第5話:ありふれた日常
鼓膜をんざくような雷鳴が空に轟き、マンションの窓ガラスを激しく揺らした。
一瞬の白い閃光が、部屋を明るく照らし出す。
「きゃっ!」
朱莉はその場で小さく跳ね上がり、瞬時にバランスを崩した。
倒れる前に受け止めようと、僕は本能的に両腕を伸ばした。
彼女の華奢な体が、僕の胸に衝突する。
服の生地越しに、僕の手に伝わる彼女の激しい鼓動を感じた。洗いたての髪から漂う石鹸の香りが、僕をすっぽりと包み込む。
「大丈夫? 雷……苦手なの?」
肩をしっかりと支えたまま尋ねる。彼女は俯いたまま、静かに首を縦に振った。
ゆっくりと、彼女は僕から身を引いた。
耳まで真っ赤に染まった頬を染め、恥ずかしさのあまり僕と目を合わせることができずにいる。
急に顔が熱くなるのをごまかそうと、生唾を飲み込んだ。
「嵐が酷くなる前に……学校に戻った方が良さそうだな」
帰り道、僕たちは一本の傘を相合い傘で歩いた。端から落ちる雨粒が彼女に当たらないよう、歩幅を彼女に合わせて歩く。
本当に……こんなことが起きているのか?
喉の奥に塊ができるのを感じた。
女子とこんな風に並んで歩くなんて、人生で一度も想像したことがなかった。もちろん妹は別だが、それはまったく別の話だ。
彼女は……
横目でチラリと朱莉を見た。
少し首を傾げ、肌を温かいピンク色に染めて歩いている。震える指先で、黒髪の毛先を無意識に人差し指に巻き付けていた。
その仕草はあまりにも儚く、愛おしくて、僕の心臓は無意識に跳ね上がった。
高校のメインゲートをくぐったまさにその瞬間、嵐は嘘のようにピタリと止んだ。
灰色の雲が切れ始め、差し込む日差しが濡れた中庭を照らし出す。
傘を閉じ、安堵のため息を漏らした。
「政司ぃぃぃ!」
騒々しい叫び声が空気を打ち破った。
校舎の玄関で、ナツキが手をぶんぶんと振りながら僕たちに向かって走ってきた。
「やっと来た! なんでそんなに遅かったんだよ!?」息を切らしながら問い詰めてくる。
その時、朱莉は彼のかたわらを静かに通り過ぎ、一言も発さずに廊下の奥へと進んでいった。
ナツキは固まった。
目を丸くして彼女の背中を目で追いかけ、それから僕の方を振り返ると、必死の形相で僕の肩を掴んできた。
「お、おい……あの子誰だよ!? なんであんな異常に可愛い子と歩いてんだよ!? お前みたいな恋愛初心者に、そんなラブコメ展開が許されていいわけないだろ!」
「おい! お前と僕はまったく同類だろ!」
背中を強く叩き返し、彼をよろめかせた.
彼を追い抜いて教室へと向かう。
けれど廊下を歩きながら、胸のあたりにそっと手を触れずにはいられなかった。
僕の胸に触れた彼女の体の温もりと、手に触れた時の彼女の恥ずかしそうな仕草が、今も肌の奥で熱く燻っていた。
一時間目の授業が始まった。
いつもの疲れた足取りで先生がドアをくぐり、生徒たちは慌てて席に着いた。
「全員注目。授業に入る前にひとつ連絡がある。今日から我がクラスに新しい仲間が加わることになった」
教卓に書類を置きながら先生が言った。
すぐに教室中に小さなざわめきが広がった。
「入れぞ」廊下に向かって声をかける。
引き戸が静かに開いた。
彼女だった。朱莉だ。
まっすぐな足取りで進み、クラスの正面で足を止めた。
窓から差し込む朝の光を受け、彼女の立ち姿は完璧だった。
「自己紹介を頼む」
彼女は軽く一礼した。
「はじめまして。白川朱莉と申します……皆さん、よろしくお願いします」
クラス全体が礼儀正しく拍手する中、彼女の瞳は教室の列を辿り、まっすぐに僕のところで止まった。
ほんの一瞬、けれど確実な視線が交差した。
「よし、白川。一番後ろ、政司の隣の空いている席に着席しなさい」座席表を確認しながら先生が割り込む。
「わかりました」
朱莉は静かなエレガンスを漂わせながら、机の列の間を歩いた。僕の右側に腰掛け、静かに文房具を取り出すと posture(姿勢)を整え、まっすぐ前を見つめた。
また始まった……
静かに奥歯を噛み締めた。柔らかい石鹸の香りが、前の世界線と全く同じように僕の隣で漂い始める。
コン、コン。
注意を引くため、先生が黒板消しで黒板を二回叩いた。
「四十二ページを開け。代数分数式の単元から始めるぞ」
緑の木製黒板にチョークが数字を刻む音が教室に響き始める。
僕の隣で、朱莉がノートに走らせるペンの音は清々しく、途切れることがなかった。
昼休みを告げるチャイムが鳴った。
ほんの数秒で、朱莉の机の周りは好奇心に満ちた生徒の群れで囲まれた。息つく暇もなく質問を浴びせ、彼女を追い詰めていく。彼女は答えようとしていたが、一気に向けられた注目の前に、明らかに困惑し確信を持てずにいる様子だった。
新しい転校生が来た時の、お決まりの光景だった。
騒ぎを無視することにした。僕は立ち上がり、ナツキと共に教室の出口へと向かった。
しかし、ドアをくぐる直前、横目でチラリと振り返った。クラスメイトたちの肩越しに、朱莉の視線がまっすぐに僕たちの方へと向けられていた。
廊下に出ると、僕は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
頭の中は混乱の渦だった。
これからどうすればいいんだ?
朱莉は同じクラスというだけでなく、隣の部屋の住人でもあった。まだ理解できていないこの時間のやり直しの中で、僕たちの関係をどうやって育んでいけばいいというんだ?
肩を強く叩かれ、思考が一気に引き戻された。
隣からナツキの声が聞こえる。
「なあ、白川さんのことどう思ってんだ?」
困惑して彼を見た。
「今朝、一緒に登校してきたのは分かってんだぞ」目を細め、疑いの視線を向けてくる。「つき合ってたりするのか?」
ピタッと足を止め、完全に呆然とした。
「は? 違うよ! 何も関係ないって。どこからそんな話が出てくるんだよ?」
ナツキは肩をすくめ、珍しく大人びたトーンになった。
「チャレンジしてみろよ、政司。チャンスなんてすぐ過ぎ去るし、時間は待ってくれないぞ。このままだと一回も恋しないままジジイになるぞ」
急な物知りに首をかしげた。
「なんで急にそんなしつこいんだよ?」
彼は満面の笑みを浮かべ、僕の背中をポンポンと叩いた。
「親友だからに決まってんだろ」
「はぁ……」
あきらめ混じりの長いため息を漏らした。
それ以上は何も言わず、僕たちは廊下を進み、食堂のドアの前にたどり着いた。
自動販売機で缶の冷たいお茶を二本買い、奥のテーブルに着いた。ナツキは一気にプルタブを開け、一口飲んでから肘をついた。
「話は変わるけど……来週のテストの準備はできてんのか、政司?」
「全然」冷たいお茶をすする。「一冊も本を開けてない」
「俺もだわ。この週末本気で勉強しないと、数学の先生に吊るされる」
「このままだと補習で夏休み潰れるぞ」
「言うなよ! 俺の夏の計画は部屋でゴロゴロすることであって、学校に閉じこもることじゃないんだよ!」
まさにその瞬間、外の廊下から甲高い悲鳴が響き渡った。
「キャアアアアアアアアッ!」
悲鳴と同時に、金属製のトレイが床に激しく叩きつけられ、タイルに激突する乾いた音が空気を凍りつかせた。
食堂のいつもの喧騒がピタリと止む。
何十人もの生徒が一斉に振り返り、騒ぎの発生源を探した。
「今のは何だ?」ナツキがすぐさま立ち上がる。
迷うことなく缶をテーブルに置き、僕たちは廊下へ向かって早足で進む群衆に加わった。
角を曲がると、その光景が目に飛び込んできた。
こぼれたジュースと散らばったご飯に囲まれ、床の上でロッカーに追い詰められている一人の女子の姿があった。




