2_3. 一番
ひとしきり笑って、今度こそ話を戻すために居住まいを正す。
えーっと、なんだっけ。熱湯こわい、からのハロウィン、は十月だからまだ先で、そうゴミ捨てだ。
ネットによると相手宅にゴミを捨てるという嫌がらせがあるそうだ。でもこれは不法投棄という犯罪でもある。調べるまでは山中に大型家電を捨てる悪質業者をイメージしていたけど、空き缶やタバコなどのポイ捨ても廃棄物処理法違反になるらしい。……だとすると、ごまんというひとが犯罪をおかしていることになる。でもポイ捨てで捕まったひとなんて聞いたことがないから、ほとんど見逃されているんだろう。目こぼしされる理由は、やはりコスパが悪いからだろうか。指紋がついた空き缶、唾液や皮膚片がついたタバコ、街中に設置された防犯カメラ。どれだけ証拠が残っていようと調査するには先立つものが必要になる。だから相当悪質な常習犯でもない限りお金をかけてまで調べようとはしない、といったところだろうか。だとすると現行犯で捕まることにさえ気をつければいいのかな。……別に、捕まったら捕まったでかまわないけど。事情聴取はされるだろうから、そのときにあの女が脱税しているとかあることないことを言って、そこから身辺調査にもっていければ……
「……公営住宅?」
「うん?」
「住所ここで合ってるよな? 公営住宅みたいなんだけど……」
パソコン画面には量産型の箱物アパートが映っていた。素っ気ない建物の白ともいえない外壁の上部には、これまた飾り気のないフォントで番号が書かれている。凌くんが地図表示に切り替えて、その建物の住所も表示してくれたので免許証の情報と見比べる。同じだ。
念のためもう一度、今度は私も一緒に検索する。ブラウザを一度閉じてから再起動。私が免許証を読み上げて、凌くんが打ち込む。入力内容が合っていることを二人で確認してから検索し、その結果から地図サイトを開く。マークされた地点の風景写真を確認すると、さっきと同じ四角い建物が画面に表示された。
……公営住宅ってそう簡単に入居できない、よね? 本当に困っているひとしか借りられないんじゃなかった?
凌くんは写真の視点を変えながら周辺も確認し、別タブで公営住宅の一覧らしきページも見ていた。まわらない頭で進んでいく画面を眺めていると、凌くんが「……こいつさぁ」と口を開いた。
「こいつ、相当嘘つき慣れてるよ。名刺に営業部長ってあるのに公営住宅に住んでるなんてありえないって。所得の審査とか、会社ぐるみで改ざんしてんじゃないの? 会社じゃなくても絶対入れ知恵してる誰かがいるって」
「息子……、社長だって……」
いただきババアには息子がいる、らしい。その男の写真を父は持っていなかったので顔はわからない。父は一回だけ会ったことがあるそうだが、なぜか名前はうろ覚え、会社名にいたっては聞いてもいなかった。だから私がその男について持っている情報は鉄道事業のパートナー会社を経営しているということだけ。ちなみに名刺もない。
「……設定なんじゃない? 息子じゃなくてホストかもよ」
凌くんの憶測に血の気が引いていく。父から話を聞いていたとき、理解できなくてそれ以上考えることを止めたことがある。あの女が使っているカードについてだ。
あの女は息子の会社のカードを使って生活しているらしい。会社の経費や従業員の給料といった支払いをすべてを紐付けてあるカードだそうで、支払日に引き落としできないと機能が全停止する仕組みになっているとかなんとか。
……そんなことある? 法人用のクレジットカードも、それが会社のシステムにどう影響するのかもわからないけど、そんな重要なカードを母親に預けっぱなしにする? 好き放題使って、支払日が近付くと「息子に嫌われる」「孫に会わせてもらえなくなる」とキレ散らかす女に?
息子の会社の負債も肩代わりしているんじゃないかと疑ったこともあったけど、そもそも息子じゃなくて、息子ほど年の離れたホストだった? だって社長の息子がいて住所が公営住宅ってありえるの? 当の本人だって六本木の会社に勤務しているのに? 港区勤めで公営住宅に住んでるってなに?
「全部嘘に見えてきたな。李って、韓国人じゃなくて中国人かもしれないし。名刺にあった不動産会社にも現在進行形で在籍してるのかも怪しいし」
全部嘘。そうだ、私も真っ先にそう思ったんだった。
だって最初に父が私にお金を無心してきたとき、女がもともと要求してきた金額は五百万円だったんだから。それが三百万、二百万と減っていったことを聞き出した先月、私はどうしてかと理由を尋ねた。父の答えは「知らない」。あっけらかんと放たれたその一言を皮切りに、父とはずっと言い合いの怒鳴り合い。とにかくこれ以上お金を渡さないことに必死になっていたから、なにが嘘でなにが本当かを考えられなくなったんだ。
そうだよ、父が頼みの綱にしている数億円規模の不動産契約がまとまれば、あの女は六千万円も手にできるんだから借金だって自分名義ですればいい。なのに「頼りになるのはあなただけ」なんて気色悪いメッセージを父に送ってくるばかりで自分はノーリスクのまま。そもそも契約話自体が嘘だったってこと? 土地の所有者が税金を納められなくて困っているっていう話も? そのひとを助けてあげたいんじゃなかったのかよ、クソババア。
「借金も不倫も民事扱いだし、前科がつかないってわかっていての犯行だろ絶対。金取られるだけ取られて、おじさんもほんっとバカだな」
前科がつかない。……やっぱり詐欺の立証は難しいよね、父自身が証拠隠滅に加担してるんだから。
警察は社会秩序全体を守るために存在する。だからこんな被害者が一人二人の小さな事件じゃ動いてくれない。もし動いてくれるとしたら、被害者が百人はいて被害額も億を超える規模になってからだろう。個人レベルで動くときがあれば、それはきっと誰かが誰かを殺したときだけだ。…………だったら、殺そっか。そこまでがんばったら刑事事件として取り扱ってくれる? あの女に前科をつけてくれる? あの女の名前が全国に広がって、ネットでは家族も住所も晒されて、日本に住めない状態にしてくれる? ああ、本人が死んでいたら意味ないよね。じゃあ未遂に留めるから、だから、どうか。
「死ねよ、本当に」
濁った思考に浸っていると、同じく濁った感情が乗った声が聞こえた。つられて顔を上げると、頬杖をついて画面を睨んでいる凌くんがいた。凌くんの死ねという物騒な言葉に心底安心する。私に同調してくれているのがわかるから。だから私も心の内を漏らしてしまう。
凌くん、わたしおかしいの。殺したいって、もうずっとそればっかり考えてる。もう何度もあの女を滅多刺しにする夢をみて、起きても包丁を眺めてばっかりで……
「おかしくないよ」
凌くんがわずかに空いていたスペースを詰めたので私との距離がゼロになる。
自分から露呈したものの、残虐性を知られたことがいたたまれない。顔が見れなくてうつむいていると頭にそこそこの重みを感じて、ついで耳元で凌くんの声がした。
「こんな性根の腐ったやつを相手にさせられて、お金どころか父親も取られて、つらいよな」
…………そう。父親を、取られたの。お父さんが、娘の私より、ほかの女を優先したの。お父さんが、私の父親であることより、男であることを優先したの。それがなにより悲しい。
とっくに成人して、一度は嫁いだ身でこんなファザコンじみたことを言うなんて気持ち悪いけど、私だって知らなかった。自分にこんな感情があるなんて。三十年揺らがなかった父親の愛情をぽっと出の女に奪われた、それがこんなに苦しくて悔しいなんて。不倫もののドラマなんていくらでもあって、誰々さんが浮気したっていう話も実際耳にするけど、うちでそんなことが起きるなんて想像したこともなかった。
どうして? お父さんは私のお父さんでしょ。七十歳で、いまさら男として生きないでよ。なんで毎日駆けずり回ってまで、その女のためにお金を工面しようとするの。会話がないとか、ケンカが絶えないとか、うちがそういう家庭だったならまだわかるよ。友達がいない、趣味がない、そういった孤独感に苛まれての結果ならきっと受け入れた。でもお父さんはなにも当てはまらないよね。笑いあえる家族、お茶したりカラオケに行ったりする友達、没頭できる趣味。ねぇ、なにが欠けてたの。どこにあの女を必要とする要素があったの。メイクでもカバーしきれないほど顔面偏差値は低いし、たかり屋が天職なんじゃないかってくらいがめつい。残金五千円の通帳の写真を見ても「五千円でも現金があるとありがたい」ってお小遣いを要求してくる女だよ? こんな顔も性格も底辺な女のどこがよかったっていうの。
――でも、そんな女に私は負けた。お父さんにとって私はあの女よりさらに底辺な存在らしい。
悲しい。苦しい。痛い。辛い。酷い。憎い。許せない。許さない。
不穏な形容詞をどれだけ並べてもこの感情を表現するに至らない。……だからなのかな。私が自分の感情も説明できないくらいバカだから、お父さんは向こうを選んだのかな。
「俺の世界でみいは一番上のピラミッドにいるよ」
自責思考に入りかけた私を凌くんが止めてくれた。たぶん嬉しいことを言われたと思うけど、頭が働かなくて理解に時間がかかった。いちばんうえ……
「……ほんと?」
「ほんと」
凌くんが「ほれ」と目を指差したので、私も「どれ」と言って覗き込む。うん、嘘はついてなさそうだ。
……それにしても凌くんは本当に綺麗なアーモンドアイをしてる。最近は綺麗なものと縁遠かったのでもう少し眺めていたい。
「殺したいっていう感情もおかしくないよ、仇討ちや切り捨て御免って言葉がある国に生まれたんだからさ。たしかにもう侍はいないし刀も禁止されてるけど、そういう社会になってからまだ百五十年くらいよ? その程度の時間で復讐思想が消えるはずないって。それにヨーロッパにだって決闘制度があったんだから、恨みを晴らしたいと思うのはもう人間のさがでしょ。だからみいは普通、正常正常」
殺害願望なんて醜い感情でいっぱいの私を凌くんは普通だと言ってくれる。命に重きを置くようになったいまの世の中では唾棄されることだって凌くんもわかっているだろうに、それでも私の感情を認めてくれる。こうやって厭うことなく隣にいてくれる。
「おじさんはどうしちゃったんだろうなぁ……。みいを差し置いて、ピラミッドの頂上にゴキを据えるとか狂ってるとしか言いようがないんだけど」
父の世界で私は底辺に落ちた。でも凌くんの世界では一番上の段にいるらしい。泣くほど悲しくて、泣きたくなるほど嬉しくて。自分の中がぐちゃぐちゃすぎて、もうなにがなんだかわからなくて、ただただ涙が止まらない。
「休んでていいよ、みい。俺がやり返してくるから」
泣いて、泣いて、ティッシュが底をつきそうなころ凌くんがそう言った。私はここで待っていればいいというその申し出は正直嬉しい。だけど私が首を振る方向は横だ。これは遠慮とかじゃないの、凌くん。
「凌くんと一緒がいい」
ただ私が凌くんと一緒にいたいだけ。
凌くん。私の世界の一番上で輝く一番星。何年も曇り続きで見えなかったあなたにひさびさに会えた。
私の答えに凌くんは「じゃあ一緒に殺しにいこっか~」と笑顔で返してくれた。ニコニコな顔からあっさりと放たれる真っ黒な言葉が私の心を救ってくれる。本当にあの女をゴキと見なしているようで、あの女の命になんの価値もないと言ってくれているようで。だから立ち上がる気力もわいてくる。……進む方向は真っ当でないけれど。ああ、軽犯罪の正式名称って「軽々しく犯してしまう罪」だったりするのかな。窃盗罪にあたる万引きの被害額だって一日あたり十何億円に上るらしい。そんなお店を破綻させる犯罪行為すらも軽々しく実行する人間どもがはびこる国なんだから、個人への嫌がらせなんてもっと軽々々しく実行されていることだろう。だから私があの女にやり返したとしても、それを非難できるほどの穢れなき人間なんていないはずだ。みんな同じ穴のムジナ、きっと大丈夫。
「ま、気楽にいこ。ゴミを撒くのもさ、韓国はまだまだポイ捨て多いってきくから故郷を再現してあげましたってことで」
嫌がらせが親切にすり替わった。やっぱり凌くんは天才である。そうか、嫌がらせだと思うからダメなんだ。これは外国人へのおもてなし、ちょっとしたサプライズ、そう思えばアイディアがポンポン浮かんでくる。なるほど、こうやって楽しんでしまう心理がひとに嫌がらせをさせるのか。
ゴミは個人情報の宝庫だといわれている。鑑定される可能性は低くてもあの女にはなんの情報も渡したくない。指紋やDNAはもちろんのこと趣味嗜好もわからないものを考えた結果、生ゴミをまき散らすことにした。あの女の家まで生ゴミを持ち歩かないといけないがそこは我慢するしかない。具沢山な料理なら一日でそれなりの量が確保できるから明日にでも実行できる。ということで晩ごはんのメニューも考える流れになった。
「韓国なら海鮮は外せないよな~。今日と違って明日は気温高めみたいだし、生臭さは有効だろ」
「じゃあ今晩お鍋にする? 下ごしらえで生ゴミいっぱい用意できるし」
「海鮮鍋! つくろつくろ、いーっぱい!」
いっぱいつくるなら味変したいと思い、台所に移動して調味料を確認させてもらう。ひととおりそろっている瓶類を眺めながら味付けを考えていると、横から悲鳴と金属音が上がった。
「……白いのってカビ?」
見ると凌くんの手にジャムっぽい瓶が握られている。蓋を押さえている右手をそうっと外し、中を確認してからそっと戻した。赤く艶やかな表面の一部に付着したフサっとした白いもの、カビですね。
随分前に1~2回使っただけだと話す凌くんの目が追うものは私が見ていた調味料類。固まってしまった凌くんの手からジャムを抜き取って脇に置き、それから調味料に手を伸ばす。ひとつひとつラベルや底を確認したところ半分が賞味期限切れでした。ドンマイ、凌くん。そうだね、時間の流れがおかしいんだよ。
処分しようにも新聞紙のように油分を吸わせるものがないのでどうしようかと思ったが、そこで「あ」とひらめいた。
「これも一緒に撒くのどうかな。ジャムはドアに塗りたくるの」
「それだ。みいってば天才じゃない?」
「凌くんってば、さては今日という日を見越して準備を……!?」
「俺ってば天才じゃん……っ」
「「セイ 天才! 天才!」」
大学時代に流行っていた曲の覚えている部分だけを歌いながら、捨てるものとお鍋に使うものを選り分けていく。その過程でここにはステンレスの片手鍋しかないことが発覚した。いっぱいはつくれないサイズに凌くんが絶望したので、ほかにつくれそうな料理を提案してみる。魚一匹でも十分生臭くなるし、ね?
しかしすでに海鮮鍋の気分な凌くんには響かず、食材と一緒に土鍋も買おうとおっしゃられた。でも陶器は使用前に水にさらしたりする必要があるので今日中には使えない。そう言うと崩れ落ちてしまった。
背中を撫でながら慰めていると凌くんは「実家から借りる」と言い出した。どこかでこだわりスイッチが入ったようなので止めずに見守っていると、凌くんは早速電話をかけて流れるように約束を取り付けた。
「土鍋ゲット~。具なに入れよっか」
「時期的にサワラかなぁ、売り場見ながら決める?」
鍋がない問題は解決したので、次は食材を買いに行くことにした。行き先はスーパーなのでこの格好でも大丈夫のはず、と身なりを気にしていたら凌くんがアウターを貸してくれた。
彼シャツっぽい状態にそわそわしているうちにスーパーに着き、頭がふわふわしているうちに店内を回り終えてレジに並んでいた。正気に戻ったのは合計金額が表示されたとき、さすがに鯛は止めるべきだったか。
凌くんはさして気にした様子もなくQRコードをかざしてお会計を済ませたが、昨夜も出費させてしまったので心苦しい。「俺が食べたいものを買っただけ」と凌くんは言うけど、私が好きなものも同じくらい選んでくれている。その事実になんかもう足がぷかぷかで、この大荷物じゃなかったら靴底と地面はきっと接していないと思う。
スーパーから帰宅したその足で凌くんは実家に向かい、私はお鍋の準備に取りかかる。その最中。
……本当に、私の頭はどうしちゃったんだろう。買ってきたものを袋から出しているときは普通、いや浮足立っていた余韻も相まって上々だった。まだ使わない食材を冷蔵庫に入れる、調味料の栓を抜く、食品トレーにかかっているラップを外す、どれも普通にこなせた。メインとなる鯛をまな板にのせて包丁を横に置いたときも大丈夫だった。お塩やお酒なども確認していざ捌こうとしたとき、突然あの女の顔が脳裏をよぎり心が落下した。
鬱陶しい女。切り干し大根のお煮しめをつくったとか、工夫して品数を増やしたとか、どうでもいい写真をちょくちょく送ってきては褒められ待ちして。ただの家庭料理が節約アピールになるとでも? 使い回した野菜が料理上手アピールになるとでも? そんなことお母さんはいつも当たり前にやってるよ。それをいちいちいちいち……、そもそも仕事相手にすることじゃない。お父さんもなに褒めてるの、野菜嫌いなくせに。野菜が入っていたら全部よけて好きなものだけを食べ尽くすお子さまが、よその女の質素な料理を褒めないでよ。ああ、嫌い、本当に嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い!!
手元には包丁と魚。さばくものと、さばかれるもの。動かない真ん丸な目を見つめたあと、握っていた柄を持ちかえて力を込めて振り下ろした。ダンッ!! 強く短い打撃音が響き、振動が腕に伝わってくる。その揺れが収まるのを待ってからゆっくり上体を起こすと、突き刺さった包丁とまな板からはみ出した魚が視界に映った。
……思いっきり突き刺そうとしたのに、小指に刃体が触れてとっさに力を抜いてしまった。怪我が怖いなんて、いまさらなんなの私。滅多刺しにする光景を夜ごと見るくせに、現実ではどうしてこんなに情けないの。小心者な自分が許せなくて、でも怖くて、台所で一人うずくまる。換気扇の音がやけに耳障りだった。
「ただいま~」
「おかえり~」
あれから割とすぐに私は復活した。理由は単純でうずくまっていたら足が痺れたから。数回屈伸をして、八つ当たりしてしまった鯛に謝ってから作業を再開した。急変する自分にも慣れてきたな、と思いながらヒレやワタを取り除いていき、小骨も全部抜き終わったところで凌くんが帰ってきた。
土鍋以外にもなにか持っていたので尋ねてみれば、未来道具の登場シーンよろしく唐辛子パウダーを紹介された。実家にあったもらいもので、使いどころがないまま放置されていたらしい。これも生ゴミに混ぜて韓国感をアップさせようとの提案に盛大な拍手を贈った。
そのあとは二人でせっせと生ゴミづくり。念のためにつけた調理用手袋の違和感に苦戦しながら、エビの殻を剥いていく凌くんの顔はなんとも絵になる真剣さだ。そうやって丁寧に処理された殻や骨だが、残念ながら今回は即捨てである。全部煮込んで出汁を取ることがお鍋の醍醐味だろうけど、そのためには先に臭みを取らなければならないので仕方がない。
もろもろの下ごしらえが終わったのは十五時前。生ものの匂いに当てられてか凌くんもあまりお腹は空いてないそうだが、気分転換をかねてパンケーキを焼くことにした。私たちのおやつといえばパンケーキ、そう言えるほどよく一緒につくっていた。
「パンケーキひさびさ~」
「凌くん、お店でも言ったけど期待値下げてね? 凌くんパパレベルの出来は期待しないでね?」
一緒につくったといっても、実際に焼いてくれていたのは凌くんパパだ。
うちと違って凌くんのパパさんは家事をするひとで料理もすごく上手だった。たしかパンケーキも粉の配合からしていたはずでソースも手作りしていたはず。お相伴にあずかっていた私のおいしい基準ですら高いのだから、凌くんの基準は高いを通り越して天井を突き破っているかもしれない。
だからつくる前に再度念押ししているわけだけど、「わかった」と了承する口に対して目がずっと期待に満ちている。いや市販のミックス粉も牛乳も買っておいて、いまさらつくらない選択肢はないんだけどね。隣のキラキラな目に気後れしながらも生地をつくり、それが熱したフライパンの中でフツフツしていく様子を昔のように一緒に見守る。フツフツ、フツフツ、小さな気泡がふくれて、はじけて、なめらかだった表面にいくつも穴が開いていく。
昔はパンケーキひとつで大喜びしてたのにな。あのころといまを比べてしまい、だんだん悲しくなってくる。可愛げなんて残ってなくて、口も性格も悪くなった私に本当は凌くんも失望しているんじゃないだろうか。そう思ったら急に胃がせり上がってきた。いやだ。凌くんには良く思われていたい。自分からさらけ出しておいていまさらだけど、でも凌くんの目には優しい女の子として映りたくて、でもそんな子は復讐なんて考えなくて……
「……凌くん、本当はどう思ってる?」
まとまらない思考のまま口をついて出た質問は脈絡がなくて、凌くんを戸惑わせてしまった。
私に失望していないか。あるいは落胆、軽蔑、幻滅。それを確認したいのに、どの言葉も強くて、凌くんから同じ言葉が返ってきたらと思うと口にできない。結果、「バカだと思っていないか」という芯を外した質問を投げてしまった。それも否定してほしい感が見え見えのずるい聞き方だ。
でも凌くんはそのずるさを指摘することもなく、「思ってないよ」と私が聞きたい言葉をくれた。言ってくれてありがとう。言わせてごめんね。
「俺がみいに対して思うのはね、俺の領土だいぶ減っちゃったな~ってことかな」
ぴ、と凌くんからの切り返しに肩が跳ねたが、続いた言葉が想像していたものではなかったので「?」が浮かぶ。領土とは?
「こうやってパンケーキが焦げないように一緒に見張っていたころはさ、みいの頭の中の半分は俺が占めてたと思うんだよね。俺もみいと父さんで半々だったし。でもいまはゴキババアが大半を占めていて悔しいわけ」
衝撃。あの女が私の頭の大半を占めている。衝撃が過ぎて、ただ口をはくはくと動かすことしかできない。
「みい自身も不本意なのはわかってるよ。でも現状、陣地合戦に例えるなら俺ボロ負けで泣きそう」
ちがう。ちがうの。絶対に違う。凌くんが負けてるなんてありえなくて、だって私いっつも凌くんに元気でいてほしいって思っていて、それはずっと昔から、子供のころからで、だから全然負けとかじゃなくて……
「みいがそうやって俺の健康を願ってくれることって、いまでも俺にとって拠りどころなんだよね。プラシーボだろうと、俺がここまで元気になったのはみいのおかげだと本気で思ってるから。だからゴキに割くくらいなら、また俺に使ってほしいな~っていうのが本音」
凌くんが元気になりますように。そう願うのは日常で、もはや呼吸と同じだった。
だけどいまはあの女への怒りが煮詰まりすぎて、とても童心には帰れそうもない。それどころかもう社会に適合することもできない気がする、殺意が巣食ったこんな頭では。
「殺意の分だけ俺の領土が侵略されてるってことだから、俺としては取り戻す所存であります。とはいえ殺意はなぁ、一気に追い出そうものならイコール殺人事件だから、時間がかかっても少しずつ追い出していくしかないよなぁ」
「……時間、十年とかかかりそう……」
「え、十年でいいの? 俺だったら元号変わるまでかかるよ」
元号。まったく予想していなかった単位が登場してきた。ええと、三十年ということだろうか。日常使いしない数え方に目をパチクリさせながら一応確認を取る。
「三十年?」
「かな。向こうの寿命もそれくらいじゃん? 俺たちも還暦迎えるし区切りとしてちょうどよくない?」
天才がいらっしゃる。こくこくこく、と何度も首肯を繰り返す。三十年。還暦。……そこまで続くんだ、私の未来。
「死ぬまでゴミ箱扱いしてやろうよ。いま抱えてる殺意も、これから先なにか嫌な目に遭ったときも、ぜ~んぶあいつにぶつけるの。そうしてすっきりしたら、きっと嫌な夢も見なくなるよ」
嫌な夢を、……ひとを殺す夢を、見たことがあるひとはどれだけいるだろうか。
私の場合、刺す瞬間のシーンは飛ばされるから直前と直後しか見てないんだけど、その間ずっと心臓がバクバクして呼吸もしづらくなる。一見すると疑似体験しているみたいだけど、感触はないから達成感も満足感もなにもない、ただ疲労困憊になるだけの夢だ。いったいなんのために見てるんだろう。しかも、最後に必ず父親が出てくる。ぬっと正面に現れて、私を睨んでいて、手には包丁。いつもそこで目が覚めるから、そのあとの展開はわからない。でもあの顔だ、きっとあのあと私に切りかかっていることだろう。
殺意を全部捨てられたら、この制御できない夢からも解放されるのだろうか。——だったら、やってやる。あの人間の皮を被ったゴキババアめがけて投げ捨ててやる。
そうして全部捨て終わったら、凌くんが一番だったころの私に戻れるかな。
……無理だよね。でも、戻れたらいいな。最期の一瞬だけでも。




