第二話 協議書の総額
佳澄はソファに座り直し、協議書の一枚目をめくった。
二枚目の見出しは『財産の分け方』。読み始める前から、人差し指が紙の端を押さえている。
結華は佳澄の隣に腰を下ろし、膝の上でスマホを伏せた。俺はテーブルを挟んだ椅子に戻る。
「まず、預金。120万あるから、半分の60万」
「待て」
「何?」
「120万?」
「そうよ。通帳、見る?」
キャッシュカードは結婚してから、ずっと佳澄が持っている。俺の財布に入っているのは、毎月渡される小遣いだけだ。
「普通に暮らしても、2年で500万は残るはずだ。どこへ行った」
「どこって。美容とか、お買い物とか」
「それで、これだけか」
「何、その言い方。私が使い込んだって言いたいの」
「言っていない。数字を聞いただけだ」
「ほら、お金の話になったとたんこれ」
結華が佳澄の膝を叩いた。
「見たでしょ、佳澄。愛してるとか言ってた男が、最初に数えるのはお金なのよ」
「あんたに聞いていない」
「生活してたら、お金はかかるの。あなたが知らないだけ」
「お金のこと、あなた一回も聞かなかったじゃない。任せるって言ったのは、あなたなんだから」
佳澄の声が尖る。通帳を確かめるのは、今夜でなくてもいい。
「わかった。続けてくれ」
「次、車。600万で買ったから、半分の300万」
駐車場に停めてあるドイツ車のセダンだ。もっと安い車でいいと言った俺に、あなたの立場で恥ずかしいでしょ、と言ったのは佳澄だった。
「2年乗った。今売れば400万だ」
「でも、買ったのは600万でしょ」
結華が口を挟む。
「買った値段で分けるのが当たり前じゃない。値下がりしたのは赤峰の乗り方のせいでしょ」
「値下がりは乗り方じゃない。年数だ」
「細かいわね。そういうところだから、出世しないのよ」
「……続けてくれ」
「宝石は、各自のもの。金の値段って上がったり下がったりするから、細かくは計算しない」
「結婚のときにお義母さんがくれたネックレスも、もう私のだから」
「あなたのは、指輪だけでしょ。それは、あげる」
俺のものと呼べる宝石は、左手の指輪が一つだけだ。
*
「それから、この家」
佳澄が頁をめくった。
「リセオラ紺坂、70平米。1億2000万で買って、頭金が2400万。残りは35年のローンで、毎月29万」
佳澄はテーブルの電卓を引き寄せた。
液晶の上に、指の脂の跡が薄く残っている。
「頭金と、35年分の返済を全部足すと」
「待て。35年分の返済を、今の財産に数えるのか」
「だって、払うんだもの。払う分も、家の値段のうちじゃない」
「当たり前でしょ」
結華が横から言う。
「ローンが残ってる家なんて、結局その分だけ高いのよ」
キーを叩く音が続く。
「利息込みで、総額1億4745万」
佳澄はクリアを押して、同じキーを最初から叩き直した。
同じ数字が出る。
「……合ってる。半分で、7372万」
結華が佳澄の肩越しに液晶を覗きこんだ。
「ほら、ちゃんと合ってる。私が言ったとおりでしょ」
佳澄は顔を上げた。
「総額の半分で、7300万。端数はいいわ」
結華が小さく手を叩いた。
「佳澄、やさしい」
「最後に、生活費」
佳澄は紙に目を戻した。
「私、仕事がないもの。いきなり放り出されても困るから、月10万で5年。600万」
「その理由は」
「専業だったんだから、すぐには働けないの。それくらいもらっていいって、結華が」
「2年もあなたの家のことしてたんだから、安いくらいよ」
「全部で8260万。これにサインして」
電卓の液晶に、その数字が残っていた。
俺は椅子から立った。
「闇金だって、残り33年分の利息までは取らないぞ」
佳澄の頬に、さっと血が上った。
「闇金って何よ。ちゃんと計算したんだから。二回も」
結華が吹き出した。
「闇金だって。笑える。払えない人ほど、そういうこと言うのよ」
「家はあなたにあげるって言ってるの。住み続けられるんだから、損はないでしょ」
「家をもらって、半分の金を払って、ローンも俺が払うのか」
「だって、名義はあなたなんだから」
「立ったって、払うものは払うのよ」
結華は座ったまま、脚を組み替えた。
「佳澄。結婚したとき、口座にいくらあった」
「……5万。それが何」
頭金は、結婚前に俺が貯めた金だ。
駅から遠い中古でいいと言った俺に、どうせ住むならタワーがいいと言ったのは佳澄だった。
返したのは、まだ2年分。その2年のうちに、佳澄はローンの終わりまで計算を済ませていた。
*
「何を偉そうに」
結華が先に口を開いた。
「結婚してから手に入れたものは、夫婦で半分ずつ。法律で決まってるの」
「家も車も結婚してから買ったんだから、佳澄の分がある。裁判でも勝てるんだから」
「8000万、払えないなら出るとこ出るわよ。弁護士だって紹介できるんだから」
「じゃあ、訴えろ」
結華の眉が動いた。
「その計算、裁判官にさせてみろ」
「強がっちゃって」
結華は佳澄の肩に頭を寄せて、俺を見上げた。
「佳澄、気にしなくていいからね。こういう人ほど、最後は泣きつくの」
俺はテーブルの上の煙草の箱を取った。床の花をまたいで、ベランダへ向かう。
「ちょっと、話の途中でしょ」
「一本だけだ」
「逃げるの?」
「吸ってくるだけだ」
「タバコに逃げる男って、だいたい最後は払わないのよね」
結華の声が、背中に当たった。
家の中では吸わない。結婚したときに、佳澄と決めたことだ。
ベランダのガラス戸を開けると、秋の夜気が足首から入ってきた。
28階の手すりの向こうに、街の明かりが低く広がっている。
一本だけ火をつけた。灰が長くなるまで、口に運ばずに指に挟んでいた。
煙を吐いて、腕時計を見る。
役所が開くのは月曜の8時半。辞令が全社に流れるのは、月曜の9時だ。
吸い殻を携帯灰皿に押しこんで、ガラス戸を閉めた。
リビングでは、二人が顔を寄せて何か話していた。俺が戻ると、声が止む。
佳澄は協議書を膝に載せ直し、結華はまたスマホの画面を見た。
俺はポケットから自分のスマホを出した。
画面を下にして、テーブルの端に置いた。




