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昇進の辞令を鞄に入れたまま、妻と親友の「失業したなら8000万よこせ」を聞いてやった。6年分のトークに、親友の企みは全部あった  作者: 空の異変


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第五話 客間の前で

二人はもつれ合ったまま、ソファの肘掛けにぶつかった。


結華も佳澄の髪を掴み返している。言葉にならない声が、交互に上がった。


「離してよ」


「あんたこそ」


ローテーブルの角に、誰かの膝が当たる。電卓が、もう一度床に落ちた。


俺は二人の横を通って、玄関へ行った。


ドアを内側から大きく開ける。マンションの内廊下の、乾いた空気が流れこんできた。


「やるなら外でやれ」


声は張らなかった。それでも、二人の手が止まった。


佳澄が先に振り向いた。


髪が片側だけ崩れて、頬に赤い線が一筋走っている。


「あなた……殴られた、私。結華に」


「見てたでしょ。この人が先に、私の髪を」


「聞こえなかったか。外でやれ」


佳澄の口が、何か言いかけたまま止まった。


その隙に、結華が佳澄の手から髪を引き抜いた。


ラグに落ちていたスマホを拾い、鞄を胸に抱える。玄関の段差で脱いだままのパンプスを、片手でつかんだ。


「佳澄」


「出て行って。早く」


結華は俺の顔を見なかった。


ストッキングの足のまま、開いたドアから内廊下へ出ていく。エレベーターホールのほうへ、足音が遠ざかった。


ドアは開けたままにしておいた。


「追いかけないの?」


佳澄が泣き声で言った。


「あの人、私に何したか見たでしょ。ねえ」


「見た」


佳澄はリビングの真ん中に立って、泣いていた。


しゃくり上げながら、ときどきこっちを見る。俺が近づくのを、待っている顔だった。


俺は煙草の箱を取って、ベランダに出た。


    *


一本目は、ほとんど吸わないうちに灰になった。


二本目の途中で、背中のガラス越しに、玄関のドアが閉まる音がした。


三本目を吸い終えるまで、振り向かなかった。


ガラス戸を開けて、部屋に戻る。


床の花は消えていた。キッチンのシンクの横に、包装紙ごと寝かせてある。


散らばっていた紙は角をそろえて、テーブルの端に重ねてあった。裏返った電卓も、表を上にして元の場所に戻っている。


俺の席の前に、湯呑みが置いてあった。


縁に細い青の線が一本入った湯呑みだ。湯気が、まっすぐに立っている。


佳澄はキッチンの前で、エプロンの紐をほどいているところだった。


いつ着けたのかもわからない。結婚してから、毎晩見てきた手つきだ。


「あなた……」


佳澄がソファの、俺のすぐ隣に腰を下ろした。肩が触れる。


俺は座る位置を、一人分ずらした。


「用件だけ言え」


「……怒ってるよね。当たり前だよね」


「花、水に挿そうと思ったの。でも、花瓶が見つからなくて」


俺は答えなかった。キッチンのシンクの横で、包装紙がかさりと鳴った。


「お茶、淹れたの。飲んで。ね、少しでいいから」


「茶はいらない」


佳澄は唇を噛んで、立ち上がった。


両手を体の前で重ねて、うつむく。叱られるのを待つ子どものような立ち方だった。


「ごめんなさい」


「今は、誰もいないから」


「罰なら、どんな罰でも」


佳澄は顔を上げなかった。声だけが、少し甘くなっていた。


俺は湯呑みに手を伸ばさなかった。


「出て行けと言ったら、出て行くのか」


佳澄の唇が動いた。


「……出て行かない。そういう意味で、言ったんじゃ」


「あの男たちも、そうやってその気にさせたのか」


佳澄の顔から、色が引いた。


「それは……結華が、勝手に」


言いかけて、佳澄は口を閉じた。


白くなった頬の上に、赤い線だけが残っている。


湯呑みの湯気は、もう細くなっていた。


    *


「……女なら、誰でも一度は間違えるでしょ」


佳澄が言った。床を見たまま、声だけが戻ってくる。


「あなたが仕事ばっかりで、私、ずっと一人だったの。寂しかったの。それくらい、わかってよ」


「毎日定時で帰った。接待は10時前に切り上げて、2年、一度も外泊していない」


佳澄の口が閉じた。


「でも……」


「でも、私は」


その先が出てこない。佳澄は言葉を探して、また口を閉じた。


「……どうしたいの」


「離婚だ」


「嫌よ」


「絶対に、嫌」


「私、どこに行けばいいの。この家しか、ないのに」


「さっきまでは、出て行くつもりだっただろう」


俺は立ち上がって、テーブルの端の協議書を取った。


廊下を挟んだ書斎へ歩く。佳澄の足音が、後ろからついてきた。


机の上に、協議書を置いた。


「これは書斎に置いておく。作り直すなら、ここでやれ」


「作り直さない。離婚しないって言ってるの」


佳澄は机の上の協議書を、指で俺のほうへ押し戻した。


「こんなの、もういらない」


「これは通知だ。相談じゃない」


「体面は残してやる。騒げば、恥をかくのは君だ」


佳澄の目つきが変わった。


泣いていた目が、乾いた。


「出世したとたん、苦労させた妻を捨てるの?」


「会社に行くから。エルヴァント・ジャパンの受付で、全部話す。妻を捨てた人だって」


「ディレクターなんて、すぐ飛ばしてやる」


「ネットにだって書ける。昇進したばっかりの人がどうなるか、見ものよね」


「好きにしろ。今から行ってもいい」


俺は書斎のドア枠にもたれた。


「クビになって皿洗いで月20万になっても、この離婚はする」


佳澄が、一歩下がった。


脅しが脅しにならなかった顔で、俺を見ている。


それから、声の調子がもう一度変わった。


「……ねえ。そんなこと、言わないで」


「これからは、お金の心配なんてないんだから。二人で、ちゃんと暮らそう」


「あの人たちとは、もう会わない。連絡先も消す。本当よ。今ここで消してもいい」


「脅したときの勢いは、どこへ行った」


佳澄の手が、胸の前で止まった。


俺はリビングのほうへ顎を向けた。テーブルの端で、俺のスマホが伏せたままになっている。


「さっきの口喧嘩は、録音してある」


「法律どおりに分ければ、君の取り分は車と預金の半分で、260万ほどだ」


「慰謝料と相殺すれば、君に残るのはゼロに近い」


「録音って……いつから」


俺は答えなかった。


「ねえ、いつから。どこから録ってたの」


佳澄の声は、途中で小さくなった。


書斎の明かりの下で、頬の赤い線だけが目立っていた。


「今夜は客間で寝る」


俺は書斎を出て、廊下の奥の客間に向かった。ドアノブに手をかける。


佳澄が俺の脇をすり抜けて、ドアの前に回りこんだ。


そのまま、床に膝をつく。


「私、はめられたの」

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