第1話:公園の少女
激しい雨がアスファルトを叩きつけていた。地面を打つ水の音が、耳の奥で激しく響き渡る。
急ぐ僕の足音が、歩道にむなしく響いていた。
「くそっ、雨のやつ……何も今日降らなくてもいいだろ」
傘の柄を強く握りしめながら, 空に向かって悪態をつく。
横から吹き付ける風のせいで、制服のズボンはすでにびしょ濡れだ。僕の目的はいたってシンプル。予鈴が鳴る前に学校へ滑り込むこと。
時間を短縮するため、僕は市立公園を突っ切る近道を選ぶことにした。
普段なら人々で賑わう公園も、今日ばかりは荒れ狂う嵐の音しか聞こえない。
……そう思っていた。
砂利道の曲がり角を曲がった瞬間、僕の足は完全に止まった。数メートル先、葉の落ちた木の役立たずな影の下に――
木製のベンチがあった。そしてそこに、微動だにせず座っている一人の少女の姿があった。傘は持っていない。頭を覆おうとすらしていない。
僕と同じ高校の制服を着ていたが、雨のせいでぴったりと肌にへばりついている。
黒髪の先から滴る水滴が地面に落ちていくが、彼女は身じろぎひとつしない。ただ虚ろな視線を何もない空間に向け、嵐の衝撃をそのまま受け止めていた。
誰もいない公園の中央で……
その少女は、まるで世界に見捨てられたかのように見えた。
生唾を飲み込む.
常識が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。ここに立ち止まっていれば、遅刻した上に肺炎になるのがオチだ。
しかし、僕の足は勝手に動き出していた。
静かに距離を詰め、ベンチの前に立つ。
傘を前に傾け、彼女の体を覆うようにして、頭上に降り注ぐ雨を遮った。
生地を叩く激しい雨音が、僕たちの頭上ですぐ近くに響く。
少女はゆっくりと顔を上げた.
光のない澄んだ瞳が、僕の視線とぶつかった。寒さで唇をかすかに震わせていたが、その顔に驚きの色はない。ただ、深い虚無だけがあった。
「雨の日に、こんなところに居ちゃダメだろ」
努めて声を落ち着かせながら、僕は言った。
彼女は数秒間、無言で僕を見つめていた。やがて、風にかき消されそうな細い声で呟いた。
「……気にしないで」
「風邪引くぞ。これを使え」
僕は傘の柄を彼女の方へと差し出した。
少女は手を伸ばす仕草すら見せず、静かに首を振った。
「いらない。それをもらったら、あなたが濡れる」
「もう濡れてるよ」
反論の隙を与えずに答える。
僕は彼女の手を優しく掴み, その冷たい指に強制的にプラスチックの柄を握らせた。
彼女が反応したり、返そうとしたりする前に、僕は背を向けた。
「じゃあな……凍える前に帰れよ」
返事を待つことなく、僕は公園の出口に向かって走り出した。冷たい雨が再び顔を叩いたが、足を止めることはしなかった。
背中に、彼女の視線を感じていた。
ベンチに佇み、僕の傘の影の下で、彼女は嵐の中に消えていく僕の姿をずっと見つめていた。
ずぶ濡れの廊下に響き渡るチャイムと同時に、僕は高校に到着した。
一歩踏み出すたびに水滴を垂らしながら教室のドアをくぐり、クラスメイトたちの好奇の視線を一身に浴びる.
時間を無駄にすることなく、僕は窓際の列にある自分の席へと直行した.
椅子に深く腰掛け、長いため息をつく。
「おい、政司……一体どうしたんだよ?」
聞き覚えのある声が、僕の思考を遮った。
中学からの親友、ナツキだった。
僕の机に腕を組みながら寄りかかり、困惑と面白 half(半分)が混ざったような顔で僕を上から下まで見つめている。
「溺れた猫みたいになってるぞ」くすっと笑いながら彼が付け加える。「なんでこんなに遅かったんだ? っていうか、なんでそんなに濡れてるんだよ? 今日、傘持っていかなかったのか?」
「持ってたよ」
リュックから取り出した小さなタオルで顔を拭きながら答える。
ナツキは不思議そうに目を細めた。
「じゃあなんで? 風で壊れたのか?」
「誰かに渡してきた」
「誰かに?」
「女子に」
雨粒が激しくガラスを叩き続けている窓の外を見つめながら、僕は説明した。
ナツキは一瞬無言になり、呆然とまばたきをした後、目を丸くして身を乗り出してきた。
「女子ぃ!? まさか……雨の中での運命の出会いってやつか!? 全部話せよ政司! 何年生? 可愛い子か!?」
「バカ言え。公園のベンチでびしょ濡れになって動こうとしない奴がいたんだよ。置いて走って逃げてきただけだ」
「それでもすげーじゃん!」
ナツキは顎に手を当てて声を上げた。
「うちの学校の制服着てたか?」
一瞬手を止め、数分前の光景を思い返してみる。
「正直……どこの制服かまではよく見てなかった。高校生っぽかったのは確かだけど」
「マジかよ……名探偵様だな」
ナツキは大げさに首を振りながらため息をついた。
「まあ、せめて返してくれるといいな。お前のことだから、名前も聞いてないんだろ?」
「聞いてない。考える余裕もなかった」
僕はあっさりと認めた。
その時、先生が黒板をコンコンと叩きながら教室に入ってきて、授業の開始を告げた。
ナツキは僕の「恋愛インスティンクト(本能)の欠如」についてぶつぶつ呟きながら、自分の席へと戻っていった。
僕はといえば、窓ガラス越しに雨をじっと見つめながら、彼女がまだあのベンチにいるのか、それともようやく家に帰る気になったのかをぼんやりと考えていた。
昼休みを告げるチャイムが鳴った。
僕がお弁当を取り出すやいなや、ナツキは自分の椅子を僕の席まで引っ張ってきて、陸上部のことについてペラペラと喋りながら弁当の半分をあっという間に平らげた。僕はクラスの絶え間ない雑音を半聞きにしながら、静かに昼食をとった。
時間はあっという間に過ぎ、再びチャイムが鳴り響く。
全員が席に戻った。次の時間の授業を担当する先生が、大量の書類を腕に抱え、いつもの疲れた表情で教室に入ってきた。
しかし、授業を始める前に、先生は注意を引くために教卓をトントンと軽く叩いた。
「全員注目。始める前にひとつ連絡がある。今日から我がクラスに新しい仲間が加わることになった」
教室に小さなざわめきが広がった。
「入れぞ」
先生がドアに向かって指示を出す。
引き戸が静かに開いた。
その姿が敷居をまたいだ瞬間、僕の喉の奥で空気の凍りつく音がした。
彼女だった。
今朝、嵐の中でベンチに座っていたあの少女だ。
黒髪はもう濡れておらず、肩の上に柔らかく落ちていて、僕たちの高校の制服を完璧に着こなしている.
僕は自分の席で完全に硬直した。
「自己紹介を頼む」
先生が促す。
彼女は軽く一礼した。
「はじめまして。白川朱莉と申します……皆さん、よろしくお願いします」
クラス全体が礼儀正しく拍手する中、彼女の瞳は教室の列を辿り、まっすぐに僕のところで止まった。
視線が交差した瞬間、彼女の唇に小さな笑みが浮かんだ。
背筋にゾクッとしたものが走り、僕は咄嗟に窓の外へ視線を逸らした。
突然、すぐ前に座っていたナツキが、椅子の上でこっそりと振り返った。
「おい、政司……あの子、お前のこと知ってるっぽいぞ」
低い声で囁いてくる。
「あいつだよ」
僕は歯の隙間から声を漏らした。
「え? 誰が?」
「今朝助けた女子だ」
ナツキは口をぐうの音も出ないほど開けた。
「はぁ!? 嘘だろ……」
僕は静かに首を振り、自分の desk(机)の木目に視線を固定し続けた。
「よし、白川」
座席表を確認しながら先生が割り込む。
「空いている席は一番後ろ、政司の隣だけだ. そこに着席しなさい」
「わかりました」
僕は奥歯を噛み締めた。
(マジかよ? 転校生が主人公の隣に座るっていう、テンプレのラブコメ展開かよ? 勘弁してくれ)
朱莉は机の列の間を歩き、僕の右側に腰掛けた。ほのかな石鹸の香りが、今朝の雨の匂いを完全に塗り替えていく。
僕はノートを横目でチラリと見た。
間違いなく……僕の平穏な生活は崩壊した。
夕 weing(夕方)が訪れる。
昼過ぎの嵐はすっかり去り、窓から差し込む夕焼けのオレンジ色が教室を染めていた。
他の生徒たちは、部活や下校のためにリュックをまとめている。ナツキはリュックを肩に担ぎ直し、僕の席に近づいてきた。
「じゃあな政司、俺は行くわ。未だに信じられない強運だけど、明日の話に期待してるぞ」
そう言って片目をウインクしてみせると、ドアから出て行った。
「じゃあな……」
僕はゆっくりとしたペースで本を片付け終えた。
隣の朱莉の席はすでに空になっていた。最後のチャイムが鳴ると同時に、一言も発さずに立ち去っていたのだ。
教室の大きな窓に近づき、メインの中庭を見下ろす。
そこに、彼女がいた。
今朝貸した傘を右手でしっかりと持ちながら、穏やかな足取りで校門をくぐっていく。
メインストリートの雑踏の中に姿が消えるまで、僕はガラス越しに彼女の背中をずっと見つめていた。




