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昇進の辞令を鞄に入れたまま、妻と親友の「失業したなら8000万よこせ」を聞いてやった。6年分のトークに、親友の企みは全部あった  作者: 空の異変


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第二話 協議書の総額

佳澄はソファに座り直し、協議書の一枚目をめくった。


二枚目の見出しは『財産の分け方』。読み始める前から、人差し指が紙の端を押さえている。


結華は佳澄の隣に腰を下ろし、膝の上でスマホを伏せた。俺はテーブルを挟んだ椅子に戻る。


「まず、預金。120万あるから、半分の60万」


「待て」


「何?」


「120万?」


「そうよ。通帳、見る?」


キャッシュカードは結婚してから、ずっと佳澄が持っている。俺の財布に入っているのは、毎月渡される小遣いだけだ。


「普通に暮らしても、2年で500万は残るはずだ。どこへ行った」


「どこって。美容とか、お買い物とか」


「それで、これだけか」


「何、その言い方。私が使い込んだって言いたいの」


「言っていない。数字を聞いただけだ」


「ほら、お金の話になったとたんこれ」


結華が佳澄の膝を叩いた。


「見たでしょ、佳澄。愛してるとか言ってた男が、最初に数えるのはお金なのよ」


「あんたに聞いていない」


「生活してたら、お金はかかるの。あなたが知らないだけ」


「お金のこと、あなた一回も聞かなかったじゃない。任せるって言ったのは、あなたなんだから」


佳澄の声が尖る。通帳を確かめるのは、今夜でなくてもいい。


「わかった。続けてくれ」


「次、車。600万で買ったから、半分の300万」


駐車場に停めてあるドイツ車のセダンだ。もっと安い車でいいと言った俺に、あなたの立場で恥ずかしいでしょ、と言ったのは佳澄だった。


「2年乗った。今売れば400万だ」


「でも、買ったのは600万でしょ」


結華が口を挟む。


「買った値段で分けるのが当たり前じゃない。値下がりしたのは赤峰の乗り方のせいでしょ」


「値下がりは乗り方じゃない。年数だ」


「細かいわね。そういうところだから、出世しないのよ」


「……続けてくれ」


「宝石は、各自のもの。金の値段って上がったり下がったりするから、細かくは計算しない」


「結婚のときにお義母さんがくれたネックレスも、もう私のだから」


「あなたのは、指輪だけでしょ。それは、あげる」


俺のものと呼べる宝石は、左手の指輪が一つだけだ。


    *


「それから、この家」


佳澄が頁をめくった。


「リセオラ紺坂(こんざか)、70平米。1億2000万で買って、頭金が2400万。残りは35年のローンで、毎月29万」


佳澄はテーブルの電卓を引き寄せた。


液晶の上に、指の脂の跡が薄く残っている。


「頭金と、35年分の返済を全部足すと」


「待て。35年分の返済を、今の財産に数えるのか」


「だって、払うんだもの。払う分も、家の値段のうちじゃない」


「当たり前でしょ」


結華が横から言う。


「ローンが残ってる家なんて、結局その分だけ高いのよ」


キーを叩く音が続く。


「利息込みで、総額1億4745万」


佳澄はクリアを押して、同じキーを最初から叩き直した。


同じ数字が出る。


「……合ってる。半分で、7372万」


結華が佳澄の肩越しに液晶を覗きこんだ。


「ほら、ちゃんと合ってる。私が言ったとおりでしょ」


佳澄は顔を上げた。


「総額の半分で、7300万。端数はいいわ」


結華が小さく手を叩いた。


「佳澄、やさしい」


「最後に、生活費」


佳澄は紙に目を戻した。


「私、仕事がないもの。いきなり放り出されても困るから、月10万で5年。600万」


「その理由は」


「専業だったんだから、すぐには働けないの。それくらいもらっていいって、結華が」


「2年もあなたの家のことしてたんだから、安いくらいよ」


「全部で8260万。これにサインして」


電卓の液晶に、その数字が残っていた。


俺は椅子から立った。


「闇金だって、残り33年分の利息までは取らないぞ」


佳澄の頬に、さっと血が上った。


「闇金って何よ。ちゃんと計算したんだから。二回も」


結華が吹き出した。


「闇金だって。笑える。払えない人ほど、そういうこと言うのよ」


「家はあなたにあげるって言ってるの。住み続けられるんだから、損はないでしょ」


「家をもらって、半分の金を払って、ローンも俺が払うのか」


「だって、名義はあなたなんだから」


「立ったって、払うものは払うのよ」


結華は座ったまま、脚を組み替えた。


「佳澄。結婚したとき、口座にいくらあった」


「……5万。それが何」


頭金は、結婚前に俺が貯めた金だ。


駅から遠い中古でいいと言った俺に、どうせ住むならタワーがいいと言ったのは佳澄だった。


返したのは、まだ2年分。その2年のうちに、佳澄はローンの終わりまで計算を済ませていた。


    *


「何を偉そうに」


結華が先に口を開いた。


「結婚してから手に入れたものは、夫婦で半分ずつ。法律で決まってるの」


「家も車も結婚してから買ったんだから、佳澄の分がある。裁判でも勝てるんだから」


「8000万、払えないなら出るとこ出るわよ。弁護士だって紹介できるんだから」


「じゃあ、訴えろ」


結華の眉が動いた。


「その計算、裁判官にさせてみろ」


「強がっちゃって」


結華は佳澄の肩に頭を寄せて、俺を見上げた。


「佳澄、気にしなくていいからね。こういう人ほど、最後は泣きつくの」


俺はテーブルの上の煙草の箱を取った。床の花をまたいで、ベランダへ向かう。


「ちょっと、話の途中でしょ」


「一本だけだ」


「逃げるの?」


「吸ってくるだけだ」


「タバコに逃げる男って、だいたい最後は払わないのよね」


結華の声が、背中に当たった。


家の中では吸わない。結婚したときに、佳澄と決めたことだ。


ベランダのガラス戸を開けると、秋の夜気が足首から入ってきた。


28階の手すりの向こうに、街の明かりが低く広がっている。


一本だけ火をつけた。灰が長くなるまで、口に運ばずに指に挟んでいた。


煙を吐いて、腕時計を見る。


役所が開くのは月曜の8時半。辞令が全社に流れるのは、月曜の9時だ。


吸い殻を携帯灰皿に押しこんで、ガラス戸を閉めた。


リビングでは、二人が顔を寄せて何か話していた。俺が戻ると、声が止む。


佳澄は協議書を膝に載せ直し、結華はまたスマホの画面を見た。


俺はポケットから自分のスマホを出した。


画面を下にして、テーブルの端に置いた。

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