【14】
ロマンはS級冒険者であり、剣の勇者である。
まぎれもなく、世界最強の一人である。
ただし、人間として。
人間はそもそも、基礎的なステータスは決して高くない。
世界に数多存在する人間以外の生命体――代表的なものは、やはりモンスターである。モンスターで上位種として知られるものの多くは、ステータスでは人間を遥かに圧倒していた。生物種としての絶望的な差を埋めてくれるのが、この世界の根幹であるシステムというものだ。システムの恩恵を受けずに真正面から殴り合ったならば、人間はモンスターにあっさり蹂躙されるだろう。
ロマンでもそれはそうだ。
武器を捨て、防具を脱ぎ、スキルを封印し、仲間からの補助魔法も受け付けない――そんな裸一貫の状態では、絶対に大した戦果はあげられない。システムの恩恵を失えば、人間はかなり脆弱な生き物であることが露呈する。
だから、ありえない。
目の前で起こったことは、この世の常識を超えている。
武器を持っていない、防具を着ていない。
スキルは発動していない。仲間からのアシストもない。
裸である。
一人である。
それなのに、一撃。
一撃で、モンスターを粉々に打ち砕いた。
「馬鹿な……」
絞り出すようにして、それだけ云うのがやっとだ。
動き回ったわけでもないのに、ロマンは息が切れていた。あまりの光景に息を呑み、そのまま呼吸を忘れていたらしい。あえぐように空気を吸った。ありえない、ありえない、ありえない。吐き出す息と共に、パニックも吐き捨ててしまおうとするが、ロマンはなかなか平静になれなかった。
一方で、凪いでいる。
ただ、静か。
真夜中の闘技場を照らすのは、今や、夜空の月だけである。フレイムリザードの吐いた火の息も、その大きな体と共に消し飛ばされていた。声を立てる者はなく、時折、バチバチと雷鳴の走るような雑音だけが生じている。そして、大きく展開されたままの深紅のウィンドウ。忌まわしき警告文と共に、少年は静かに立っている。
「システムが……。何が、起こっている?」
ロマンはうわずった声でつぶやくが、返事をする者は当然ない。
裸の少年。
リオンの繰り出した攻撃は――。
いや、攻撃と呼べるのかも怪しいその一撃は――。
動作としては、殴る。
ただし、非常にゆっくりだった。
ふわりと、ただ、右手を前に突き出したようなもの。
それだけなのに効果は劇的だった。
フレイムリザードは文字通り消滅した。
骨の欠片も血の跡も残さず、何もかも塵と化した。
「なんなのだ、あれは?」
ロマンは遂に叫ぶ。
ロマンが自慢の武器を使い、必殺のスキルを駆使すれば、フレイムリザードぐらい一撃で倒すことは可能である。ただし、あれ程までに完全なる破壊は不可能だ。もはや人間の所業ではない。それこそ、おとぎ話に登場する最強のモンスター、竜が使用するというブレスぐらいの威力がなければ――。
そこまで考えて、ロマンの思考は途切れる。
思考を中断せざるを得なかった。
リオンが振り返ったからだ。
目が合い――。
そして。
彼は一歩、こちらに進んだ。
「……リオンくん?」
ロマンと同じく、こちらも呆然としていたアズクリッド。我に返ったような顔で立ち上がると、一歩、二歩と、ふらふらした足取りでリオンの方へ歩み寄ろうとした。
すぐ近くにいたロマンは反射的に動く。
アズクリッドの肩をつかみ、強引に引きずり倒した。
代わりに、前へ出る。
ロマンは剣を構え、リオンに向けた。
「止まれ」
ロマンは己の行動を正義と信じている。
目の前にいるのは、もはや、得体の知れない何かである。そしてどうやら、この世界の神を乱している。システムと共にある人間の一人として、あれは種としての敵対者のようにしか見えなかった。
半歩、横に動く。
尻もちをついているアズクリッドをかばうように位置取る。
「止まれと云った!」
リオンは止まらない。
何も云わず、向かって来る。
「止まらないならば……」
言葉の通じないモンスターを相手にする時の選択肢は、最初からひとつしかない。
結局、それと同じである。ロマンは覚悟を決めて、大きく一歩、二歩と踏み込んでいく。
「覚悟を!」
間合いに入り、一閃。
躊躇はなかった。
代わりに、確かな恐怖を覚えていた。
振り下ろした刃。手ごたえはなく、空振り――。避ける動きがまったく見えなかった。中途半端に宙で引き留めたロマンの手が小刻みに震えている。己が恐怖に震えているという事実に、ロマンは改めてぞっとする程の恐怖を覚えてしまった。
S級冒険者に上り詰めて、もうかなりの年月が経っている。世界のトップに居座るようになってからは、どのような悪党やモンスターと対峙する時も恐れることはなくなった。
ロマンは絶対の自信を持っている。
世界最強たるプライドが、今、あっさりと崩壊した。
「う、ぐ……」
嗚咽を噛み殺し、ロマンは剣を構え直す。
リオンは、ほんの少し横に動いただけのようだ。
振り下ろされるロマンの剣に対し、何の脅威も感じていないかのように、するり、と、半身を傾けたらしい。紙一重の攻防と云えば、そうとも云える。だが、ロマンにはリオンの動きが、圧倒的な強者のそれであることがわかっていた。紙一重は、反応がぎりぎりだったからではない。ただただ余裕であったから、寸前で避けてみたというだけなのだ。
恐怖に背中を押され、ロマンは剣を突き出す。
心臓に一直線の、鋭い突きである。
リオンは避けなかった。
剣先が、直撃。
「……は?」
表示されたダメージは、『0』。
心臓を貫くことはもちろん、皮膚を破ることもできない。
いや、ロマンの剣はリオンの皮膚に食い込んですらいなかった。
「……」
何も、言葉は出てこない。
恐怖を通り越し、驚嘆を通り越し、ロマンの心は無になる。
リオンが動く。
ロマンの目の前から、瞬間、かき消えて――。
次の瞬間、真後ろに立っていた。
「こちらです」
親切にも、教えられた。
ロマンは振り返ろうとするが――。
「残念」
さらに次の瞬間には、正面に戻っている。
「では、いきますよ」
そして、ロマンの目の前に拳が迫り来る。
ゆっくり、と。スローモーションのような攻撃であるものの――。
それは、フレイムリザードの存在自体を抹消したかのような、あの一撃と同じ――。
「う、うわぁあああぁぁぁー!」
ロマンは人生で初めて、本物の死というものを実感する。
絶叫と共に、我も忘れて叫び狂った。
「参った! わかった、私の負けだ。やめてくれ!」
腰を抜かし、剣も放り出し、両手で身を守るようにして命乞いした。
「ああ、よかった」
ロマンと対照的に過ぎる、のんびりとした声色。
拳は途中であっさりと止まっており、いつもの笑顔が浮かんだ。
「あ。もう、朝ですね」
夜に、一筋の光が差し込んだ。
暁の光。
いつの間にか、夜明けが近い。
闘技場の中であるから、地平線は見えない。見えるのは、白んでいく夜空である。自然の情景の移り変わりは、ほんの少し前まで、リオンの目を楽しませてくれる唯一のものだった。ボロ小屋で一人暮らしていた頃は、朝焼けの美しさに誰にも云う必要のない『おはよう』を代わりに告げていた。
おはようの代わり、リオンはロマンに告げる。
「ボクの勝ちですね。アズクリッドにはもう手を出さないでください」




