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ちっぽけカタストロフィ  作者: 佐枝 樹


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3_1. 決行

「スプレー持った?」

「持った!」

「すぐ取り出せる?」


いただきババアの家にほど近いモールの駐車場で何度目かの荷物点検を行う。生ゴミよーし、ジャムよーし、ペットボトルよーし。最後に護身用のスプレー缶をスチャッと構えてみせる私に凌くんがうなずく。


「じゃあ、いってきます!」


合格をもらえたので元気よく出発を告げ、車を降りて一人でバス停に向かう。

大丈夫。行き帰りの乗り場も時刻表も覚えたし、着いたあとのシミュレーションもした。きっとうまくいく。


昨日はパンケーキを頬張りながら、いただきババアの自宅周辺を調べた。そこは駅からだいぶ離れた住宅地で、公共交通機関はバスだけの不便そうな場所だ。コンビニもポツンとしかないことからひと気のないエリアだと予想がついた。ひと目がないわけではないだろうけど、誰かに見咎められる心配はなさそうだ。

だからといって車で乗りつけることはしない。閑静なぶん、ひとの入れ替わりが少なそうだから見慣れない車は印象に残ってしまうかもしれない。なにより凌くんの持ち物に心理的な瑕疵をつけたくない。凌くんのことだから車だろうとあっさり手放してしまいそうだし。

よって交通手段はバスとなったわけだが、普段バスを使わないので正直不安。馴染みの薄い乗り物でまったく知らない場所へ行く、しかも翌日とはなかなかハードルが高い。だがやってみせる、と意気込んで駅のバスターミナルを調べると同じ乗り場からルート違いのバスが何本も出ていて不安が倍増した。そこで乗り間違える心配がないバス停を探したところ、凌くんがモールを通るルートを見つけてくれて、そこまでは一緒に車で行くことになった。


そして現在、私はモール前の乗り場でバスを待っている。ほかに待ち人はなし。

凌くんも一緒に行きたがったが、モールで待っていてもらうことにした。凌くんと一緒だったら心強いけど、でも凌くんはあまり丈夫にできていないから無理はさせられない。だからこういう心臓がバクバクすることは私一人でやってみせる。それに目的地の住人は顔も性格も下卑ているから、その住居も汚くて淀んでいると思う。そんなところに凌くんを近付けるわけにはいかない。

スマホで時間を確認して、バス停に貼ってある時刻表を確認して、またスマホを確認する。ギリギリまで車にいたから待ち時間なんて数分なのに、その数分間に何度も確認を繰り返してしまう。落ち着こうと深呼吸をしてみたがまったく落ち着かない。思い余って「人人人」と子供向けのおまじないまでして、さすがに恥ずかしいなとある意味クールダウンしたところでバスが到着した。時刻表どおりに来てくれてありがとうございます。


乗車して五分ほどで降車。車って本当に速い、徒歩だと三十分かかるらしい距離もすぐだった。待ち時間よりも長く乗っていたはずなのに、あまり長く感じなかったのも不思議だ。知らない道を走っていたからだろうか。

バスを降りた先の団地には簡素な長方形が並んでいた。こうも同じ外観の建物が整列していると、その統一感にどこか不気味さを感じて少し怖くなる。紙袋の持ち手をギュッと握って足早に進むと、ほどなくして目当ての番号の棟に着いた。入口にはポストが並んでいたが、ほとんど表札がついていなくて役に立たない。つい舌打ちをしたくなったが、まわりが静かすぎて音を立てづらいため諦めた。代わりにため息をついてからスマホを取り出して凌くんに電話をかける。


「凌くん、着いたよ。いまから階段上るね」


短いやり取りのあと、通話中のままのスマホをポケットにしまう。今日も凌くんが貸してくれた服を羽織っているが、男物のポケットのゆとりに感心しつつ、中でスマホが揺れないように気をつけながら階段に向かう。少し狭くて、少し急な段差を一歩一歩上って目的の階を目指す。

階段を上り終えてすぐ目に入ってきたのはドアの横に置かれた陶器の傘立て。赤い薔薇と緑の葉が絡まったデザインのそれにビニール傘が収まっている。異色際立つその部屋の番号を確認したところ、今回の目的地であるいただきババアの部屋だった。

カナヅチ持ってくればよかった、と毒吐きながら手袋をはめる。凝ったデザインの傘立てに苛立ちを増幅させられて、ここに来るまで抱えていた怯えは吹き飛んだ。乱暴な手付きで瓶の蓋を開け、中に指を突っ込んでジャムをすくう。カビの生えた部分は覗き穴に塗りつけ、それ以外はドアの真ん中に「呪」の字にして塗り込める。ありったけの憎悪を込めて。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!!

瓶自体の容量が少なかったのでジャムはすぐなくなってしまった。呪い足りないが仕方ない。瓶を紙袋に戻し、続いて生ゴミの入った袋を取り出す。三枚重ねたビニール袋の紐をほどき、中身をわし掴みにしてドアに向かって放り投げる。本当は力いっぱい投げつけたいが、汁が跳ね返ってきても嫌なので放るだけに留める。右に投げて、左に投げて、全体を満遍なく汚していく。床に散らばった生ゴミはドアのわずかな隙間を埋めるように押し込み、ドアノブにも念入りに擦り込んだ。最後の仕上げは賞味期限切れの調味料を一本にまとめた闇ドレッシングだ。温めた牛乳も追加したのでなかなかの濁り具合である。これもドアにぶちまける予定だったが、ドア横に目障りな色の傘立てがあるので予定変更。傘もちゃんと汚れるように留め具を外して少し開いた状態にしてから液体を回しかける。液体の油分でぬるついていく薔薇が汚らしくて、薔薇そのものも嫌いになっていく。ああ、どうか薔薇もババアもこの世から消えてなくなりますように。

すべて使い切り、たぷたぷになった傘立てがゴミ箱にしか見えなくなったので、生ゴミが入っていたビニール袋を中に捨てた。びっしょりと濡れそぼった袋の見た目はどこから見ても気持ち悪く、ゴキにはなんともお似合いだ。ついでに瓶も捨てて、ペットボトルはギリギリ入らなかったので表面を汚してから立てかけた。

作業終了。丸めた手袋を紙袋に放り込み、それを持って踵を返す。長居は無用、振り返らずに帰ろう。そう思ったのに、半階降りた踊り場で否応なしに体の向きが変わり、結果的に振り返ってしまった。見上げた先の視界にドアが映り、一瞬だけ足が止まる。その一瞬で膨れ上がった憎悪を再度ドアのその向こうへ叩きつける。

死ね!!!!


一階まで駆け降りて、アパートから少し遠ざかったところでスマホを取り出す。通話中のままの画面に向かって相手の名前を呼べば、すぐに応答してくれた。すぐ戻るから待っててね、凌くん。

通話時間は七分、ということはゴミ捨て自体は五分くらいで終わったのか。帰りのバスの時間を考えて二十分で終わらせないと、と気負っていただけに拍子抜けだ。ほうけたまま足を進め、バス停で時刻表を確認すると次が来るまで十五分以上あった。普段であれば待てる時間だが、いまここでの十五分は長すぎる。なので地図アプリを開いて次のバス停まで歩くことにした。


車もほとんど通らない静かな道を進むにつれ、予想外な感情に胸が満たされていく。高揚感、というものだろうか。

……スッキリした。すっごくスッキリした。ただゴミを捨てただけなのに、三千万を取り返せたわけでもないのに、とても爽快な気分だ。これが胸がすくってことなのかな。どうしよう、気持ちいい。気持ちいい!! ああ、だからなんだ。だから嫌がらせってなくならないんだ。この快感を求めてやっちゃうんだ。これだけ気持ちよかったら次もやっちゃうよね。他人の不幸は蜜の味ってこれかぁ。そっか、不幸でできていようと蜜は蜜だもんね、おいしいよね、もう一度味わいたくなっちゃうよねぇ。

でも。次もう一度同じことをしても同じレベルの甘さはきっと味わえない。きっと物足りなくて、そこからどんどんエスカレートしていくんだ。わかる、きっとそうなる。ああ、きっとここが分かれ道だ。私がモンスターになるかならないかの分岐点。モンスターにはなりたくない。なりたくないけど、いただきババアは苦しめたい。苦しめたいけど、あんなゴキに囚われたくもない。


——みいが俺の健康を願ってくれることって拠りどころなんだよね。だからゴキに割くくらいなら、また俺に使ってほしいな~。


凌くん。

私に未来があるなら、それは凌くんに使いたい。凌くんも……


「すみませぇん」

「はいっ?」


昨日のことを反芻していたら、前方から歩いてきたおばあさんに声をかけられた。手にはハガキを持っていて、それを見せながらこのクリニックを知らないかと聞かれた。もちろん知らないが、知らない場所を聞かれるのは慣れっこだ。開いていた地図アプリでクリニックを検索し、次の角を右に曲がればいいと案内した。

おばあさんと別れてから少し進むとバス停に着いた。そこの時刻表を確認していると、「こんにちは」とまた別のおばあさんに声をかけられた。


「バスってすぐ来ます?」

「あと七、八分みたいですね」

「どうしようかしら。近いと言えば近いんだけど、荷物がねぇ……」


そこからバスが来るまでの十分間、おばあさんの荷物を持ちながら世間話をすることになった。

やましいことをしたあとだからか、まるでなにかから償いを求められているように感じてしまう。償いといっても数分間の人助けだ、これで済むなら安いものだろう。だけど請求するなら私にだけじゃなく、いただきババアにもきっちり請求してほしい。しっかり徴収して、後悔もちゃんとさせてほしい。

バスに揺られながらそんな超常的なことを考えていると、あっという間にモールに着いた。窓から凌くんの姿が見えたので急いで降りると、「がんばったね」と出迎えてくれた。うん、がんばったよ。

「えらい、えらい」と褒められながら車へ向かっていたその途中、突然甲高い泣き声が響き渡った。思わず辺りを見回すと、年中さんくらいの女の子が駐車場に一人。またしても立ったフラグに強制労働めいたものを感じて内心引いていると女の子と目が合ってしまった。周囲にはほかに何人かいるのにこちらに駆け寄ってくる女の子を見ながら、今日はボランティアデイなんだよと自分に言い聞かせる。

「ママとはぐれちゃった?」としゃがみながら声をかけると女の子はうなずいた。駐車場にいるということは車に置いていかれたのかな、寝ていたとかで。それならすぐ戻ってきそうな気もするけど、インフォメーションに連れていったほうがいいのかな。

とりあえず「お名前は?」から始めていくつか質問してみるも、まったくおしゃべりしてくれない。だけど提げていたポーチを褒めたら自分から見せてくれたので、これ幸いとお名前シールを探した。外側にはなかったので中も見せてもらうと、内ポケットにでかでかと名前が書かれていた。ひらがなと、ご丁寧に漢字まで。その漢字を目にした瞬間に言葉が出なくなった。なんの因果か、いただきババアの名前と同じ一字がそこにあったから。……なにこれ、どういう偶然なの。

気持ちの悪い偶然に思考が迷走しそうになったが、凌くんの声に我に返る。そうだね、ここ車通るし、インフォメーションのほうが安全だよね。どうにか気持ちを立て直し、三人連れ立ってモールに入る。そしてフロアマップを確認し、インフォメーションがある館内中央まで女の子の肩に手を添えて誘導した。おしゃべりが苦手な子と歩き続けるには長く感じる距離だったが、無事に受付のお姉さんにバトンタッチしてお役御免。

来た道を戻る際にトイレを見つけたので、持っていた紙袋を捨てさせてもらった。ついでに手も二回すみずみまで洗う。ハンカチもティッシュも持っていないのでよく水気を切ってから戻ると、凌くんはアジア系ショップの店先にいた。鮮やかな色の雑貨がところ狭しと並べられた楽しそうなお店だ。


「さっきの子の名前、ちょっとビビったよな~」

「ビビた、呪いかと思た、もうダメね」


まさにその字が刺繍された吊るし飾りを指差す凌くんに、似非外国人風のイントネーションで返す。

赤を基調にしたそれは縁起物の一種なんだろう、文字そのものもお正月によく見かけるし。……ということはつまり、これからお正月を迎えるたびに私はいただきババアを思い出すことになるのか。最悪。絶望しかない。誰かこの字を世界から消し去ってくれないかな。それかFワード的なものとして扱ってほしい。せめて人名には使わないで、問答無用でそのひとの不幸を願ってしまうから。

本気で項垂れていると凌くんがアイスを買ってくれると言うのでお言葉に甘える。食品マーケットに立ち寄って二個入りのアイスを買い、店外に設置されたベンチまで移動してから封を開ける。

夏が近づいてきた気配を感じる気温の中、半分こしたアイスをしみじみ味わっていると敷地の隅に鳥居を見つけた。誰もいない小さなお社は、おそらく昔からこの土地に建っているものなんだろう。誰がお手入れしているんだろうなと神社を眺めていると、さっきの女の子やおばあさんたちのことが気になってきた。

いくらなんでも一時間もしないうちにあんなに声をかけられるのはさすがにおかしい、しかも嫌がらせをした帰り道に。まるで本格的な罰(バチ)を当てられる前触れのようで薄ら寒くなり、つい「神様っているのかな」と声に出してしまった。


「んー、俺は御利益を感じたことないからなぁ。うちに御札の類いいっぱいあるけど、あれで体が楽になったことなんてなかったし。死ななかったことが御利益だって言われたらそれまでだけど。だからまぁ、仮にいたとしても助けてくれない神様ならいないも同然じゃない?」


そうだった、凌くんはあまり御神仏を信じていないんだった。

凌くんの実家には御札がずらりと飾られた部屋があって、凌くんはお薬が効かないとそこに寝かせられていた。その御札はどれも凌くんママが由緒正しいところで御祈祷をお願いしたもので、凌くんのためにという愛情がこもった代物だったが、子供の目にはホラーとしか映らず本気で怖かった。

凌くんも昔は怖かったらしく、だけど自分を想ってのことだということもわかるから我慢していたそうだ。しかし発作はちっとも治まらず、次のお薬の時間までひたすら耐えるだけ。苦しいあいだずっと御札を見続けた凌くんにはもう細長くて画数の多い習字作品にしか見えないらしい。


「御札の部屋、まだあるの?」

「あるある。まだところかいまも母さんが定期的に御札取り替えてるもん。俺には効果ないって何度言っても新しいのもらってくるんだよね。妹や弟に効果あるならまだしもなさそうだし。なのに何十年と無駄金払って、本当に困ったもんだよ」

「神社もお寺もけっこうお金かかるよねぇ」

「しょせん人間が絡んだら神聖さよりも商売に転がるんだよなぁ」


昨年の新嘗祭、うちにはたしか三万円と印字された振込用紙が届いた。一昨年はお寺の修繕費として二十万円の奉賛金を求められたと聞いた。氏子や檀家は毎年なにかとお気持ちという名の出費を余儀なくされる。もちろん神事を執り行うにも建造物を維持するにもお金がかかるのはわかるけど、宮司さんやご住職さんに人間臭さを感じるとどうにも気持ちよく払えないものだ。

小学生のころ夏祭りの献金を求められたときはびっくりした。駐車場で縄跳びの練習をしていたら普段着姿のおじさんに声をかけられて、親に伝言すればいいのかと思って了承したら、私に向かって「一口千円です」と手を突き出してきた。あのときの貼りつけたような笑顔、あれは冗談じゃなかったと思う。お金を持っていないと断ったときも目が怖かったし。法事のときもよく親戚が坊主丸儲けだと愚痴っていたっけ。手作りのお団子などは持ち帰らせるのに、デパートで買った菓子折りやフルーツといったお高いお供え物は決まって返さない、そのがめつさに対する文句をずっと聞かされた。いまならコロナを理由にできるけど、昔からだからそういう性分のひとなんだろう。回忌法要でしつこく連絡がきて大変だったっていうひともいたなぁ。

私が知っている神職さんは数人だけど、みんなお金に執着するひとばかりだった。何百年と続いてきたものを、これから先も存続させていくためには仕方のないことかもしれないけど、そういう人間が管理しているとなると払いたくない気持ちもわいてくる。それでも払ってきたのは本家のおじいちゃんに「神様にお納めするんだよ」と教わったからだ。困ったときに助けてもらえるように、日頃から神様に感謝の気持ちを捧げるんだよって。

……でも、無駄だったのかな。神様は見えない、だからいるともいないとも言えなかったけど、いたとしても助けてくれるとは限らないのか。だったら凌くんの言うとおり、いないも同然だ。仏様もそう。ご先祖様もそう。お盆やお彼岸、命日に毎年お参りしていたって誰も父を止めてはくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。


「助けてくれない神様なら、見てるだけってことだから罰も当てないよね?」

「罰だけ当てるとかこわぁ! ないない、そんな神いても誰も信仰しないって」


帰りのバスが来るまでのことを話したら、凌くんは真剣な面持ちで「それは怖いね」と同意してくれた。一見真顔に見えるけど……、絶対笑ってるでしょ。内心笑っていることを指摘すれば、凌くんは一回目こそ否定したが二回目は途中で噴き出して、そこから声を殺しながら笑い始めた。


「いや、さすがだな~と思って。みいが変わってないことが嬉しくて思わず笑っちゃったのよ、他意はない本当に」


ぢゅうぅぅ、とアイスの残りを音を立てて吸うことで遺憾の意を表明する。


「ま、罰ではないんじゃない? あれだよ、終わりよければってやつ。きっと心優しい芙美ちゃんで締めくくってほしかったんだよ、みいのじいちゃんばあちゃんあたりがさ」


……ぢゅ。


「もし罰のほうだったら一緒に謝りにいこ。でも罰を当てる力があるなら助けるほうに使えよって話だよな~。無理なのかねぇ。まぁ、神サマが無理でも俺は助けにいくからさ」

「あなたが神か」

「いや人間、二十九歳男性東京都出身」


助けにいく。さらりと言われたその言葉にど真ん中を撃ち抜かれて一瞬全部が飛んだ。とっさに返した言葉は冗談めかしたとはいえ本気の本音だ。

神様は助けてくれなかった。でも凌くんは助けにきてくれた。だったらもう凌くんが神様ということでいいんじゃないだろうか。でも本人からは人間と申告された。

本当に? 私を助けても一文にもならないんだよ? お金ももらわずにひとを助けるなんて人間にはできっこないよ。ああ、でもこうやってアイスを半分こできるのは凌くんが人間だからだ。家に泊めてくれて、服も貸してくれた。こうした物質的な安心安全を与えられるのは実体がある人間だけ、つまり凌くんは人間だ。

だけど私にとっては神様より神様で、この要素を加味すると……「恩人」が該当するのかな。ちょっと弱い気がするけど、いまはほかに思いつかない。


食べ終わったアイスの容器をもとの袋に入れ、ゴミ箱がなかったのでそのまま持って車へ向かう。視界に色褪せた朱色を捉えながら思うことは、人間を助けられるのは結局人間だけだということ。

一昨日の夜、あの公園に凌くんを連れてきてくれたのは神様かもしれない。そうスピ寄りに考えることはできるけど、物理的にも精神的にも助けてくれたのは凌くんだ。顔が見えることの安堵感、すぐそばで聞こえる声の安心感、会話からうまれる連帯感、感じた体温から得られる充足感、一緒にごはんをつくって一緒に食べることの幸福感。なにかに縋って泣くことしかできなかった私に、その全部を凌くんは与えてくれた。私が日頃から感謝すべき相手は凌くんだったんだ。


「凌くん、ありがとう」


泊めてくれてありがとう。

ごはんと服もありがとう。

慰めてくれてありがとう。

肯定してくれてありがとう。

手伝ってくれてありがとう。

一緒にいてくれてありがとう。

大好き。


車に乗り込みながら、この三日間のお礼を述べる。最後どさくさ紛れに告白もしたが、友愛だと受け取ってくれるだろう。さて、シートベルトを締めて、いざ出発! そうだ、このあいだに地図のピン止めを外しておこう。

スマホを取り出し、地図アプリからバス停などに付けていたマークを削除していく。地図をまっさらに戻したところで車のエンジンがかかっていないことに気付いた。どうしたんだろうと横を向くと、凌くんもこちらを向いていたので、どうしたのと首を傾げて伝える。


「……あのさ、みい。ずっと考えてたんだけど」

「うん」

「俺と結婚しない?」

「う……、ん?」


晴れた空にかかる太陽が真上に近付いてきたころ、私は見知らぬモールの駐車場の一角で、よく知っているはずの幼なじみ兼恩人二十九歳男性東京都出身からプロポーズされた。

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