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ちっぽけカタストロフィ  作者: 佐枝 樹


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1_1. 再会

父親が詐欺に遭った。被害額、三千万円。

ちなみに現在進行形で、まだ詐欺女を信じている。娘の私よりも。


私の名前は鴻池(こうのいけ)芙美(ふみ)。今年で三十歳になる。結婚歴はあるけれど相手とは去年死別している。子供もいないので今年に入ってから旧姓に戻した。喪が明けて、これからどうやって生きていこうかと考えていた矢先、実の父親にお金を無心された。


――二百万、貸してほしい。


父が俯きながらモゴモゴと頼んできたのが二ヵ月前のこと。聞けば不動産会社に勤める女性と組んでビジネスを始めたらしい。正直に言えば怪しかった。でも口下手な父が声を弾ませて語る姿に深く追求できなかった。

「来月、倍にして返すから」といういかにも借金を踏み倒す人間が使いそうな台詞も言われたが、見慣れた一重の目がキラキラしていたので結局お金を出してしまった。怪しかったので半額ではあるが。

そうして返済期限であったはずの先月、返ってくるどころか、さらにまた二百万円を要求された。

さすがに今度は絆されずに一から経緯を聞き出したところ、発覚した借金二千万円と強欲な女の影。ゼロの数だけずっしりとしたものを肩に感じたが、とにかく父と女を引き離そうと何度も説得した。

だが「ここで退くわけにはいかない」と父は聞く耳を持ってくれず、それどころかなんとしても私からお金を引き出そうと躍起になっていった。どうやらもう友人知人からは借り尽くしたようだ。

父もはじめは下手に出ていたが、日に日に口調が荒くなり、いまではしょっちゅう怒鳴るようになった。

今日も一日中金策に走っていたみたいだが、うまくいかなかったのだろう。帰ってくるなり「二百万」、断ったら「この家が取られてもいいのか」とがなりながら脅してきた。こんなやり取りを先月からいったい何回繰り返しただろう。

私のこと、もう財布にしか見えてないんだ。そう悟って外に飛び出したのがさっき。いまは公園で一人泣いている。


――ごちゃごちゃ言ってないで金出せって!!


父の怒鳴り声がずっと頭に響いていて、涙があとからあとから溢れてくる。

夜の肌寒い空気で顔は冷たいのに目だけが熱くて気持ち悪い。部屋着の袖で目元を拭うが、すでに何度も拭ったせいでぐっしょり濡れていて気持ち悪い。

洟(はな)も止まらない。ぐずぐず、ズビズビ、汚い。どうして涙と鼻水って連動しているんだろう。水で洗い流したいが、この公園とは名ばかりの小さな原っぱにはベンチしかないので叶わない。

ああ、汚い。気持ち悪い。なによりうるさい。うるさい、うるさい、うるさい!!

髪をわし掴みにして引っ張ったり、ぐちゃぐちゃにかき乱したりしても、頭の中でリフレインする父の声が消えない。食いしばっていたせいか顎が痙攣して歯がガチガチ鳴り始めた。

怒鳴り声の幻聴と、実際に聞こえる獣じみた音が重なってブワッと涙腺が再崩壊した。


「ぅ――……」


つらい。寒い。

物理的に寒いのでベンチの上で膝を抱えて丸まる。ついでに歯を止めるために膝の上に手を置き顎をのせると、その拍子にポタポタとパンプスに水滴が落ちた。防水スプレーに弾かれたそれは小さな雫となって靴の側面をすべっていく。

静かな夜だ。風もないし、五月だからまだ虫が鳴く季節でもない。いまうるさいのは私の頭の中だけ。こうやって一人で外にいても、ずっと父がお金を寄こせと言っている。


わかってる。ここでうずくまっていてもなにも変わらない。わかってるよ。でも立ち上がったって父親と罵りあう未来しか待っていない。金の亡者と成り果てた父親と。

つらい。本日何度目かの黒い感情に襲われて、それが涙腺を通ってボタボタと溢れ出す。また目も鼻もぐずぐずになって袖を汚していると、公園横を車が一台通り過ぎた。

通り過ぎた、と思った。しかし、すぐにキキィッというブレーキ音が聞こえて反射的に肩がすくむ。間を置かず聞こえたのはバンッと勢いよくドアを閉めただろう音。なに? 事故、じゃないよね?

アスファルトを蹴る靴音がこちらに近付いてきて肩以外も強張る。なになになに!?

思わず隠れようとして辺りを見回したが、生い茂りはじめた草木があるばかり。ベンチのすぐ近くでチカチカしている街灯が急に恨めしくなった。


近付いてくる足音はすぐに止み、さっきまでの静けさが戻った。だけど私の心臓は真逆でバクバクしている。夜の公園、女一人、薄着。え、これ私危ない? 不審者……、じゃない、よね?

できるだけ顔を動かさずに目だけでうかがうと、公園の出入口に男性らしきシルエットが見えた。さっきまでとは違った涙が出てくる。いや、泣くな私!

ここで泣いたら相手を刺激すると思い、ただスマホを見ているだけですのていを装う。ああ、緊急通報のショートカットどこだっけ。連打? 長押し? ダメだ、全然思い出せない。とりあえず電話を開いておくべきだろうか。


「……みい?」


涙をこらえながら、なんとかキーパッド画面を表示したところで、懐かしい愛称が聞こえた。つられて顔を上げるが、影が差していて相手の顔は見えない。

でも、芙美という私の短い名前を、それも後ろのほうを伸ばして呼ぶのは一人だけ。いや、でも、もうとっくに引っ越して、ここにいるはず……

そのひとの走馬灯に囚われて固まっていると、声の主は車止めのポールを避けながら公園に入ってきた。


「みい、なにしてるの!? いや、ひさしぶり? いやいや、なにしてるの!?」

「……りょうくん」


街灯に照らされて徐々に相手の顔が見えてくる。それは十年ぶりくらいに見る幼なじみの顔だった。

巳上(みかみ)凌(りょう)くん。幼稚園からずっと一緒で、私のアルバム全部に登場する男の子。


「泣いてるの!? あああ、とりあえず拭いて……、めっちゃ冷えてるじゃん!」


凌くんだ。大学以来の凌くん。スーツ似合う。仕事帰りかな。

間近にやってきた幼なじみがひさしぶりすぎて、ついほうけてしまった。そのあいだに凌くんはハンカチで私の目元をぬぐってくれて、冷えた頬を手でこすってくれた。

正気に戻ったのは凌くんが着ていたジャケットを脱いで私の肩にかけてくれたとき。凌くんの体温が移ったそれに背中を包まれてホッとして、その一瞬後、自分の汚れた袖が目に入って申し訳なくなった。


「凌くん、服汚しちゃうから……」

「いいから着てて。怪我してるの? どこか痛い?」


言いながら凌くんは私の全身をペタペタと軽くタッチしてチェックしていく。

その行動にまた海馬が刺激される。子供のころの凌くんは体が弱くて、私のほうがよくこうやってペタペタしていた。足先まで確認すると、凌くんはしゃがんだまま私の顔を覗き込み眉を下げた。


「みい、どうしたの? 悲しい?」


口を開いたものの言葉に詰まった。体調を崩して寝込む凌くんをよく見てきたから、私事で凌くんに心配をかけることにどうしても苦手意識がある。だから実際はどうあれ「大丈夫」と、そう言いたい。言いたいのに。

じわじわと目に水分が集まっていくのがわかって嫌になる。どうしよう、なんて言おう。

返事ができずにいると、いつの間にか凌くんの胸元が目の前にあった。頭を、背中を、何度も優しくたたかれる。トントン、トントン、トントン、トントン。


「……凌くん」

「うん」

「りょ……く……」

「ん~?」


喉がひくついて名前がうまく呼べなくて、代わりにシャツだけになった凌くんの背中に手を伸ばす。両手でシャツを握りしめると、凌くんの手も両方私の背に回った。ギュウと抱き返されて涙が押し出される。


「お父さんがっ、どな、るの……っ」

「おじさんが?」

「お金、よこせって……」

「わ~……」

「私にも、借金、させようとするしっ……」

「しゃっ…… え、みいに!?」


だめだ。脈絡をつけて話せない。息がしづらいし、なぜか咳も出てくる。ゴホゴホしていたら凌くんの車に誘われて、手を引かれるままベンチから立ち上がる、と同時に足にスマホを落とした。痛い。もうやだ。

凌くんに慰められながら車に向かい、助手席に乗せてもらった。ティッシュももらい、凌くんが運転席にまわっているあいだに思いっきり洟をかむ。ちょっとスッキリした。


「みい、水飲む? ちょっと飲んじゃってるけど……」

「うん、ありがとう」


ティッシュのありがたみを実感していると、運転席に座った凌くんがミネラルウォーターのボトルをくれた。

ありがたく受け取って一口含む。そこで喉が渇いている自覚がわき、凌くんに許可をもらってから一気に飲み干す。ちょっと生き返った。


「ひとまず移動しよっか。ほかに車が通らないとも限らないし」


一気飲みで軽く息切れ中なので、凌くんの提案にうなずいて返す。

エンジンがかかると、ラジオも起動して音楽が流れ出した。流行りの曲だ。なにかの番組で音楽プロデューサーさんが構成をベタ褒めしていたり、学生さんがインタビューでエモいと答えていたりしたのを聞いたことがある。だから良い曲なんだろうけど、私にはよくわからないのが正直なところ。

ぼんやりとそんなことを思いながら車に揺られていると、今度は過去のヒットソングをお届けされた。


「「なつかし!」」


はからずも凌くんとハモった。中学くらいに流行ったよね、と流れのわからない選曲に笑いあう。


「凌くん、今日仕事だったの?」

「うん、そう。ひさびさに近くまできたから、ぐるっと一回りしてから帰ろうと思って。あの公園も、みいと遊んだよなと思って横目で見てたら、女のひとがいてビビった」


恥ずかしさと申し訳なさとで顔を覆う。不審者なのは私のほうだった。


「そのまま通り過ぎようとしたんだけど、あれって。この辺りに同年代ほとんどいなかったし、あの公園を使うひとも滅多にいなかったし、となると……と思ったらやっぱりみいだった」

「不審者してすみません……」


小中学校から少し離れているためか、私の実家周辺には昔から子供があまりいない。

同級生たちも学校を挟んで反対側に住んでいることが多かったし、同じ方面のひとがいてももっと手前の区画に住んでいた。正直に言ってしまえば、この辺りの地形が中途半端な山になっていて不人気なだけなのだが。


そうこうしているうちに凌くんはコンビニに停車した。普段はあまり行くことのない、実家からも最寄り駅からも離れたコンビニなので家族と鉢合わせすることはないだろう。……探してもいないだろうけど。

凌くんに促されて飲み物を買いに店内へ入ると照明の白さが目を刺した。眩しさに目をすがめながらドリンクコーナーに向かうと、その脇にあるバックヤードの戸口に鏡がかかっていた。そこに映った自分の顔の酷さに二度見どころか三度見した。


「みい、どれにする? 紅茶? ……みい? どうしたの?」


溶けたアイラインで目元がかなり汚れている。腫れぼったいまぶたもコンビニの明るすぎる照明でしっかりはっきり見える。最悪だ。よりよって凌くん相手にこんな顔を晒すなんて。

時すでに遅しと思いつつも目元を手でガードせずにはいられない。覗き込まないで、凌くん。


「メイクが、ひどいことになっておりまして……」

「ああ、じゃあ先に日用品みよっか」


ああ、ということはつまり把握されていたということで。わかっていたけど恥ずかしい。ひさしぶりに会えたのに……


「品揃えすご。みて、服も売ってる」

「わ、すご。半袖と長袖どっちもあるよ」

「「お~」」


気恥ずかしさは充実した日用品コーナーが紛らわせてくれた。

普段はコンビニに行っても食品コーナーしか見ないので、ここまでラインナップが豊富だとは知らなかった。

肝心のクレンジングもシートタイプが置いてあって感激した。コンビニ様、本当にありがとうございます。


「てかさ、みい。今日うちに泊まる? 家に帰りたくないだろ?」


コンビニと、ついでにシートタイプの開発者にもお礼をしていたら、凌くんがさらっとそう言った。

たしかに家には帰りたくない。だって、夜中に父が部屋にきて「ねぇ、お願いだから」としつこく頼んでくるのも恒例になりつつあるから。でも、だからと言って凌くんに迷惑をかけたくない。


「迷惑……」

「なわけないじゃん。てか、みいが帰るって言うなら、俺がみいの家に泊まるからね」


凌くんが来たら確実に父の標的にされる。なぜなら凌くんの実家はお金持ちだから。もちろん他人様の家の内情は知らないが、少なくとも大きな家を二軒持っていたから、いまの父なら地面師みたいなことをしでかすかもしれない。……うわ、想像しただけで吐きそう。


「お父さん、絶対凌くんにもたかるからダメ」


凌くんが目を瞑って眉間を寄せながら「俺の中でのおじさんのイメージが……」と唸っている。

私も三十年積み上げてきた父親の人物像がここ一ヵ月で崩落したばかりだ。あの女のせいで。


「みい、今日は飲もう? うちにおいで?」

「……仕事、大丈夫?」

「仕事よりみいだよ。洗顔はそれでいいの? 化粧水とかは?」


基礎化粧品や着替えを次々と買い物カゴに入れていく。凌くんが。私は凌くんに「これは?」と聞かれてイエスかノーと答えるだけだ。お酒とお茶、お菓子、あと凌くんの晩ごはんも買うとなかなかの量になった。

ぎっしりと詰まった袋を二人で分けて持って店を出る。凌くんがさり気なく重いほうの袋を持ってくれたが、そんな女の子扱いはひさしぶりすぎてじんときた。

学生時代、男子にときめく瞬間を語らうことが何度かあったが、「重いものを持ってくれたとき」と言うと、たいてい不憫がられたりチョロいと嗤われたりしたものだ。でも、重いものを持たない男性って一定数いると思う。持ちたくないといったほうが正しいだろうか。

ちなみに持ちたくない代表は私の弟である。おそらく弟の中では重いものと面倒くさいことがイコールで結びついているのだろう。できればかっこいいと結びついてほしかったが、本人にこれを言うと男女平等がどうこうと始まるので言わないに限る。

一方で凌くんは重いものを持ってくれて、しかも家にまで泊めてくれるという。幼なじみとはいえ大学ぶりに会った人間に対して、どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。


「そりゃ、みいが困ってれば助けるよ。みいも俺のこといつも助けてくれたじゃん」

「りょうぐん……っ」


車に乗り込みながら尋ねれば悩むことなく即答されて、またもティッシュのお世話になる。

どうしよう、すき。凌くんの変わらない優しさに触れて、初恋の埋火(うずみび)が再燃しそうで困る。いや、落ち着け私。

感情を紛らわすこともかねて、取り出したクレンジングシートを目の際にそうっと当てて汚れを取る。

凌くんは友達、幼なじみ、同級生、心の友、マイベストフレンド。こうやって思いつく限りのノーマルな関係性を心の中で言い聞かせるのはもうクセだ。

なぜって凌くんは綺麗な顔立ちをしていて、人並みな私が隣に立つと「釣り合ってないよね」とよくヒソヒソ言われていたから。同級生にも多少言われはしたが、そのママさんたちの話のタネにされることのほうが多かった。

子供でも、友達という関係性でも、美形のそばにいる平凡はやっかみを買う。それを早くに学んだ私は、凌くんに恋することはダメなことなんだと悟るのも早かった。

でもこのとおり凌くんは優しさとかっこよさでできているので、気付いたら下心と書く感情に火が付いている。

しかし凌くんの仲良しな幼なじみでいるためには不要な感情であることもわかっている。ゆえに残りのメイクを落としながら迅速な鎮火を念じる。鎮まれ、鎮まれ。


父親への失望。詐欺女への怒り。凌くんへの恋心。

今日一日の感情の振れ幅が大きすぎてしんどい。凌くんが借りているというマンションに着いたときにはもう心身ともにぐったりだった。


「みい、眠い?」

「ぜんぜんっ」

「飲もうって誘ったの俺だけど、今日はもう休もっか」

「だいじょうぶ」

「うんうん。体冷えてるし、まずお風呂入りな?」

「まだいけます!」


エレベーターの中、凌くんからの質問にキリッとした顔で答えたのに、さらりといなされた。自分やれます、とアピールし続けるも凌くんは暖簾になったようで、ひらりふわりと受け流される。どうやらまずはお風呂らしい。そこまで冷たくなっているだろうか。頬を触ってみるがよくわからない。

部屋の前に着き、凌くんに玄関を開けてもらって中に入る。まだ廊下とその奥に続く部屋の一部しか見えないが、あいかわらず物が少なそうで、それが凌くんの家に来たんだという実感をもたらしてくれる。


「トイレここね。こっちが洗面所とお風呂」


凌くんが廊下を進みながら途中にあるドアを差して説明してくれる。

直進した先にあったリビングはやっぱりシンプルで、目立つものはソファとローテーブルくらいしかない。小物も使うものしか置いていませんというこの感じ、間違いなく凌くんの部屋だ。


「わぁ、あいかわらず綺麗~」

「殺風景だろ。どうにも捨て癖が直らないんだよな」


一見するとミニマリストの部屋だが、凌くん自身はシンプルを目指しているわけではないと昔言っていた。

例えばなにか嫌なことが起きたとして、そのとき着ていた服や持ち物がどうにも汚れたように感じてしまうらしい。その感覚がどんなに洗っても残ってしまうから、結果捨てざるを得ないそうだ。

これはきっと凌くんママの影響。小さい凌くんが体調を崩して、それが寝込むほど悪化すると、そのとき遊んでいたおもちゃなどを次々と捨てていく凌くんママの姿をいまでも覚えている。

凌くんが気に入っていたものがゴミ袋に入れられるのを見て、思わず止めたら「これを使ったらまた具合が悪くなりそうでしょう?」と言われ、そうかとうなずいたこともよく覚えている。

まあ、凌くんパパがすぐ新しいおもちゃを買ってくれるからか、凌くんも特に気にしてなかったんだけど。

コンビニの袋をテーブルに置くと、凌くんはお風呂を沸かしにいった。そのあいだに私は買ったものを袋から出してテーブルに並べていく。お酒は冷蔵庫に入れたほうがいいかな。


「凌くん、お酒しまいたいから冷蔵庫開けていい?」

「あ、あのテーブル冷蔵庫になってるから、そこに入れてもらえる?」


洗面所にいる凌くんに声をかけると予想外な答えが返ってきた。テーブルが冷蔵庫とは? たしかに側面も板で囲われている作りだが、普通に収納付きのテーブルに見える。

疑いながら引き出し部分に手をかけて引いてみると、なんということでしょう、中から冷気が漂ってくるではありませんか。全開にすると冷えたペットボトルが数本入っていた。


「これが令和……!!」

「ふはっ、うん、令和令和」


感動して思わず開け閉めを繰り返していると、凌くんがリビングに戻ってきた。凌くんの声で我に返り、冷蔵庫にはしゃいでしまった自分が急に恥ずかしくなった。笑って誤魔化しながら引き出しをそっと閉じる。

それにしてもいいなぁ。実家の傷だらけのテーブルと思い出してつい羨ましくなる。

凌くんの家とは真逆で、私の両親は捨てられない病にかかっているから、我が家には私より年上なものが多々ある。特に木製のテーブルなんて、電化製品のように寿命がくるものでもないのでずっと使い続けている。

子供のころの私と弟がつけた歯形の残るテーブル、それを家族で囲んだ日々がふと頭をよぎり、……粉々に叩き壊したくなった。


「スーツ脱いでくるね」

「っあ、うん! いってらっしゃい?」

「いってきま~す」


凌くんの声がけで我に返る。……びっくりした。突然怒りがわいて、一瞬で思考が黒く塗り潰された。頬をペシペシ叩きながら周囲を見回すと、パッケージに包まれたままの服が視界に入る。

「……お風呂に入る準備しないと」

声に出して自分に言い聞かせる。お風呂に入って、もし眠気がとんだら朝まで飲んで、もし眠ったら明日仕切り直そうって、凌くんとそう約束した。

なんとか手を動かしてパッケージの粘着部分を剥がすと、変に力が入った勢いでおかしな破れ方をした。直線とギザギザが入り交じった不様な切り口。


――――許 せ な い。


向かい側から「みい」という声がして、破れたパッケージをつかむ私の手になにかが触れた。手だ。次いで名前が呼ばれたことを認識して目を上げると、ラフな格好の凌くんが目の前で屈んでいた。

そこでようやく思考を飛ばしていたことに気付く。しまった、どれだけ服を睨みつけていたのだろう。


「……凌くん」

「うん。やっぱり先に飲もっか」


凌くんの提案に逡巡していると、ピピピッという甲高い電子音が鳴り響いた。お風呂が沸いた合図らしい。そこで先にした約束を思い出し、お風呂を優先することにした。


「しっかり温まってね。ちなみにお風呂で寝たことは?」

「ないです!」

「よかった、ゆっくり入って。あ、タオルか。えーっと、はいこれ」

「お借りします!」

「みい、寝ちゃダメだよ。もし寝たら、俺ためらわずドア開けるからね?」

「ギンギラギンです!」


さっきよりもキリリッとした顔とハキハキした声を意識して返したが、またもや信じてもらえなかったようで苦笑された。洗面所をあとにする凌くんの背中に「本当なんです!」と追いすがってみたがダメだった。

解せぬ、と一人なのに演技めいた顔をつくりながら服を脱ぐ。袖を掴んだ瞬間、手に微妙な湿り気とガビッとした固まりを感じて一瞬で表情筋が死んだ。はぁ、とため息をつきながら洗面台で軽く揉み洗いする。

ほかの服も脱いで、ため息をついて、洗濯機に入れて、ため息をついて、浴室に入って、ため息をついて。いっこうにため息が止まらない。吐いても吐いても出てこないなにかが胸の中にこびりついている。


気を取り直して髪から順に洗っていく。シャンプーは凌くんのを借りたが、特にギシギシすることもなく私の髪でも大丈夫そうだ。お互い髪質が似ていてよかった。

体も足先までしっかり洗って、いざ湯船につかろうと浴槽に手をかける。設定温度は四十度なのに、足先に触れたお湯がだいぶ熱く感じる。凌くんに言われたとおり、私の体は冷え切っていたようだ。

お湯と体の寒暖差に身震いしながら、ゆっくりと湯船に身を沈めていく。はあ、お風呂最高。温かさに全身が包まれて自然と息が漏れる。


浴槽の中で足を投げ出して座り、透明な湯面を意味もなく手ですくう。……凌くんになんて説明しよう。

父親が詐欺に遭った。ビジネスを口実に三千万円ものお金を取られたのだから詐欺だと思う。

とある地方の五十万坪の土地がどうの、ゴミ分別の最先端技術への投資がどうの。全部は把握できていないが、詐欺女は複数の儲け話を父に持ちかけ、そのための資金援助を頼んだ。これが半年前くらい。

それから父はことあるごとにお金を肩代わりして、あるときは一度に六百万円も支払っていた。しかしすぐに自分で賄えなくなり、あちらこちらに借金をつくり、いまや二千万円にまで膨らんでしまった。

儲け話の利益はいっこうに得られぬまま、なおも女は厚かましくお金を要求してきて、父は盲目にもそれに応えようと必死になっているのがいま現在。


詐欺に引っかかっただけならば、まだ許せたかもしれない。

でも父の行動を考えれば考えるほど、……ビジネスというより色恋にしか思えなくて。家を抵当に入れてまでお金を工面するその姿は、どう見ても好きな女に見栄を張りたい男でしかない。

ちなみに父は七十歳。もちろん母も健在で、炊事洗濯といった身の回りのことはすべて母に任せて生きている。女は八歳年下の韓国人。日本人の夫はすでに亡くなっているが、息子と孫がいるらしい。

家族を差し置いて女に貢ぐ男。高齢者とよばれる歳で女に入れあげて借金まみれになった男。女のために娘にも借金をさせようとしてくる男。私の父親はそんな人間だった。

受け入れたくない。認めたくない。でも、私がなにを言っても父は女の肩を持つ。


……恥ずかしい。こんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。警察に相談しても鼻で笑われそうで怖い。凌くんはきっと笑わないだろうし、こうなるまで気付かなかった私を責めることもないだろう。

でも、凌くんに知られること自体が嫌だ。親がこんな人間だなんて。ただでさえ容姿が釣り合わないと言われてきたのに、血まで汚いなんて、そんなのもう天秤に乗ることすらできなくなる。

どうしよう。お金を騙し取られた、だけで済ませられるだろうか。凌くん相手に……


「みい? 起きてる……?」

「っ、起きてる!! ごめん、長湯しちゃって……っ」

「よかった。急かしにきたわけじゃないから。転ばないようにね」


コツン、というノック音と少しくぐもった凌くんの声が聞こえてハッとする。反射的に返事をして、慌ててお湯から出るとバシャンッと派手な音があがった。

温度調節用パネルに表示された時計を見れば、ゆうに一時間は経っている。これは急がないわけにいかない。

凌くんの気配が消えるなりドアを開けてタオルで手早く拭いていく。

普段はそれなりにキューティクルや表皮に気を遣っているが、いまは摩擦など気にしている場合ではないのでガシガシいく。化粧水を高速ではたいて服を身につけたところで、いったん凌くんに報告しにいく。


「あがりました!」

「はやっ! 急かしちゃったね、ごめんね」

「いえっ、お風呂ありがとうございます!」

「あ、ドライヤーわかる?」


私の濡れたままの髪をみて、凌くんがドライヤーのモード切替を説明してくれた。といっても凌くんは機能のほとんどを使っていないそうなので「ここのボタンを何回か押せばいいはず」で説明は終了。

とりあえず押してみよう、と凌くんと一緒にドライヤーを操作して使い方を確認する。スライド式のスイッチではオンオフしか選べず、ほかの機能は本体横のボタンを操作するらしい。

……私の持っている、スイッチをスライドさせてモードを切り替えるタイプはもう旧型なのか。

たいして美容に興味のない凌くんよりも古い型を使っている事実に少なからずショックを受けていると、凌くんの手が伸びてきて顔をつかまれた。そして手のひらで両頬をむにむにされる。

「うん、温まったね」と言うその笑顔、惚れてまうやろ。


「凌くんもお風呂入るよね。ドライヤー、リビングに持っていってもいい?」

「あー、どうしよ。みいが髪乾かしているあいだに入るかな~」


鎮火の時間を確保するために凌くんにも長風呂をすすめる。ぜひごゆるりと。

リビングに戻ると、コンビニの袋がゴミ入れになっていた。プラスチックがまとまっているようなので、さきほど使った化粧水のパウチもこの中に入れる。

ドライヤーのコンセントを差し込みながら、「ゴミの分別方法って統一できないのかな」となんの気なしに思い、次の瞬間手が止まる。詐欺女の儲け話のひとつにゴミ処理関連があったことを思い出したからだ。

投資先自体のことは調べていないのでわからない。もしかしたら真っ当な会社かもしれないが、あの女と繋がりがあるという時点で私の中では真っ黒だ。


憎い。許せない。事業なんて失敗すればいい。会社なんて潰れてしまえばいい。全部、全部……!!


頭の中でひとしきり罵ると、徐々に理性が戻ってくる。いま私がすべきことは髪を乾かすことだ。ふぅ……と息を吐いて、声を出してもいないのに乱れた呼吸を整える。落ち着け、落ち着け。視界に映ったドライヤーで凌くんを思い出し、どうにかスイッチを入れて頭上に持ち上げた。

スマホでドライヤーの説明ページを見ながら各モードを試していると、凌くんがお風呂から戻ってきた。当然髪は濡れているので、凌くんでも効果を確かめてみる。うん、まとまりはいい感じじゃないでしょうか。


「いかがでしょう、お客様」

「いい感じです~」


スマホを鏡代わりにしてつかの間の美容師ごっこ。よかった、笑えてる。一日に何度も思考停止するなんて自分でも気味が悪い。万が一にでも凌くんにうとましいと思われたら心が折れるどころの話ではない。

となると、今日はもう寝たほうがいいのだろうか。明日のほうがまだ論理的に話せるようになる、気がしなくもない。とりあえずあくびが出たふりをしてみると、凌くんは期待どおり「寝よっか」と言ってくれた。

客用の寝具はないとのことだったので、ソファと冬用の掛け布団を貸してもらうことになった。

ドライヤーを洗面所に戻して、その足で布団を取りに寝室に向かう。冬用の寝具一式が入っている収納ケースはそこそこ重く、凌くんと連携しながらクローゼットから取り出してリビングに運ぶ。

子供のころはよく凌くんの横で寝落ちしていたな、と懐かしみながら一緒に布団カバーをつけていく。


「そういえば、みいは紐なしの布団カバー使ったことある?」

「まだないの。前に調べたとき、口コミでズレるズレないって意見が分かれてたから結局買えてなくて」

「そう! 布団の素材なのか重さなのかわかんないけど、俺はズレやすくてさ~」


雑談交じりに今夜の寝床を整えていく。

テーブルの上も片付けて、ちょっとお菓子食べたかったなという気持ちを振りきって歯を磨きにいく。もうすぐ三十なんだから夜は気をつけないと、と自分に言い聞かせながらシャカシャカと歯ブラシを動かす。

でも隣には同じくシャカシャカしている凌くんがいて、なんだか小学生に戻ったような気分にもなる。……そのころは父も頼もしかった。私の絶対的味方だって信じていた。それなのに。

また手が止まりそうになるが、口の中を占めるミント味が気つけになってなんとか磨き終える。……早く寝よう。


「凌くん」

「ん~?」

「……ひさしぶり」

「いまぁ!?」

「言ってなかったな~って思って」


寝たい気持ちも本当だが、凌くんの姿が見えなくなるのも嫌で、電気を消そうとしていた凌くんについ声をかけてしまった。言い訳が苦しい自覚はある。でも凌くんは「たしかに」と納得してくれた。


「じゃあ、あらためて。ひさしぶり、みい。会えて嬉しい」

「わ、たしも、凌くんに会えて嬉しい」

「いままでの分も明日いっぱい話そうね。おやすみ」

「うん、おやすみなさい」


暗くなったリビングで、凌くんの台詞を反芻しては一人もだえる。

「嬉しい」の一言でここまで私を嬉しくさせる凌くんは、実は天使なんじゃないだろうか。知ってたけど。小さいころの凌くんは天使そのものだったし。つまりいまは大天使ということか。うん、わかってた。

夜こんなに楽しい気分になったのはひさしぶりだ。このまま夢にも天使な凌くんが出てきますように。そう願って目を閉じると、自然とあくびが出てきて、本当にひさしぶりにすんなりと眠ることができた。

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