第八話 店を出てから
駅の向こうのバーは、金曜の夜らしく、ほどほどに混んでいた。
奥のボックス席に、佳澄を入れて女が八人座っている。俺は通路側の丸椅子を借りて、テーブルの端についた。
グラスの下のコースターは、端が湿って色が変わっていた。
一番奥に、幅の広い指輪をした年配の女がいる。佳澄が、塩谷さん、と小さく頭を下げた。
「佳澄と俺は、離婚する」
佳澄がハンカチで口元を押さえた。七人が、顔を見合わせる。
「それを言いに、わざわざ?」
紺の上着の女が言った。
「急に、ごめんなさい」
佳澄がハンカチを下ろした。
「この人が、どうしても聞きたいことがあるって」
「結華は?」
銀のイヤリングの女が、佳澄の顔を見た。
「呼んでない」
「聞きたいことがある」
俺はテーブルに両手を置いた。
「皆さんが離婚を決める前、佳澄の親友に、何を言われた」
誰も答えなかった。グラスに手を伸ばす人もいない。
「目的があるわけじゃない。礼が要るなら、言ってくれ。払う」
塩谷が、指輪の手でグラスを回した。
「お金はいいわ」
「その代わり、今夜の酒代はあんた持ちね」
「ここを空にしてもいい」
「言ったわね」
塩谷は片手を上げて、店の人を呼んだ。
*
二杯目が並んだころ、塩谷が口を開いた。
「あたしは、結華と知り合う前は、別に不幸じゃなかったのよ」
「知り合ってから、亭主の悪いところを数えるようになった。数えてごらん、ってあの子が言うから」
「ノートに墓場って書いたの、あたしよ。あれは、自分のことを書いただけ」
低い声が、隣から続いた。瑞穂だ。
「私は、決める3週間前に言われた。別れるなら早いほうがいい、って」
「3週間前って、覚えてるの」
塩谷が聞く。
「日付まで覚えてる。トークに残ってるから」
「それで、別れるほうに話を進めた。自分で決めたつもりだったけど」
「佳澄の結婚のとき、長くは続かないと思うって書いたのは私。……あの日の、あの書き方。取り消す」
丸い眼鏡の冬香が、グラスを置いた。
「私は、離婚してよかったよ。今でもそう言ってる」
「冬香、それ、いつも言うね」
瑞穂が言った。冬香は眼鏡を押し上げて、少し黙った。
「……それ、離婚したあとに言い始めたの。そう言う以外に、慰めがなくて」
「だから、あれは私の話。佳澄の結婚にまで言うことじゃなかった」
塩谷が、指輪を親指で回した。
「私たちも、あの女にやられた」
しばらく、誰もしゃべらなかった。
「私も、似たようなこと言われた」
紺の上着の女が、ぽつりと言った。
「私は……決めたのは自分だけどね。背中は、押された」
銀のイヤリングの女が、イヤリングに触れながら言う。低いまとめ髪の女は、黙ってうなずいた。
ショートの女だけが、何も言わずにグラスを空けた。
佳澄はハンカチを握ったまま、一人ずつの顔を見ていた。
「私も」
佳澄の声は、ほとんど聞き取れなかった。
「ノートを見て、そうなんだって思ってた。みんながそう言うなら、そうなんだって」
塩谷が、佳澄のグラスに水を注ぎ足した。
*
「でも、どうして佳澄だったの」
瑞穂が言った。
「あの子、佳澄のことは本当に可愛がってたじゃない」
「可愛がってたっていうか、いつも隣に連れてたよね」
紺の上着の女が、氷を鳴らした。
「結華はね、家が苦しかったの」
塩谷が答えた。
「高校のころから、ずっと働いてたって」
「佳澄と知り合う前の話?」
冬香が聞く。
「ずっと前よ。あたしも、本人から一度聞いただけ。酔ってたときにね」
塩谷は一口飲んで、続けた。
「顔で暮らしを変えるつもりだったのよ、あの子。結婚して、別れて、また結婚して。それでも、思ったような暮らしにはならなかった」
冬香が眼鏡を外して、レンズを拭いた。
「それが、佳澄と何の関係があるの」
瑞穂の低い声が、少し硬くなった。
「昔一緒に売り場に立ってた子が、稼ぐ人と結婚して、何もしなくても大事にされてる」
塩谷はグラスを置いた。
「それが、我慢ならなかったんでしょ」
ショートの女が、空のグラスの縁を指で押さえた。
「……許せない」
低いまとめ髪の女が、横目でショートの女を見た。誰も、その声に言葉を足さなかった。
俺は返事をしなかった。テーブルの上の、自分の手を見ていた。
店の人を呼んで、伝票をもらう。金額は見ずに、カードで払って立ち上がった。
「行こう」
佳澄は七人に頭を下げて、席を立った。
店のドアが、背中で閉まる。中の声は、もう聞こえなかった。
外の通りは、店の中より冷えていた。佳澄は俺の半歩後ろを、黙ってついてきた。
駅までの道で、佳澄は一度だけ店のほうを振り返った。俺は振り返らなかった。
*
辞令は、週が明けた月曜の9時に、予定どおり全社に流れた。
後日、人づてに聞いた。
あの夜、店を出たあと何人かで結華のアパートへ行ったらしい。
何があったかは、知らない。
入院して、そのまま町を出たと聞いた。
「ここ、サインでいいのよね」
「ああ」
離婚届には、二人ともサインした。証人の欄も、二人分が埋まった。
別紙の協議書は、書斎で作り直した。車を売った代金の振込日と、賞与の支払いの月が並んでいる。
届は、平日の朝に二人で役所の窓口へ出した。
「受け付けました」
窓口の人は書類の端をそろえて、それだけ言った。
佳澄は、遠くの町で部屋を借りると言った。知り合いの一人もいない町だという。
荷物は、思っていたより少なかった。段ボールが五つと、スーツケースが一つ。
最後の日、佳澄はスーツケースを引いて、玄関に立った。
「鍵、ここに置いていくね」
靴箱の上に、鍵が一本置かれた。キーホルダーは外してあった。
「荷物は、もう全部送ったから」
「わかった」
佳澄は、リビングのほうを一度だけ振り返った。何を見たのかは、聞かなかった。
「向こうで、仕事を探す。販売なら、前にやってたから」
「ちゃんと生きる」
佳澄はそう言って、ドアの外で一度だけ頭を下げた。
俺は、ああ、とだけ返した。
ドアが閉まって、内廊下を遠ざかるキャスターの音がした。片方の車輪だけ、少し高い音を立てていた。
次に会うときは、お互い元気で。




