声?
「どうでしょう? 特に何もないと思うんですけど。」
とっさにそう返すけれど、少しだけ早口になった気がする。
先生は一瞬だけこちらを見て、「あら、そう? ふふふ。」と意味ありげに笑った。その笑い方に、完全に見透かされている気がして、なんだか落ち着かない。
「声は正直ですからね。」
ぽつりと付け足される。それ以上は何も言わないのに、妙に響く。
「……そうなんですね。」
曖昧に笑ってごまかすしかない。そんなにわかりやすいのかな、私。自分では平静を装っているつもりなのに。
会場を出て、廊下を歩く。窓から差し込む光が少し強くなっていて、もうすぐ昼になるのがわかる。
鞄を肩にかけながら、無意識にスマホを取り出す。
まだ時間はあるのに、今夜の約束のメッセージを確認してしまう。
既読もついているし、特に変わったことはない。
うん、普通。
画面を閉じる。
ただの約束。ただの飲み。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思おうとしているのに、口元が少しだけ緩むのを止められない。
『……気にしない、って難しいな。』
小さく呟いて、私はスマホを鞄にしまった。
午前中は、まだ長い。
でもその先にある夜を、どこかでちゃんと楽しみにしている自分がいる。それを認めないまま、私はゆっくりと歩き出した。
着るものを迷って、少し「ちゃんとし過ぎてる」かなとあまり着ていなかった船内用ワンピースにした。
いや、私だって迷ったけど、船内のワンピースか寄港日用の動きやすいパンツスタイルか、はたまた浴衣かドレスしかなかったのよ!
おかしくないよね? 気合い入れ過ぎでもないよね?
鏡の前でくるりと一回転して頷いた。
『……うん、おかしくない。』
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
『気合い入れ過ぎでもない。たぶん。』
そう、たぶん。
ドキドキするのを気づかないふりしながらバーに向かう。
でも胸の奥がそわそわしているのは、服のせいだけじゃない。
偶然じゃなく。流れでもなく。ちゃんと誘われて、二人で会う。
考えてみれば、それは初めてだった。
……何話そう。
部屋を出てからも、ずっとそんなことばかり考えてしまう。
沈黙続いたらどうしよう。
変な空気になったら?
いや、普段普通に話してるじゃん。
でも二人きりって、なんか違うし。
考えれば考えるほど緊張してきて、私はわざと足を速めた。
バーに着いたのは、約束の十五分前。扉を開けると、落ち着いた音楽と低い話し声が流れている。昼と夜の間みたいな薄暗さ。
けれど、セルヒオの姿はまだなかった。
⋯⋯だよね。
思わず小さく笑う。
みんな、「今から集まろうぜ!」みたいな時は驚くほど早い。五分後には全員揃ってたりする。なのに、「時間を決めて待ち合わせ」になると急にのんびりし始めるのだ。
なんなんだろう、あれ。
でも、そのおかげで少しだけ助かった。まだ一人。深呼吸する時間がある。
私は窓際の二人席に腰掛けた。窓の外には、夜に近づき始めた海が見える。きらきらしていて、静かだった。
テーブルの上で指先を組み直す。
……落ち着かない。
メニューを開いてみる。
閉じる。
また開く。
「何してるんだろ、私。」
自分で自分に呆れてしまう。
約束の五分前。バーの扉が開き、反射的に顔を上げる。セルヒオだった。店内を見回して、すぐに私を見つける。視線が合った。そのまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。
私は思わず、自分のワンピースをちらりと見下ろした。
──よかった。気合入れておしゃれし過ぎなくて。
少なくとも、セルヒオはラフなシャツ姿といういつも通りの服装だ。変に気合い入れた空気にはなっていない。
少し安心して、私は軽く手を上げた。
「こっち。」
セルヒオは近づきながら、「悪い、待ったか?」と言った。
「ううん、私が早く来すぎただけ。」
「何分前?」
「十五分くらい。」
セルヒオが一瞬黙って、それから吹き出した。
「早くね?」
「「日本人だからね!」」
「言うと思った。」
重なった声に、セルヒオはふっと笑って向かいに座った。
自然にドリンクを注文し、自然に他愛ない会話をする。そうするうちに変な緊張がとけてきた。
よかった。私、いつも通りだ。
「一昨日のサラマンダーすごかったよね。」
「やる気出してくれてよかったな。」
「でもきっと普段はやる気のない面白ショーなんだろうね。」
「守りの国は、また違う入り口から入ってみたいな。」
「その時は、私はもう道選ばないからね。」
「ははは。それじゃ迷えないじゃん。」
「みんなで大晦日も楽しかったね。」
「バイロンのダンスとかな。」
「確かに! 初日の出もよかったなぁ。」
窓から見下ろせるメインプールの画面に流れる有名な映画を、観るともなしに見ながら楽しい会話は続く。
お酒が進むにつれ、プライベートな話も増えていった。
「セルヒオは普段どんな写真撮ってるの?」
氷を揺らしながら聞くと、セルヒオはグラスを持ち上げた。
「人よりは風景撮ってるほうが多いな。個人で活動してるが、旅行会社や出版社からの依頼が半分以上、ってところだ。国内外渡り歩いてるけど、言語は苦手なままなんだよなぁ。」
「え〜、なんか仕事で観光地飛び回れるって、お得な気がする。」
私が言うと、セルヒオは吹き出した。
「お得って! 『うらやましい』とかはよく言われるけど、そんな言い方されたの初めてだわ。」
「だって、観光地のホントにいいとこだけ回るわけじゃない? ちょっと自分の時間使って、お土産買ったり寄り道したりできる時もあるだろうし。お得じゃない?」
「まぁ……そう考えると、今回は特にお得だったな。」
セルヒオが肩をすくめる。
「船の写真もあらかた撮ったから、自由時間長いし。」
「私も今回の研修、と〜ってもお得!」
「ははは。」
低く笑う声が心地いい。
バーの中は賑やかなのに、窓際のこの席だけ少し静かで、落ち着く。 最初はあんなに緊張していたのに、今はもう、いつものみんなで話している時みたいに自然に笑えていた。
「これでサクラ並みに言語が得意なら、もっと楽しめてんだろうな。」
セルヒオがグラスの縁を親指でなぞりながら言う。
「そういえば、サクラってどんな仕事してるんだ? 通訳会社なのは知ってる。」
私は少し考えてから、ふとスクリーンへ視線を向けた。 プールサイドの大型画面では、映画が終盤にさしかかっていた。
「あれ。」
指を向けると、セルヒオもそちらを見る。
「映画?」
「うん。」
「映画の翻訳か?」
「そう。正確には映像翻訳。」
私は少しだけ照れくさくなって、ストローを指でいじった。
「あの映画の日本語字幕、私が初めて関わらせてもらった映画。」
「え!?」
セルヒオが思った以上に大きな声を出して、近くの席の人がちらりとこちらを見た。
「あ、いや……と言っても途中の十三分間くらいの予備翻訳だけど。」
「いやいやいや、途中少しだろうとすごいだろ!」
「先輩からめっちゃ訂正入れられたけどね。」
「それにしたって……。」
セルヒオは改めてスクリーンを見上げた。
ちょうど主人公が何かを叫びながら走っている場面で、地球公用語で書かれた字幕がぱっと切り替わる。 私はつい職業病みたいに文字を目で追ってしまった。
「惜しいな。」
「ん?」
「俺が日本語読めれば、サクラの努力見れたのに。」
「ふふふ。そうだね。頑張って日本語覚えた時は見てみて。」
そう返すと、セルヒオが真面目な顔で頷いた。
「いや、でもほんとすごいな。」
「そんなことないよ。」
「あるって。映画の字幕なんて、普通に生活してたら作る側に会わねぇもん。」
その言葉に、なんだかくすぐったい気持ちになる。
私は今まで、自分の仕事を「すごい」と思ったことがあまりない。 好きではあるけど、地味だし、修正は多いし、締切は怖いし。
でも、セルヒオは本気で感心しているみたいだった。
「字幕ってさ。」
少し酔いが回ってきたせいか、言葉がするりと出てくる。
「ただ訳せばいいわけじゃないんだよね。文字数もあるし、読む速度もあるし、役者の喋るテンポとか雰囲気とかも合わせなきゃいけないし。」
「へぇ……。」
「英語そのままだと格好いいのに、日本語にすると急にダサくなったりもするし。」
「それ難しそうだな。」
「めちゃくちゃ難しいよ。三文字削るために一時間悩んだりする。」
「うわ……。」
セルヒオが顔をしかめ、私は笑った。
「でも、映画館で自分が考えた字幕でお客さんが笑ったり、泣いたりしてるの見ると、嬉しい。」 「……サクラ、今すげぇ楽しそうな顔してる。」 「え?」
「仕事好きなんだな。」
そう言われて、少しだけ目を丸くした。
好き。 ……うん、たぶん、すごく好きだ。
「セルヒオだって、写真の話してる時楽しそうじゃん。」
「まぁな。好きだから続いてる。」 「どんな写真が一番好きなの?」
「んー……。」
セルヒオは少し考えるように視線を泳がせた。
「『そこにいる人』がわかる写真の方が好きかもな。」
「人?」
「市場で笑ってるおばちゃんとか、港で寝てる漁師とか。完璧な観光写真っていうより、『そこに生活がある景色』撮るのが好き。」
なんとなく、わかる気がした。
セルヒオの写真は、きっとただ綺麗なだけじゃない。 その場所の空気まで写っているんだろう。
バーの照明がグラスに反射して、琥珀色が揺れる。
「今回もいっぱい撮ったの?」
「撮った。けど……。」
セルヒオが笑う。
「今回は景色より、人撮ってるほうが多いかもしれない。」
「へぇ?」
「みんな、リアクションでかいから絵になるんだよ。」
思わず吹き出した。
「なにそれ。」
「バイロンとか特に。」
「あ〜、わかる。」
「マリナはずっと騒がしいし、アマンディーヌは妙に面倒見いいし、ウィリアムはなんだかんだ全部拾うし。」
「うんうん。」
「で、サクラは……。」
そこで言葉を切って、セルヒオがこちらを見る。
「放っとけない感じ。」
不意打ちみたいな言葉に、心臓がどくりと鳴った。
「な、なにそれ。」
「いや、なんか。」
セルヒオは少し笑って肩をすくめる。
「危なっかしいわけじゃないんだけど、気づいたら見てる。」
熱くなった頬を誤魔化すように、私は慌ててグラスに口をつけた。
氷がカランと音を立てる。
⋯⋯だめだ。お酒のせいだけじゃない気がする。
言った張本人であるセルヒオは、顔色一つ変えずに映画に目線を移している。
『はぁ、勘違いしそうになるんだよ〜!』
わざと日本語で言って見つめる。
「え?」
案の定、セルヒオは聞き取れなかったらしく、少し首を傾げる。その顔がまた自然体で、余計に腹立たしい。
私は慌てて表情を取り繕って、にっこり笑った。
「いやぁ、お酒が楽しいなって!」
「あぁ、俺も楽しい。」
セルヒオは疑う様子もなく笑って、グラスを軽く掲げた。
くぅ〜! そういうとこ! そういう自然なとこなんだよ!
心の中でごろごろ転がり回りながら、私もグラスを合わせる。
カチ、と小さく音が鳴った。
幸か不幸か明日も寄港日なため、何事もなく、健全な時間に解散した。
ベッドの中で、無駄に悶えたのは言うまでもない。
この話で全体の半分の旅程が過ぎました。
さ、先が長い⋯⋯(+_+)
長いお話を書かれる方、尊敬します。。。
みなさままだお付き合いしてくださると幸いです。




