1_2. 吐露
ふと意識が浮上して目を開ける。その目に薄暗い天井が映って、はぁ~~と大きくため息をついた。……目、覚めちゃった。
夜中に起きるのはここのところ毎日だ。今日は朝までぐっすりコースかもと期待したがダメだった。
目を閉じてみるが、眠気が消え去ったことを自覚しただけ。手探りでスマホを掴むと、時刻は深夜二時を過ぎたばかり。せめて四時とか朝と呼べる時間帯まで寝ていたかった。ため息しか出てこない。
こうなるとどれだけ暗闇を維持しようと眠れないのは何度も体験済みだ。これ以上眠ることは諦めて、手にしていたスマホのロックを外す。どのアプリも通知はない、がひとつひとつ開いて確認していく。
うん、誰からも連絡なし。そりゃね、電車で少し移動すれば二十四時間営業のお店もあるし、カプセルホテルというものもあるしね。成人してだいぶ経つ娘を心配するわけないか。
そう、父の心配はもうお金にしか向かない。あの詐欺女のご機嫌にしか興味がない。私のことなんて気にしない、それどころか薄情者と恨んでいるだろう。
――許せない。どうして私が親不孝者扱いされないといけないのか。
私は一銭も負担をかけていないのに怒鳴られて、何度も大金をせびるあの女はへつらわれている。
どうして? なんでなの!?
胸元をわし掴んでも、掴めるのは綿の生地だけ。服の中に手を突っ込んでみても肌に指が食い込むだけで、もっと奥のヘドロのようなものにはまったく届かない。絶対ここになにかがへばりついているはずなのに。
「…………っ!?」
苛立たしさに寝返りをうったとき、突然息が吸えなくなった。吐くこともできない。なに? なんで息が……!?
手は動く。腕も、脚も。状況確認できるくらい意識もハッキリしているのに、のどと肺だけが動かない。腕に力を入れてなんとか体を起こす。そのほうが楽に呼吸できることは凌くんを見てきたから知っている。
しかしあいにく革張りのソファの上、ずるりと手がすべって床に落ちた。落ちるときにテーブルにもぶつかってしまい、夜のしじまを壊す音が部屋中に響く。
ぶつけた痛みも、凌くんと下の階のひとへの申し訳なさも感じるのに、肝心の空気を肺に感じることができない。どうしよう。どうすればいいの。
「みい!?」
床に伏せっていると、ドアが開く音と駆けよる足音、そして凌くんの声が聞こえた。
部屋がパッと明るくなり、凌くんの気配が近くなる。
「どうした!? 痛い!? 胸? あ、息!? 過呼吸か? ええと、紙袋は意味ないんだっけ?」
過呼吸、と聞いて昔読んでいたマンガを思い出した。たしか血中の二酸化炭素が足りなくなって起きる症状のはず。口元を両手で覆い、吐いた二酸化炭素を吸おうとしたが、そもそも吐けていないので意味がなかった。
「大丈夫だよ、みい。息しようって焦らなくて大丈夫。世界には水中に二十分潜っていられる人間もいるんだから。あ、むしろ息止めの練習だと思うのは? いっそ潜水の大会目指してみる?」
窒息死の未来がよぎって目がうるみはじめたとき、凌くんが私の背中をさすりながらそう言った。二十分とはすごい人間がいたものだ。そして練習とは、凌くんの発想がすごい。
練習という視点の新しさに、それまで吸おう吐こうとがんばっていた意識が消える。代わりに「飲み込めばいいんだ」と気付き、口を塞いでいた空気のかたまりをごくりと飲み込む。
もしゆで卵を丸呑みしたらこんな感じだろうか、締まっているのどが無理矢理開かれて痛い。我慢してその痛みも一緒に飲み込んだ次の瞬間、細く開いたのどを空気が通り、ようやく呼吸ができた。
「……大会は遠慮します」
「え~、目指そうよ~。あ、海じゃないと気分乗らない?」
「ふふっ」
取り込んだ空気に気管支が刺激されて咳が出たが、それが治まれば普通に息が吸えて吐けるようになった。
これが過呼吸。本当に突発的に起こるものなんだ。肺が膨らまない苦しさは凌くんから聞いたことがあったけど、想像以上に苦しかった。はぁ……、一人じゃなくてよかった。
「ありがとう、凌くん」
お礼を言えば、背中を撫でてくれていた手が頭に移動した。いや、額だろうか。熱を測られた気がする。過呼吸のショックとダルさで床に寝そべったままでいると、凌くんが布団をかけてくれた。
なんとなく目を閉じて、まぶた越しに照明色の世界を眺めていると、足元でガタゴトと物音がした。気になって目を開けると今度は頭の脇で同じくガタゴト。凌くんがテーブルを動かしている音だった。
ひと一人が横になれる程度しかなかったスペースが倍くらいになっただろうか。少し遠くなったテーブルとの距離を目算しているうちに、今度は照明が明るい白から暗いオレンジに切り替わる。
追うようにテーブルから天井に目線を移動させると、目の端に映った人影が私の真横に寝転んだ。
「……起こしてごめんね」
「平気平気」
謝って、そこからしばし無言が続く。話したいような、このまま静かに過ごしたいような。横目で凌くんをうかがうと、顔を上に向けて目を閉じていた。……もしや、このままここで寝るつもりでは?
かけてもらった布団を横に引っ張り、凌くんがいる側に半分寄せようと手足を駆使していると、気付いた凌くんが「ありがと」と自分から寄ってきてくれた。いえ、凌くんを服一枚で寝かせるわけにはいかないので。
近くなった頭。触れる肩。懐かしい距離だ。凌くんとなにかをシェアするのは当たり前だったからか、いまも布団がひとつだろうと違和感はまったくない。
会うのは八年ぶりで、まともに話すのは十年ぶりくらいなのにね。大学生のときは一緒にいるのも気まずくなったのに。……ああ、そうだ。あのとき凌くんと距離ができたのも、もとをたどれば父のせいだ。
「お父さんが女に貢いでいるの」
お風呂では凌くんへの説明をさんざん悩んだが、もうどうでもよくなった。いまはただ父を貶めたい。
「本人はビジネスだって言い張ってるけど、収入なんてまったくなくて、結局は女が好き勝手に使ったカード代を毎月払ってるだけで……」
どうでもよくなったはずなのに声が震える。目を中心に熱と水分が集まってくる。
「毎月いくらなの?」
「月によって、バラバラで……、最近は二百万が多い……」
「毎月二百!? え、合計わかる?」
「少なくとも、三千はいってる……」
三千万というのは、あくまで私が聞き出せた金額だ。妙なところでかっこつけるクセがある父のこと、家族に知られたくなくてまだ隠している借金があるかもしれない。
「うっわ……、それは死んでほしいね。おじさんも、その女も」
――そう。死んでほしい。
ものすごく苦しんで死んでほしい。大っ嫌い。人間のクズ。存在がゴミ。生きている価値もない。早く死んで。この世のすべてから恨まれて死んでほしい。成仏なんて許さない。閻魔様に舌を抜かれて、地獄でのたうち回ればいい。なんでのうのうと生きていられるの? 死んでよ今すぐ!!
「その女、美人なの?」
「ぜんっぜん!! 美人どころか、すっごい……、ブ、ブスなの!!」
「そんなブスに貢いでんの?」
「っ……、もう、ドがつくレベルのブスなの! 目は細いし、面長だし、髪もバッサバサだし!!」
「おばさんと真逆じゃん。あ、若いの?」
「六十過ぎのっ、皺だらけのババア!!」
他人様のことをブスやババアと罵る人間だなんて凌くんに知られたくなかった。
悪口も陰口も凌くんの前では言ったことがない、なんていうのはさすがに嘘だけど、それでもできるだけ言葉を選んできたのに。三十歳を目前にして、いまさら自分の醜さが露呈するなんて。
「みいにそんなこと言わせるほど追いつめやがって……」
凌くんに抱き寄せられて背中をさすられる。
父と詐欺女に怒ってくれる凌くん。「そのクソババアは――」と単語のチョイスを合わせてくれる凌くん。
そうだった。凌くんはいつでも私の味方のだった。凌くんに気がある女の子に目をつけられたときも、しょっちゅう絡んできた男の子にやり返したときも。凌くんはいつも私側に立ってくれた。
凌くんは私の味方で、私も凌くんの味方。この関係は絶対不変。そうだった。成長するについて、いつのまにか消えてしまった確信が戻ってくる。そう、なにを言っても大丈夫。ああ、ようやく吐き出せる。
「あいつ……! あの女!! 妻子持ちに手を出すとか、なにが "お返しはたっぷり" だよ! キモい死ね!!」
ドブスのくせに。家庭のある男に粉をかけるとか、顔以上に性格が終わってる。あそこまで不細工な面で、性格はそれ以上に歪んでるとかありえない。ひとの家庭を壊して楽しい? 娘の私から父親を奪って高笑いでもしてるの? おまえも誰かの娘だったくせに。誰かの妻になって、母親になったくせに。
お金をもらえないと死ぬ死ぬわめいて、鬼電して相手を追い詰めて。なにが "自殺するしかない" だよ、むしろしろよ。他人様のお金でのうのうと生きるなんて、おまえのどこにそんな価値があるの。とっとと死ねよクソババア。おまえの存在がなによりの間違いなんだから。生きているだけで不幸をまき散らしているんだから。
息子家族を幸せにしたいって? 孫がかわいいって? なにそのアピール、心優しいおばあちゃんだと思われたいの? ひとからむしり取ったお金で豪遊している鬼婆のくせに。ひとの車を我が物顔で乗り回したり、朝昼晩関係なく呼び出して送り迎えさせたり、本当に恥も外聞もない強欲ババアが。息子ともども死んでよ。孫も親戚も、おまえの血が流れている人間全員死ね。いまわの際まで苦しめ。一族郎党すべて未来永劫呪われろ。
――殺したい。
殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい。
なにかに集中しようとしても三十分ともたない。あの女が突然脳内に現れて、あの細い目をさらに細めた気持ち悪い顔で嗤っている。ほかのことを考えようとしても、すぐ殺意に引き戻される。ずっと心臓を掴まれ続けて苦しい。もう離してよ。夜も眠らせて。私の安息を返して。殺意なんて感情を私に植えつけておいて、そのせいで私はずっと苦しんでいるのに、あの女は一回何万円もするマッサージに通っては癒されている。許せない。うちをこんな地獄に変えておいて、あの女は笑顔で孫と写真に納まっている。許せるはずがない。
「アプリのメッセージも消すように指示して、完っ全に詐欺師じゃん! お父さんもなんでほいほい従うの!? いい金づるだって嘲笑われてるに決まってるのに!」
「おじさんはなぁ……、良く言えばひとがいいんだろうけど、ほんっと騙されやすいよな。中学のときもやらかしてなかった?」
「中学のときもっ、大学のときだって……!!」
私が中学生だったとき、父の機嫌が悪い時期があった。又聞きした話によると、どうやらお金を貸したひとに夜逃げされたらしい。正確な金額はわからないけど、被害はおそらく五百万円くらい。
お金自体は私にはどうにもできなかったから、せめて空気を和まそうと明るく振る舞ったが、父の反応は素っ気なく重苦しい日々が続いた。
私が大学生のときも父はお金で失敗した。なにに投資したかはわからないけど、一千万円近く溶かしていた。それも弟の大学進学が迫っていたときだったから、両親と弟が毎日衝突するようになって家中が刺々しかった。
当時の私は父に怒れなかった。だって弟の希望進路は私立で、その費用を工面しようとした末の結果だったから。私立の一年間にかかる学費が、私が通っていた大学の四年間分となれば父の行動も致し方ない。
借金などしたくない、けれどしなければ大学に行けない。それを知った弟は目につくすべてのものに八つ当たりせずにはいられなくなった。私に対しては、奨学金なしで通えて不公平だといった内容が多かった。
教育や扶養の義務がどうこうと荒ぶることしかできない十八歳男子と、定年間近の親を抱えて私も頭を悩ませていると、思いもよらぬところからお金の話が舞い込んできた。それが私の結婚につながる。
「なんで悪い人間もいるって学ばないの!? 何回騙されれば気が済むの!? なんのために私……!! もういい加減にしてよ!!」
昔テレビで元詐欺師にインタビューする企画を見たことがある。そのとき「前に騙された経験があるひとのほうが騙しやすい」と語っていたのが衝撃的だった。詳しい理由は忘れてしまったが、本当にそのとおりだ。
高い配当金をチラつかせるネズミ講。健康増進などの「あなたのため」を謳うマルチ商法。
私の父親は本当に次から次へと詐欺師を引き寄せる。何度もカモにされて、これ以上さばかれる肉がどこに残っているのか不思議なくらいなのに、気付けばまた誰かの鍋に入っている。
ちなみに父がカモだとを知ったのは、いや理解したのは大学生のこのとき。それまでは買い物好きでいろいろな商品を試してみたいタイプの人間なんだろうと思っていた。私も生活に困った覚えは特になかったから、損をしていたとしてもそこまで大きな額ではなかったのだろう。父は長続きする性格でもないし。
続かないがゆえに結果としてそれまでは煮込まれる前に逃げられていたのだろうが、大学のときはその性格が裏目に出てしまった。短期決戦を狙って大金をつぎ込んで、逃げる間もなく相手の自己破産というハンマーで鍋をたたき割られてしまった。おそらく相手ははじめから自己破産を狙っていたはずだ。だって古臭い装飾文字が並ぶプレゼン資料には都合のいい情報しか載っていなかったんだから。
資本主義社会である以上、自ら進んでリスクを説明してくれる清廉潔白な営業なんて存在しない。だから相手が言わないマイナス要素は自分で予測し、契約前に明らかにしておかないといけない。大金が絡むならなおのこと。なのに父はたいして考えもせずにお金を払っていた。投資と呼んでいたそれのなにを聞いても「わからない」「できない」といった返答ばかりで、いったい社会人歴何年目なのかとなじりたかった。
でも私は責めなかった。弟の希望を叶えようとした父は、浅慮ではあったけど家族愛に溢れていたから。だから私もお金を得ることを優先して結婚したのに。
そして今回、父は家族でもない女に貢いだ。私まで足蹴にして。
十年前あんなに痛い目にあったのに。重症だったでしょ? 十年で忘れられる程度の傷じゃなかったでしょ!? それなのにまた騙されて、しかも被害額は前の三倍ってなんなの!?
「なんっにも反省してない! むしろ悪化して……、なんで、どうしてそんなおかしくなっちゃったの!?」
はっきり言って、私の父にはお金を稼ぐ才能がない。
といっても定年までは会社員としてお給料をもらっていたし、学校の勉強だって得意なひとだった。でも圧倒的に情報弱者で、ひとから聞いた自慢話や誇大広告を鵜呑みにしてしまう。これが数学のテストだったら「なんでこんな問題に引っかかるんだ」と嫌味すら言いそうなタイプなのに、現実世界で欲が絡むと一転して数字に弱くなる。それで騙されて、お金を稼ぐどころかすっからかんにされて。でもどこかで計算が得意だという自負が残っているのか、また同じようなことを繰り返す。本当にたちが悪い。
いい加減に自分を理解してよ。もう七十だよ? 五十で天命を知るんじゃないの? 騙され続けることが生まれてきた意味だとでもいいたいの? 詐欺で持っていかれたお金なんて、反社の資金源として使われたりして間接的に誰かを不幸にしているかもしれないんだよ!?
いまさら欲をかいて、まわりに迷惑かけて。もう大人しくしていて。静かに暮らして。それができないなら。
「もういっそ死んでよ!!!!」
ひとしきり罵ったから息が荒い。体温も上がって、厚い布団の中に熱気がこもっていく。
凌くんも暑いだろうに、それでも私の背中を撫で続けてくれる。大きく上下していた胸が、凌くんが撫でるペースに合わせて次第に落ち着いていく。
大学生のとき、私は凌くんを諦めた。小さいころから結末を諦めていた恋ではあったけど、それでも凌くんとの未来を想像する自分がずっと心に居座っていた。そんな夢見る少女とお別れして、代わりにお金を手に入れた。
あれから十年、なぜか私は諦めたひとの腕の中にいる。当時は助けたいと思ったはずの父親の死を願いながら。
「つかれた……」
「うん。頑張ったね、みい」
「がんばったけど、……むなしい」
「うん、うん。今度は俺も一緒だから。安心して、ね?」
――凌くんに負担をかけたくない。万が一倒れてしまったらどうしよう。
凌くんといるとき、いつも真っ先に顔を出すこの気持ち。いつでも最優先してきたのに、いまはできない。凌くんが一緒にいてくれる。嬉しい。
「うん……っ」
「俺とみい、二人でならなんでもできるよ」
ああ、そうだった。凌くんとならなんでもできる。これも不文律なのに、どうして忘れていたんだろう。
まだも解決していないのに心が安心感で満たされていく。背中にも正面にも凌くんの体温を感じて、私のまぶたは徐々に重くなっていった。




