第三話 電話を切ったあと
佳澄の目から、涙がひと粒落ちた。
協議書の上に丸い染みができる。佳澄は指でそれを押さえた。
「お金のことばっかり」
「金の話を紙にしてきたのは、佳澄だ」
「夫婦の情って、ないの? 2年も一緒にいたのに、細かいことばっかり言って」
「毎日ご飯作って、シャツにアイロンかけて、帰ってくるのを待ってたの。それも全部、数字にするの?」
「数字にしたのは、どっちだ」
佳澄は答えなかった。電卓のほうへ、目だけが動いた。
俺は掌でテーブルを叩いた。
電卓が小さく跳ねて、紙の上で止まる。
「失業したと思ったその日に離婚届を出して、これが分与か」
「皮を剥いで、肉まで食う気か」
佳澄の肩が縮んだ。結華は動かない。
俺の自由になる金は、財布に入っている小遣いの数万円だけだ。
この家は金利が上がってから値が下がり、今売っても9700万。ローンの残りが9200万あって、手数料を引けば、手元に残るのはせいぜい200万。
この紙にサインした時点で、俺は破産する。
「佳澄。この家が今いくらで売れるか、知ってるか」
「……買ったときより、高いんでしょ。タワーなんだから」
「結華に聞いてみろ」
佳澄が隣を見る。結華はスマホの画面に目を落として、聞こえないふりをした。
「何よ、その言い方」
結華が脚を組み替えた。
「被害者ぶらないで。佳澄がこの2年、どれだけ尽くしたと思ってるの」
「女の2年は、男の2年と値段が違うのよ。佳澄はもう30なの。わかってる?」
「2年もタダで寝られたとでも思ってるの?」
「金で買った関係じゃない」
自分の声が、思ったより低く出た。
「買ってないなら、どうしてこんな家に住まわせたの。どうして車なんか買ったの」
「釣った魚に餌をやるのは、男の義務でしょ。今さら餌代を返せなんて、みっともない」
佳澄が、結華の袖を引いた。
「何。本当のことでしょ」
「……そういう言い方は、やめて」
結華は袖を振りほどかなかった。代わりに、佳澄の手の甲を軽く叩いた。
佳澄は鼻をすすって、俺を見た。
「ねえ。……じゃあ、どうしたいの」
*
「離婚はする。分けるものも分ける」
俺はテーブルを離れ、ソファの端に腰を下ろした。
座面の縫い目の糸は、布地より一段濃い灰色をしている。
「家と車を売る。ローンを返して、残った金を折半だ」
「ダメ」
結華が即座に言った。
「何がだめだ」
「家の分なんて100万もないじゃない。車だって売れば400万でしょ。佳澄の取り分、ほとんど残らない」
「下がるのを知っていて、買った値段で分けろと書いたのか」
結華の口が、半分開いたまま止まった。
佳澄が結華の横顔を見る。
「この紙の数字は、誰が考えた」
「……二人で」
「佳澄よ。私は電卓の使い方を教えただけ」
「財産を半分にするなら、借金も半分だろ」
「専業主婦にローンを背負わせる気? 佳澄は働いてないのよ」
「ローンは赤峰の名前でしょ。佳澄には関係ない」
「家の値段からローンを引いた残りが、分ける財産だ。値段だけ数えて、借金は数えないのか」
「屁理屈はいいの。ダメなものはダメ」
「頭金は結婚前の俺の金だ。分けるのは結婚してから増えた分だけ」
「宝石はいらない。全部持っていけばいい。生活費は出さない」
「ちょっと」
「成人に養育費か?」
結華が言葉を探すあいだに、佳澄の目から、また涙が落ちた。
「……そこまで、するの」
「そこまで?」
俺は佳澄を見た。
「2年、一円も稼がずに、何を着て、何を食べた。誰かに頼まれて、ここに来たわけじゃないだろ」
「離婚したいのは君だ」
佳澄が、肩を跳ねさせた。
さっきまで名前で呼ばれていたことに、今さら気づいた顔をしていた。
「それでも、足りない」
結華が割って入る。
「佳澄の若い時間を、あなたが使ったの。売って折半なんて、ダメ。絶対ダメ」
「ねえ、結華」
佳澄の声が細くなった。
「本当に、売らなきゃだめなの? サインしてもらえば、それで済むんじゃないの」
「済まないから言ってるのよ。佳澄は黙ってて」
*
「あんたは何様だ」
結華がこっちを向いた。
「佳澄の親友よ。佳澄が損しないように見てるの」
「佳澄が自分で決めると言った。あんたが決めることじゃない」
「佳澄が決めるために、私がいるの」
結華は佳澄の肩を抱き寄せた。佳澄は抱かれるまま、膝の上の電卓に手を置いている。
「なら、もっと簡単にしてやる」
佳澄が電卓を持ち上げて、両手で胸に抱えた。
「嫌なら、車は俺が乗っていく。家は君にやる。俺は、100万でいい」
佳澄の指が、電卓の縁を握り直した。
「家を佳澄に持たせて、誰がローンを払うのよ」
結華の声が一段高くなる。
「毎月のローンよ? 佳澄に払えるわけないでしょ。払えなくなったら、佳澄が全部かぶるの。ダメに決まってるじゃない」
「だったら、最初の話に戻す」
「売って折半。それ以上は払わない。ローンも払わない。競売でいい」
「は?」
「払わなければ、銀行が売る。売れた分で返して、残りを分ける。誰も得をしない。それだけだ」
「そんなことしたら、赤峰だって困るでしょ。信用もなくなるのよ。わかってるの?」
「わかってる」
「わかってて言ってるの?」
「わかってて言ってる」
「本気で言ってるの」
佳澄が電卓を胸に押しつけた。
「この家、なくなるの?」
「君が出て行くなら、俺一人には広すぎる」
部屋の中で、誰も笑わなかった。
「ダメよ、佳澄。そんなの」
結華がまた首を振る。今夜、何度目のダメだろう。
「こういう男はね、脅せば引くと思ってるの。引いちゃだめ。ここで引いたら、一生――」
結華のスマホが鳴った。
ありふれた電子音が、言いかけた言葉を途中で切った。
ローテーブルの上で、画面が光っている。結華は表示を見て、すぐに取った。
テーブルの端の俺のスマホは、伏せたまま動かない。
「……はい」
「うん」
「……え?」
結華はスマホを耳に当てたまま、ソファから腰を浮かせた。
結華の顔から、表情が順番に抜けていった。最後まで残っていたのは、目だった。
空いた手が、ジャケットの裾をつまんで離した。
「待って。それ、確かなの? だって、部は」
「本部? 今日の午後?」
「……うん。今、その家にいる」
「……そう。うん。わかった」
結華はスマホを耳から離した。通話の時間は、2分にも満たなかった。
画面を見たまま、親指で通話を切る。
部屋の中で、冷蔵庫の音だけがした。
「赤峰」
声が、さっきまでより一段低い。
「よく隠してたわね」
「何?」
佳澄が結華の腕をつかんだ。
「何なの、結華。誰から」
結華は佳澄を見なかった。俺を見ていた。
「……昇進したんだって? 年収3000万」




