第2話:偶然
玄関のドアを開け、靴を脱いだ。家庭料理の心地よい香りが空間に漂っている。
「おかえりー!」
リビングから高めの声が響いた。
直後、妹が廊下からひょっこり顔を出した。手にジュースのグラスを持ち、顔には意地悪な笑みを浮かべている。
「初日の学校はどうだった? また寝坊したんじゃないでしょうね?」
「もっと最悪だ」
そう言って、僕は床にリュックを下ろした。
「え? そんなに酷かったの?」
「天気が狂って制服の半分がびしょ濡れ、おまけに傘もなくなってさ」
「盗まれたの?」
「女子にあげた」
妹は一口飲もうとしたところで完全に固まった。情報を処理するようにパチパチと瞬きをする。
「……女子に?」
「公園のベンチで雨に打たれっぱなしになってた女子」
「ちょっと待って。あの気難しいお兄ちゃんが紳士的な気遣いをしたってこと? 空から火でも降ってきたわけ?」
目を丸くして、妹は一歩前に踏み出した。
「からかうな。最悪なのはそこじゃない」
「まだ何かあるの?」
「そいつが、僕のクラスの転校生だったんだ」
一瞬、廊下に静寂が満ちた。それから妹は大爆笑した。
「あははは! 嘘でしょ!? まんまテンプレのラブコメ漫画じゃん!」
「笑い事じゃない」ため息をつきながら、僕は鼻頭を揉んだ。「しかも席がすぐ隣なんだぞ」
「運命だよ! 宇宙がお兄ちゃんに『早く彼女を作りなさい』って言ってるんだよ!」
大げさに指を指しながら叫ぶ。
「着替えてくる」
背を向け、階段を上り始めた。
「明日傘返してもらう時、絶対に連絡先聞きなよー!」
階下から笑い声混じりの叫びが聞こえてきた。
妹のからかいを遮断するため、部屋のドアを強めに閉めた。ベッドの上に仰向けに倒れ込み、白い天井をじっと見つめる。
明日。
教室に足を踏み入れた瞬間、また彼女と顔を合わせることになる。
胸の奥から長いため息が漏れた。
間違いなく、今年度は平穏とは程遠いものになりそうだ
。
授業が始まる前の教室には、絶え間ない雑音が満ちていた。
僕の机の端に寄りかかりながら、ナツキが溢れんばかりの情熱で一方的に喋り続けている。
「いいか政司、よく考えろよ……彼女がいる生活なんて最高に決まってるだろ。放課後に甘い声で『好きだよ』なんて言われたらさ、想像しただけで鳥肌立つわ」
「はいはい」
「考えろって! 自分のことを心配してくれて、お弁当作ってくれて、一緒に帰るんだぞ……」
「そうだな」
「高校生の夢そのものだろ、違うか?」
「はいはい」
ナツキがピタッと動きを止めた。目を細め、腕を組みながら不機嫌そうに僕を見つめてくる。
「おい……話聞いてないだろ?」
小さくため息をつき、僕は机の上のノートを整えた。
「聞いてるよ。ただ、僕たちみたいな奴らにそんな簡単に彼女ができるとは思えないって言いたいだけだ。不可能とは言わないけどさ……」
言い終わらないうちに、隣の席から声が割り込んできた。
「政司」
柔らかく静かで、どこか甘い響きを持ったその声は、周囲の喧騒を一瞬で打ち消したようだった。
驚きのあまり、僕はその場で身を固くした。
僕を……下の名前で呼んだのか?
振り返るのを一瞬ためらった。馬鹿げた反応だと分かってはいたが、体が動くのを拒んでいた。
「政司……」
ささやき声より少し大きい程度の声で、彼女が再び呟いた。生唾を飲み込み、ゆっくりと首を右へと向けた。
彼女がそこにいた。
手のひらに頬を寄せ、僕の目をじっと見つめている。その唇には、朝の光にぴったりと馴染む温かく眩しい笑みが浮かんでいた。
「……何?」
なんとか冷静さを保ちながら答えた。
「私、白川朱莉です」
不思議そうな顔で彼女を見つめる。昨日、先生がみんなの前で紹介したのだから、わざわざ言い直す必要性が分からない。
「自己紹介ならもう……名前くらい知って――」
「素敵な名前ですね」
笑みを絶やさぬまま、首をかすかに傾けて彼女が言葉を遮った.
背筋にゾクッとしたものが走る。
なんだ? 煽られているのか、それともからかわれているだけなのか?
唇を噛み締め、椅子に座り直した。
「……僕たち、そこまで気安く呼ぶ間柄でしたっけ、白川さん?」
「全然。時間を無駄にはできませんから。雨の中で助けていただいたあの瞬間から、私、自分の未来が決まりました」
その穏やかな眼差しを崩さず、彼女は迷いなく答えた。
自動的に首を縦に振ったものの、内心では彼女が何を言っているのか一切理解できていなかった。
(未来? 雨の中? 一体何の話をしてるんだ、この子は?)
説明を求めようとした矢先、制服の襟元を強く引っ張られた。
顔を真っ白にし、目をひんむいたナツキが、死に物狂いで僕のシャツを引っ張っていた。
「お、おい政司……お前ら二人、どこまで知ってる間柄なんだよ!? 昨日来たばかりなのにもうそんな親しげに会話して……下の名前まで呼ばれてるぞ!?」
顔を間近に寄せ、歯の隙間から囁いてくる。
「ただの偶然だよ」
低い声で答え、彼の手をほどこうと試みる。
ナツキは不信感でいっぱいの目を向け、シャツを握る力をさらに強めた。
「偶然!? それ、ただの偶然ってレベルじゃないだろ!」
「話をややこしくするな、ナツキ……」
「何がややこしくするなだ! お前、僕にデカい隠し事してるだろ政司!」
必死のささやき声で返し、服の生地をさらに握りつぶすナツキ。そのまさにその瞬間、教壇の方から乾いた咳払いが響いた。
「コホン」
眼鏡の奥から、空気を凍らせるような視線で先生が僕たちを睨みつけていた。
周囲のクラスメイトたちも振り返り、この光景におかしそうに笑いをこらえている。
僕とナツキは引きつった笑いを浮かべながら慌てて手を離し、何事もなかったかのように席に座り直した。
黒板に集中しようとしたが、疑問が胸の中で渦巻いていた。
気づかれないように、チラリと視線を右に向けた。
彼女はそこにいて、美しい姿勢でノートにペンを走らせていた。筆跡は力強く穏やかで、数秒前に起こした混沌などまるで他人事のようだ。
(あの急な変化は何だったんだ?)
ついさっきまで、あのミステリアスな笑みで僕の目を見つめていたのに、今は絶対に羽目を外さない優等生を演じている。
ペンを握る手に力を込めながら、黒髪が肩に落ちる様子を横目で見やった。
間違いなく……僕をからかって楽しんでいるだけだ。
昼休みになり、ナツキはすぐさま行動を起こした。
「学食行こうぜ政司。午後の授業を生き延びるには本物のメシが必要だ」
結局、僕も折れた。
数分後、僕は湯気の立つラーメンの丼を前に、長いテーブルの席につ independent。周囲は生徒たちのいつもの喧噪で満ちている。
ナツキの隣には、陸上部の仲間が二人加わっていた。会話はすぐに、お決まりの方向へと脱線していく。
「マジでさ、彼女作ろうとして時間無駄にしてる奴らの気が知れないわ。面倒が増えるだけだし、無駄金かかるし、くだらないことでドラマが始まるだろ」
一人がフォークでご飯をつつきながら言った。
「それはお前が、自分を支えてくれる人の価値を分かってないからだろ。誰かに大切にされてるって実感……あれ以上のものはないぞ」
ナツキが熱弁する。
「勘弁してくれよ」もう一人の奴が鼻で笑った。「『気持ち』ねぇ。綺麗な言葉だこと。高校なんて全部表面的なもんだろ。女子が理由もなく近づいてきたら、見返りを求めてるか、ただバカにしてるかのどっちかだ。下心なしで本気で興味持つ奴なんていねーよ」
「お前はひねくれてんなぁ」ナツキが呟く。「政司はどう思うよ?」
ラーメンの湯気を吹き飛ばしながら, 僕は麺に視線を固定したまま答えた。
「みんな、物事を複雑にしすぎだろ」
中立的なトーンで返す
。
「ほら見ろ! 政司は分かってる。人の意図なんて、小説みたいに純粋なわけないんだよ」
ドヤ顔を浮かべる部活仲間。まさにその瞬間、僕たちのテーブルの脇に一人の人影が立ち止まった.
両手に自分の昼食が載ったトレイを持っている。
横目で見えた。彼女だ。
気づかないフリをして、僕は本能的に丼へと視線を逸らした。
しかし、彼女は僕たちに向かってさらに一歩踏み込んできた。
「政司……お隣、座ってもいい?」
彼女の声の温もりが、テーブルの緊張感を一瞬で切り裂いたようだった。
言葉を詰まらせながら、なんとか返事を絞り出す。
「あ、うん……どうぞ」
同級生たちは彫像のように硬直し、一斉に背筋を伸ばした。
彼女はトレイをテーブルの上に滑らせ、僕のすぐ隣に腰掛けた。エレガントな仕草で、黒髪を耳の後ろへと払う。
テーブルの上には、完全な静寂が訪れていた。




