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昇進の辞令を鞄に入れたまま、妻と親友の「失業したなら8000万よこせ」を聞いてやった。6年分のトークに、親友の企みは全部あった  作者: 空の異変


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第三話 電話を切ったあと

佳澄の目から、涙がひと粒落ちた。


協議書の上に丸い染みができる。佳澄は指でそれを押さえた。


「お金のことばっかり」


「金の話を紙にしてきたのは、佳澄だ」


「夫婦の情って、ないの? 2年も一緒にいたのに、細かいことばっかり言って」


「毎日ご飯作って、シャツにアイロンかけて、帰ってくるのを待ってたの。それも全部、数字にするの?」


「数字にしたのは、どっちだ」


佳澄は答えなかった。電卓のほうへ、目だけが動いた。


俺は掌でテーブルを叩いた。


電卓が小さく跳ねて、紙の上で止まる。


「失業したと思ったその日に離婚届を出して、これが分与か」


「皮を剥いで、肉まで食う気か」


佳澄の肩が縮んだ。結華は動かない。


俺の自由になる金は、財布に入っている小遣いの数万円だけだ。


この家は金利が上がってから値が下がり、今売っても9700万。ローンの残りが9200万あって、手数料を引けば、手元に残るのはせいぜい200万。


この紙にサインした時点で、俺は破産する。


「佳澄。この家が今いくらで売れるか、知ってるか」


「……買ったときより、高いんでしょ。タワーなんだから」


「結華に聞いてみろ」


佳澄が隣を見る。結華はスマホの画面に目を落として、聞こえないふりをした。


「何よ、その言い方」


結華が脚を組み替えた。


「被害者ぶらないで。佳澄がこの2年、どれだけ尽くしたと思ってるの」


「女の2年は、男の2年と値段が違うのよ。佳澄はもう30なの。わかってる?」


「2年もタダで寝られたとでも思ってるの?」


「金で買った関係じゃない」


自分の声が、思ったより低く出た。


「買ってないなら、どうしてこんな家に住まわせたの。どうして車なんか買ったの」


「釣った魚に餌をやるのは、男の義務でしょ。今さら餌代を返せなんて、みっともない」


佳澄が、結華の袖を引いた。


「何。本当のことでしょ」


「……そういう言い方は、やめて」


結華は袖を振りほどかなかった。代わりに、佳澄の手の甲を軽く叩いた。


佳澄は鼻をすすって、俺を見た。


「ねえ。……じゃあ、どうしたいの」


    *


「離婚はする。分けるものも分ける」


俺はテーブルを離れ、ソファの端に腰を下ろした。


座面の縫い目の糸は、布地より一段濃い灰色をしている。


「家と車を売る。ローンを返して、残った金を折半だ」


「ダメ」


結華が即座に言った。


「何がだめだ」


「家の分なんて100万もないじゃない。車だって売れば400万でしょ。佳澄の取り分、ほとんど残らない」


「下がるのを知っていて、買った値段で分けろと書いたのか」


結華の口が、半分開いたまま止まった。


佳澄が結華の横顔を見る。


「この紙の数字は、誰が考えた」


「……二人で」


「佳澄よ。私は電卓の使い方を教えただけ」


「財産を半分にするなら、借金も半分だろ」


「専業主婦にローンを背負わせる気? 佳澄は働いてないのよ」


「ローンは赤峰の名前でしょ。佳澄には関係ない」


「家の値段からローンを引いた残りが、分ける財産だ。値段だけ数えて、借金は数えないのか」


「屁理屈はいいの。ダメなものはダメ」


「頭金は結婚前の俺の金だ。分けるのは結婚してから増えた分だけ」


「宝石はいらない。全部持っていけばいい。生活費は出さない」


「ちょっと」


「成人に養育費か?」


結華が言葉を探すあいだに、佳澄の目から、また涙が落ちた。


「……そこまで、するの」


「そこまで?」


俺は佳澄を見た。


「2年、一円も稼がずに、何を着て、何を食べた。誰かに頼まれて、ここに来たわけじゃないだろ」


「離婚したいのは君だ」


佳澄が、肩を跳ねさせた。


さっきまで名前で呼ばれていたことに、今さら気づいた顔をしていた。


「それでも、足りない」


結華が割って入る。


「佳澄の若い時間を、あなたが使ったの。売って折半なんて、ダメ。絶対ダメ」


「ねえ、結華」


佳澄の声が細くなった。


「本当に、売らなきゃだめなの? サインしてもらえば、それで済むんじゃないの」


「済まないから言ってるのよ。佳澄は黙ってて」


    *


「あんたは何様だ」


結華がこっちを向いた。


「佳澄の親友よ。佳澄が損しないように見てるの」


「佳澄が自分で決めると言った。あんたが決めることじゃない」


「佳澄が決めるために、私がいるの」


結華は佳澄の肩を抱き寄せた。佳澄は抱かれるまま、膝の上の電卓に手を置いている。


「なら、もっと簡単にしてやる」


佳澄が電卓を持ち上げて、両手で胸に抱えた。


「嫌なら、車は俺が乗っていく。家は君にやる。俺は、100万でいい」


佳澄の指が、電卓の縁を握り直した。


「家を佳澄に持たせて、誰がローンを払うのよ」


結華の声が一段高くなる。


「毎月のローンよ? 佳澄に払えるわけないでしょ。払えなくなったら、佳澄が全部かぶるの。ダメに決まってるじゃない」


「だったら、最初の話に戻す」


「売って折半。それ以上は払わない。ローンも払わない。競売でいい」


「は?」


「払わなければ、銀行が売る。売れた分で返して、残りを分ける。誰も得をしない。それだけだ」


「そんなことしたら、赤峰だって困るでしょ。信用もなくなるのよ。わかってるの?」


「わかってる」


「わかってて言ってるの?」


「わかってて言ってる」


「本気で言ってるの」


佳澄が電卓を胸に押しつけた。


「この家、なくなるの?」


「君が出て行くなら、俺一人には広すぎる」


部屋の中で、誰も笑わなかった。


「ダメよ、佳澄。そんなの」


結華がまた首を振る。今夜、何度目のダメだろう。


「こういう男はね、脅せば引くと思ってるの。引いちゃだめ。ここで引いたら、一生――」


結華のスマホが鳴った。


ありふれた電子音が、言いかけた言葉を途中で切った。


ローテーブルの上で、画面が光っている。結華は表示を見て、すぐに取った。


テーブルの端の俺のスマホは、伏せたまま動かない。


「……はい」


「うん」


「……え?」


結華はスマホを耳に当てたまま、ソファから腰を浮かせた。


結華の顔から、表情が順番に抜けていった。最後まで残っていたのは、目だった。


空いた手が、ジャケットの裾をつまんで離した。


「待って。それ、確かなの? だって、部は」


「本部? 今日の午後?」


「……うん。今、その家にいる」


「……そう。うん。わかった」


結華はスマホを耳から離した。通話の時間は、2分にも満たなかった。


画面を見たまま、親指で通話を切る。


部屋の中で、冷蔵庫の音だけがした。


「赤峰」


声が、さっきまでより一段低い。


「よく隠してたわね」


「何?」


佳澄が結華の腕をつかんだ。


「何なの、結華。誰から」


結華は佳澄を見なかった。俺を見ていた。


「……昇進したんだって? 年収3000万」

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