第六話 返事のない自慢
佳澄は膝をついたまま、スマホを差し出した。
この2年、一度も俺に触らせなかったスマホだ。風呂にまで持って入っていた。
ケースの角が擦れて、下の色が覗いている。
佳澄は親指でロックを外し、両手で俺の手に載せた。
「全部、見て。そしたらわかるから」
客間のドアノブから手を離して、リビングへ戻った。
ソファに座ると、佳澄は床に正座した。テーブルの端では、俺のスマホがまだ伏せてある。
「これが、結華とのトーク。それから、こっち」
佳澄が身を乗り出して、画面を指でたどる。
「入れられたグループ。私が入る前からあったの。作ったのは結華」
グループの名前は『自由な女たちの会』。メンバーは九人。
「名前をつけたのも」
「結華。最初から、この名前」
「結華と私と、あと七人。みんな、一回は離婚してる人たち」
「いつ入った」
「付き合い始めてすぐ。結華が招待してきたの。大人の人ばっかりだから、いろいろ教えてもらえるって」
少し遡ると、夜の報告と男の品評が並んでいた。それ以上は読まずに、ノートの一覧を開く。
『結華:新しく入った佳澄は、私の親友。年収1500万の男を捕まえた。みんな、よろしく』
『結華:佳澄、結婚するって』
『塩谷:結婚は墓場よ。あたしは、そう思ってる』
『瑞穂:その結婚、長くは続かないと思うよ』
『冬香:私は、離婚してよかったよ』
『結華:エルヴァント・ジャパン、再編の噂あり』
『結華:今朝、部の解体が確定。詳しくは個別で』
最初の投稿の日付は、俺と佳澄が付き合い始めた日だった。最後の二つは、半月前と今日の朝だ。
「再編の噂のノートを見て、結華に聞いたの。そしたら、個別でって」
佳澄が先に言った。
「この三人は」
「塩谷さんと、瑞穂さんと、冬香さん。塩谷さんがいちばん年上」
ノートを閉じて、二人のトークに切り替えた。
*
6年前の一行目から、履歴は途切れていなかった。
頭から読むつもりはない。検索欄に「智紀」と打ちこんだ。
ヒットした一番古い日付まで飛ぶ。
『佳澄:気になる人がいるの。紹介で会った人』
『結華:職業は? 年は? お金は?』
『佳澄:外資の大きい会社の管理職。2つ上。お給料は、すごくいいって』
『結華:騙されてない? 一回、試してみなさいよ』
『結華:銀座の寿司屋で、時価のネタを片っ端から頼むの。帰りにブランドの店の前で、動かないこと』
結華の返信までに、丸一日空いていた。
親指が、そこで止まった。
知り合って一週間目の土曜だった。銀座に行きたい、と言ったのは佳澄だ。
カウンターの寿司屋で、佳澄は品書きを指でなぞった。
「これ、時価って書いてある。時価って、何?」
「その日の値段だ。高い」
「じゃあ、これも。あと、これも」
板前が、ちらりと俺の顔を見た。俺はうなずいた。
佳澄は値段の書いていない札ばかりを選んだ。会計は10万を超えた。
店を出ると、佳澄は隣のブランドの店の前で足を止めた。
ショーウィンドウの前から、一歩も動かない。
「これ、かわいい」
「欲しいのか」
「……ううん。見てるだけ」
見ているだけの佳澄は、10分たっても動かなかった。30万のバッグを、俺が買った。
「ほんとに、いいの?」
「ああ」
紙袋を両手で抱えて、佳澄は帰りの電車で何度も中を覗いていた。
「明日、友達に自慢しちゃう」
あの夜、佳澄はそう言って笑った。
「あれは、試されてたのか」
床の佳澄が、肩をすくめた。
「……結華が、そうしろって」
「行こうと言ったのは」
「私。……でも、買ってもらって、うれしかったのは本当」
画面を送る。会う約束のたびに、結華の『私も行っていい?』が挟まっていた。
付き合っていた半年、約束の80%に結華がいた。
「結華がいると、楽だったの」
佳澄が膝の上で指を組んだ。
「私、あなたと二人だと、何を話していいかわからなくて」
*
画面を送る。日付が、ひと月ずつ飛んでいく。
『結華:金持ちって変態多いから。気をつけなよ』
『結華:今日あの人、私のことずっと見てた』
『結華:このリップ、佳澄とおそろい。ありがと』
『佳澄:見て、智紀にもらった時計』
『佳澄:新しい部屋、すっごく広いの』
『結華:今月も家賃ギリ』
『佳澄:結婚することになった』
『結華:やめなさい』
『結華:やめなさい。結婚したら、ただの家政婦よ』
『結華:吊るしておいて、お金を使わせて、飽きたら捨てればいいの』
『佳澄:もう決めたの。結華に何を言われても、する』
指で送っても、結華の吹き出しが続いた。時刻の表示は23時台から始まって、4時台でようやく佳澄の返信が挟まる。
一晩で、千通近い。
佳澄の返信のところで、指を止めた。
「これを、全部読んだのか」
「途中で寝ちゃった。起きたら、まだ続いてた」
「これは、君が書いたのか」
「……うん」
佳澄は床の上で、膝の向きを少し変えた。
「結華に逆らったの、あれが初めて。たぶん、最後」
「この時計の写真に、結華は何と返した」
「何も」
佳澄は、自分のスマホのある俺の手元を見た。
「返事、なかったから。いつも」
画面を少し戻して、おそろいのリップの吹き出しに指を置いた。
「このリップは」
「……私が買ったの。おそろいにしようって、結華が」
「金は」
佳澄は答えなかった。キャッシュカードを持っているのが誰か、二人とも知っている。
*
結婚した日から、画面は佳澄の吹き出しばかりになった。
日付だけが進んでいく。結華からの返事は、半年のあいだ一つもない。
「何回送っても、返ってこなくて」
佳澄が床から言った。
「嫌われたんだと思ってた。結婚なんかしたから」
「それで」
「半年たって、急に来たの。何もなかったみたいに」
ソファを立って、ベランダのガラス戸の前まで歩いた。佳澄の目が、床から俺の手元を追ってくる。
『結華:どう?』
『佳澄:優しいよ。毎日ちゃんと帰ってくるし、怒ったことも一回もない』
『結華:見せかけよ。そのうち後悔するわ』
「その日から、また毎日やりとりするようになったの。前と同じに」
ガラスに、スマホを持った俺の影が映っていた。
画面の右端のスクロールバーは、まだ下に余白を残している。
履歴は、まだ1年半分残っていた。




