↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昇進の辞令を鞄に入れたまま、妻と親友の「失業したなら8000万よこせ」を聞いてやった。6年分のトークに、親友の企みは全部あった  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/8

第四話 返してほしいもの

佳澄の腕から、電卓が落ちた。


ラグの上で一度跳ねて、裏返しに止まる。


佳澄は拾わなかった。口が開いて、閉じて、また開いた。


「……本当なの」


「本部から辞令が出た。今日の午後だ」


「今の部がなくなるのは本当だ。俺は、本部の新しい部に移る。ディレクターとして」


「辞令、見せて」


「見なくていい。月曜には、全社に流れる」


結華は何も言わなかった。電話を切ったスマホを握ったまま、俺と佳澄を交互に見ている。


唇だけが、ディレクター、と形を作った。


「……赤峰、いつからそのつもりだったの」


「あんたに話す理由はない」


結華は口を閉じた。スマホを持つ指が、画面の縁を何度もなぞる。


「どうして」


佳澄の声がかすれた。


「どうして、言わないの」


「言おうとした」


「会社で人事があったでしょ、と聞かれた。そのことなら、と言いかけた」


「聞かない、と言ったのは誰だ」


「だって……結華が、失業したって」


「言えたでしょ。いくらでも、言えたでしょ」


「言ったら、その紙をしまったか?」


佳澄の目が、テーブルの上の協議書に落ちた。


角をそろえて置いたままの紙だ。誰も、まだ片づけていない。


「言う機会を、くれたか?」


「それは……」


「同僚が祝ってくれると言ったのを断って、まっすぐ帰ってきた。花を買って」


俺は床を指さした。


包装紙の角が潰れて、花びらが二枚、ラグの毛足に引っかかっている。


「帰ってきたら花を床に落とされて、離婚届を出された」


「俺と一緒になって、一日でも苦労した日があったか?」


佳澄の唇が震えた。返事は出てこない。


代わりに、手が伸びてきた。


「ごめんなさい。どうかしてたの」


「ねえ、離婚、やめよう。ね?」


俺は半歩下がった。佳澄の指先が、シャツの袖のあった場所で空をつかむ。


「仕事があるうちは妻で、なくしたと思ったらその日に離婚届か」


「昇進と聞いたら、やめるのか」


「違う。そういうことじゃなくて」


「じゃあ、どういうことだ」


佳澄は答えなかった。伸ばした手が、行き場をなくして胸の前に戻る。


    *


佳澄の膝が、床についた。


両腕が、俺の脚に回る。スラックスの布越しに、指の力が伝わってきた。


「智紀(ともき)。お願い、許して」


上から佳澄のつむじが見えた。結婚してから、この角度で妻を見下ろしたことは一度もない。


「私が馬鹿だったの。結華の話を真に受けて、怖くなって」


「もう二度としない。誓うから。ねえ、誓うから」


佳澄の指が、俺の左手に伸びてきた。薬指の指輪に触れる。


「まだ、外してないでしょ。ね、外してない」


左手の指輪は、たしかにまだ指にあった。外す理由を考える暇が、今夜はなかっただけだ。


「許せば済むなら、善いも悪いもいらない」


「さっき、サインしろと言ったときの顔を、見せてみろ」


「いや。いやよ」


佳澄は首を振って、脚にしがみつく腕に力をこめた。


「これからは、ちゃんとする。ご飯も、家のことも、全部。お金だって、もう勝手に使わない」


俺は答えなかった。佳澄の言葉が、脚のあたりで途切れては、また始まる。


「次に俺が本当に職をなくしたら、君はまた紙を出す」


「出さない。出さないから」


「損切りは早いほうがいい。君の親友の言うとおりだ」


結華の頬が、引きつるように動いた。


「……私のせいにしないでよ」


佳澄の腕から、力が抜けた。


床に膝をついたまま、佳澄は振り返った。


「結華……」


「結華、ねえ。結華」


呼ばれた本人は、ソファの端に置いた鞄に手を伸ばしていた。


「私、帰るね」


鞄を肩にかける。ジャケットの裾を引いて整える手つきが、妙に丁寧だった。


「夫婦の話でしょ、これ。私がいたら、まとまるものもまとまらないし」


    *


佳澄が立ち上がった。


さっきまで俺の脚を抱えていた腕が、今度は親友に向かう。膝についた糸くずも払わずに、結華の腕をつかんだ。


「待って」


「ちょっと、痛い」


「あなたが毎日言ったんじゃない。智紀は失業する、再就職なんて無理、ローンに潰される、若いうちに考えろって」


「毎日、毎日よ。私がどうしようって聞くたびに」


佳澄の手が、腕から鞄の持ち手に移った。


金具がかちりと鳴る。表面が細かく曇った、古い金具だった。


「夫を返して」


「何それ」


結華は鞄を引き戻した。


「聞いたのはあなた。決めたのもあなたでしょ」


「聞こうとしたら、止めたじゃない。智紀は本当のことなんか言わないって、あなたが」


「止められて、黙ったのは誰? 口を縫ってあげた覚えはないけど」


「結華がいなかったら、こんな紙、作ってない」


佳澄はテーブルの協議書を指さした。


「作り方まで教えたのは、あなたでしょ。利息も足せって。生活費も、5年分取れって」


「足せば多く取れるって言っただけ。電卓を叩いたのは佳澄でしょ」


「私がいつ、離婚しろって言った? 考えたらって言っただけ」


「言った。損切りって、さっきもここで言った」


結華は肩をすくめた。


「私は可能性の話をしたの。決めたのはいつも佳澄。今夜だって、紙を出したのは佳澄の手でしょ」


「ずっと、あなたの分まで払ってきたのに。ご飯も、化粧品も」


「この家に泊まるときだって、パジャマまで私のを貸して」


「奢ってくれたのはあなたでしょ、頼んだ覚えはない」


結華の手の中で、スマホの画面が明るくなって、また消えた。


俺は二人のあいだに入らなかった。ソファの背に手を置いたまま、立っていた。


「だいたい、人のこと言えるの?」


結華は佳澄の手を振りほどいた。声が、また速くなっていく。


「金目当てで結婚したのは誰?」


「ホストと遊んでたとき、夫がいるって言った?」


ソファの背に置いた俺の手の下で、布がよじれた。


佳澄の顔から血の気が引いていく。


「嘘よ」


佳澄は俺のほうを振り向いた。


「嘘。智紀、この人の言うこと、聞かないで」


結華がスマホを顔の高さに上げた。画面はこちらに向けない。


「写真、まだあるけど。店の外で会ってたのも」


佳澄の手が、結華のスマホを払いのけた。


スマホはラグの上に落ちて、暗い画面を上にして止まった。


「出て行ってよ。あなたなんか、最初から」


「出て行こうとしたら、つかんだのはそっちでしょ」


佳澄の指が、結華の髪を掴んだ。


「3回も離婚して、病院代も私が出した」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。