第8話:彼女の言葉
翌朝、政司は早めに目を覚まし、落ち着いた足取りで学校へと向かった。
教室のドアをくぐると、その光景に思わず息をのんだ。室内には誰もおらず、穏やかな静寂に包まれていた。
窓際の開け放たれた窓の脇に、すでに朱莉が立っていた。朝の心地よい風が真っ白なカーテンを優しく揺らし、外から舞い込んだ桜の花びらが数片、教室の床へと滑り落ちていく。差し込む朝の光を全身に浴びる彼女の立ち姿は、息をのむほど美しかった。
政司にとって、その一瞬は完全な安らぎの火花だった。目の前に広がる光景は、ただただ綺麗だった。
しかしその静かな時間は、背中を軽く突つかれたことで唐突に打ち砕かれた。
「おはよう、政司! 今日は早いんだな、何かあっ――」
ナツキは言葉の途中で氷ついた。視線を上げ、窓際に立つ朱莉の姿に気づくと、一瞬だけ硬直した後に慌てて咳払いをした。
「お、おはよう、白川さん」ぎこちなく挨拶する。
「おはようございます」彼女は軽く首を傾げて応えた。
ナツキはそれ以上何も言わず、その光景の圧倒されながら静かに自分の席へと向かった。
政司も自分の机へと歩を進めた。彼が近づいたまさにその時、朱莉が彼に向かって一歩踏み出した。ほんの少し身を乗り出し、顔を彼に近づけると、永遠にも思える数秒間、彼の目をまっすぐに見つめた。
政司は動けなくなり、その近さに身を委ねた。どれほど試みても、この恍惚とした時間を破る言葉が見つからなかった。
「おはよう、政司くん」
柔らかく甘い声でそう言うと、彼女は最後に温かい微笑みを贈った。
「お、おはよう……朱莉」
乾いた喉から、政司はどうにかその言葉を絞り出した。
まさにその瞬間、騒々しい生徒の群れが教室へと流れ込み、二人の間に生まれていた濃密な空気をかき消した。朱莉はごく自然に体を起こし、自分の席へと戻っていった。
政司は椅子に深く腰掛け、整わない心拍数を元に戻そうと長いため息をついた。
午前の授業は何の波乱もなく、穏やかに過ぎ去っていった。
体育の時間、政司はナツキと共に体育館の階段状の観覧席に座り、コートで行われているバレーボールの試合をぼんやりと眺めていた。
「なあ、政司……いつもより落ち込んでるように見えるけど。大丈夫か?」ナツキが試合から目を逸らさずに訊ねた。
「なんでそんなこと聞くんだよ?」政司は体勢を整えながら答えた。
「いや、別に……」
短い沈黙が二人を包んだ。その時、コートの反対側で、生徒たちのグループと楽しそうに話している朱莉の姿が政司の目に留まった。太陽の光が彼女の髪に反射し、その仕草の一つひとつには自然な気品が宿っていた。
政司は彼女をじっと見つめ、自身の思考の渦へと落ちていった。
(僕みたいな奴が、なんであんな子と知り合えたんだろう? 小さな仕草、笑い方、髪を整える手つき……彼女のすべてが、あまりにも眩しすぎる)
「地球から政司へ応答せよー!」
ナツキが目の前で手を激しく振り、政司のトランス状態を唐突に打ち砕いた。政司の視線の先を追い、ナツキは彼が転校生の女子から目を離せずにいたことに気づいた。
「見すぎだろ、おい」
「ただ……目を逸らせないんだ」政司は自分でも気づかないうちに、囁くように打ち明けた。
「彼女、転校生だぞ。忘れんなよ」
「ああ、分かってる……でも、自分でもどうしちゃったのか分からないんだ」
ナツキはニヤリと苦笑いを浮かべ、政司の肩を思い切り叩いた。
「よし相棒……今すぐ告白してこい!」
その叩かれた勢いは、完全にあおいだ政司の予想を超えていた。バランスを崩し、足が観覧席の端から滑り落ちると、彼の体は前方へと傾き、段差を無様に転がり落ちていった。
鈍い衝撃音が体育館に響き渡り、一瞬にして彼の視界は真っ暗になった。
ゆっくりと瞬きをし、視界が鮮明になるにつれて小さな首の運動をした。
目の前には、あからさまに心配そうなナツキを従えた朱莉が、すぐ近くに寄り添っていた。
「政司くん……気分はどう?」朱莉が低い声で訊ねる。その瞳には深い心配の色が宿っていた。
頭痛を処理しようと数秒間沈黙した後、彼は答えた。
「うん……心配してくれてありがとう」
ナツキは罪悪感から首の後ろを掻き、直接目を合わせるのを避けた。
「本当にごめん! マジでわざとじゃないんだ。そんなことになるなんて思わなくて……」
政司は保健室のベッドの上で体を起こそうと試みた。頭に手をやると、額を包む包帯の感触があった。
「気にしないでくれ、ナツキ」親友を見つめながら言った。「事故なんて誰にでもあるよ。こんな事故くらいで僕たちの友達関係が終わるなんて思ってるなら、そんなこと絶対あり得ないから」
ナツキはホッとしたように長いため息を漏らした。
「ありがとう、相棒……本当に」
政司は無言で見つめていた朱莉の方へと顔を向けた。
「私……すごく胸が苦しいというか、変な気持ちなの。上手く言えないけれど」彼女は膝の上で両手を握りしめながら呟いた。「ただ、あなたがそんな風に傷つく姿を見たくないの」
二人の間に流れる空気を感じ取ったナツキは、慌てて姿勢を正し、ぎこちなく咳払いをした。
「よし……しっかり看病されてるみたいだし、俺は教室に戻るわ」
政司は頷いた。ナツキは手で軽く合図を送り、後ろのドアを閉めて静かに去っていった。
「ナツキのこと、本当に大切に思ってるんだね」朱莉が保健室の静寂を破った。
「ああ。僕が出会った中で最高の奴の一人だよ」枕に背中を預けながら答えた。「自分が予測もできなかった事故のせいで、友達を失うわけにはいかないからね」
「政司くんは、本当に優しい心を持っているのね」
「こんなことで人を嫌いになれないだけだよ」
「そういうところが……私を惹きつけたの」朱莉は彼を優しく見つめながら呟いた。「他人に向けられる、あなたのその考え方が」
その告白に政司は固まり、どう返事をすればいいのか分からなくなった。彼は話題を変えようと試みた。
「授業に戻らないと……もうすぐ始まるし、テスト勉強のためにノートを取らないと」
「ううん、ダメだよ」彼女は優しく首を横に振り、彼を制した。「休んでいて。私が代わりにノートを取って、後で渡すから」
「……分かった。頼むよ」
まさにその瞬間、学校のチャイムが廊下に響き渡り、次の授業ブロックの開始を告げた。
「戻らなきゃ」朱莉は出口に向かって一歩踏み出した。「また後でね……絶対に一人で帰ったりしないでね、政司くん」
彼は無言で頷いた。朱莉は最後に笑みを残し、保健室を出て行った。
一人になると、政司は再びベッドに横たわり、回転する白い天井を見上げながら腕で目を覆った。最近の自分の人生は、まったく意味の分からない方向へ進んでいると、心の中で呟いた。
放課後、廊下を歩いていると、最後の生徒たちが帰路につき、校舎は徐々に静まり返っていった。
角を曲がりロッカーにたどり着いた瞬間、政司は足を止めた。
蓮が彼のロッカーの真ん前に立ち、静かに彼を待っていたのだ。その光景に速攻で困惑した。
「やあ、古川先輩……何か用?」
蓮は彼の目を見つめ、それから額に視線を固定した。
「政司
くん……どうしたの? 喧嘩でもしたの? その包帯……」
「あ、これ……ただの事故だよ」手を振って大したことないと流す。「先輩こそ、僕のロッカーの前で何してるの?」
「知りたい?」真剣だが強い眼差しを崩さずに彼女が訊ねた。
「うん」
蓮はかすかなため息を漏らすと、彼に向かって一歩踏み出し、絶対の決意を込めて彼を見つめた。
「告白しに来たの」
「え……何て?」政司は完全に思考が追いつかず、瞬きをした。「ごめん、先輩が言ってること……」
「馬鹿げてるって? そんなことないわ。私、一年生の時からあなたのことが好きだったの……私と付き合ってほしい」一切の躊躇なく、彼女は言葉を遮った。
彼女の言葉は、静まり返った廊下に強く響き渡った。
まさにその瞬間、ロッカーの列のすぐ反対側に立っていた朱莉は、その言葉の一言一言を耳にしていた。氷のような衝撃が彼女の胸を駆け抜ける。喉から漏れ出そうになる絶望的な泣き声を押し殺すため、彼女は急いで両手で口を覆った。
彼女は息を殺して固まり、政司の返答を待った。
「もちろん……」
その二つのシンプルな音節が、冷たく、そして酷く傷つけるように空気中に漂った。
朱莉の世界は完全に崩れ去った。一言も発することなく、彼女は振り返り、誰にも見られることなく校舎の出口へと走った。瞳には涙があふれ、その心は完全に粉々に砕け散っていた。




