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昇進の辞令を鞄に入れたまま、妻と親友の「失業したなら8000万よこせ」を聞いてやった。6年分のトークに、親友の企みは全部あった  作者: 空の異変


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第七話 返したスマホ

ガラス戸の前から、ソファに戻った。


佳澄は床に座ったまま、膝の上で両手を握っている。ワンピースの膝に、ラグの毛が何本かついていた。


結婚して半年たった日付から、画面を下へ送った。


『結華:ホストクラブ、行ってみない?』


『結華:遊ぶだけ、言わなければわからない』


『結華:貞淑な奥さんでいたいなら、それでもいいよ。付き合いで一杯だけ』


『佳澄:今週も行かない? 金曜、空いてる』


『結華:泥棒した気分?』


『佳澄:うん、でも刺激的』


『結華:ごめん、来月返すから3万だけ貸して』


吹き出しの合間に、写真が何枚か挟まっていた。開かずに、画面を伏せた。


「この写真は」


「……結華が撮ったの。面白がって」


画面の中の佳澄は、句読点の打ち方も、絵文字の選び方も、俺に送ってくるのと同じだった。


「店の外でも、会ってたのか」


佳澄の肩が、ぴくりと上がった。


「……会ってた」


「一人か」


「……一人じゃない」


床の上で、佳澄の握った手が白くなっている。


「いつからだ」


「……結婚して、半年くらいたってから」


「月に何日か、旅行に行くと言って出かけていたな」


「全部じゃない。本当に旅行のときも、あった」


佳澄は、そこで言葉を切った。


「誘ったのは、最初は結華。そのあとは」


「そのあとは、私から」


画面を表に返して、続きを送る。『貸して』の吹き出しは、それからも何度も出てきた。


数千円のときも、数万円のときもある。


返した、という吹き出しは、どこにも見当たらなかった。


「返してもらったことは」


「……ない。言い出しにくくて」


    *


検索の結果を、半月前まで飛ばした。


『佳澄:智紀が失業するって、本当?』


『結華:会社に友達がいるの。部が丸ごと解体。全員クビ』


『佳澄:その友達って、誰?』


『結華:言えない。迷惑かかるから。でも確かな筋』


『佳澄:でも智紀なら、すぐ次が見つかると思う』


『結華:専業主婦に何がわかるの。クビになった人なんて、誰も採らない。終わりよ』


『結華:言わないのは、あなたを道連れにする気だから』


『佳澄:どうしよう』


『佳澄:どうしよう』


『結華:失業する前に離婚して半分取りなさい。少し多めにね。何百万か持って、もっとお金のある人を探せばいい』


『佳澄:わかった。どうすればいい?』


指が、最後の吹き出しの時刻の上で止まった。結華の提案から、2分しかたっていない。


「この2分で、何を考えた」


「……考えてない」


佳澄は小さく首を振った。


「考える前に、送ってた」


「すぐ次が見つかる、と書いてるな」


「……書いた」


「その次の日に、どうしようが並んでる」


佳澄は答えなかった。床のラグの毛足を、指でつまんで離した。


「怖かったの」


しばらくして、それだけ言った。


「終わりよって、何回も言われて。あなたは何も言ってくれないし」


最後に、今日の日付まで飛ぶ。


『結華:発表出た。今日だって』


『佳澄:うちに来て。帰ってきたら、切り出す』


午前10時台の二行で、履歴は終わっていた。


同じ日の午後、俺は本部の会議室で、辞令の紙を受け取っている。


「月曜になったら、会社から何か届くかもしれないって」


佳澄が床から言った。


「だから今日のうちに言ったほうがいいって、結華が」


    *


俺は画面を消して、スマホを佳澄に返した。


佳澄は両手で受け取った。ケースの擦れた角を、親指が撫でている。


「……もう一度だけ」


「もう一度だけ、お願い。ちゃんとやり直すから」


「惜しいのは俺じゃない、この暮らしだ」


佳澄の手の中で、スマホの画面が暗くなった。


「違う」


佳澄が首を振る。髪の崩れた側が、頬の赤い線にかかった。


「違うの。私、はめられたの。結華に。最初から、全部」


「ホストに誘われたとき、君は断れた」


佳澄の唇が止まった。


「離婚を勧められたとき、俺に一言聞けた」


「半分は松岡の仕業だ。残りの半分は、お前だ」


佳澄は口を開けたまま、俺を見上げていた。


リビングの時計の秒針が、何度か動いた。冷蔵庫が低く唸って、止まる。


「1000万やる。きれいに出て行け」


「……え」


「車を売って、残りは賞与で払う」


「書斎の協議書は、作り直す。その金額で」


佳澄の目が、テーブルの端に落ちた。


そこに、電卓が置いてある。さっき佳澄が、両手で胸に抱えていた電卓だ。


佳澄の手は、膝の上から動かなかった。


指だけが、何かを数えるように一度ずつ折れて、また開いた。


それから、佳澄は声を上げて泣いた。


さっき玄関で聞いた泣き声とは違った。俺のほうを、一度も見なかった。


「彼女たちが……」


しゃくり上げながら、言葉が切れ切れに出てくる。


「彼女たちが、みんなで、私を」


「彼女たち?」


    *


「グループの人たち」


佳澄は手の甲で頬を拭った。赤い線のところで、手が止まる。


「みんな、離婚してるの。結華がよく集まりを開いて、私も呼ばれて」


「結婚なんて、するもんじゃないって。会うたびに、そう言われてた」


「会わせてくれ」


佳澄が顔を上げた。


「……許してくれるの?」


「いや」


佳澄の顔が、また崩れかけた。


「それでも、なぜ君がやられたのか、知りたくないか」


佳澄はしばらく、手の中のスマホを見ていた。


「……知りたい」


佳澄は顔を上げた。


「塩谷さんなら、金曜はいつもの店にいる」


「いつもの店?」


「駅の向こうのバー。塩谷さん、金曜はいつも閉店までいるの。集まりも、たいていそこ」


「結華は呼ぶな」


「呼ばない」


「ほかの人にも、一人ずつ連絡する。グループで呼んだら、結華に見られるから」


「今から来るのか」


「わからない。でも、塩谷さんがいるなら、たぶん」


「何と言って呼ぶ」


「本当のことを言う。離婚することになったって」


佳澄は床から立ち上がり、ソファの端に浅く腰かけた。一人目の番号を押す前に、一度だけ息を吐く。


電話の向こうの声は聞こえない。佳澄の声だけが、同じ言葉をくり返していた。


ごめんなさい、急に。今から、少しだけ会えますか。


俺は窓際に立って、それを背中で聞いていた。カーテンレールの端に、白いキャップがはまっている。


一時間後、バーのボックス席に女が八人並んだ。

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