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第10話:あの言葉

 

 ここ数時間、僕の胸を押しつぶしていた重苦しい緊張感が消え去り、代わりに妙に暖かく愛おしい感覚が満ちていった。

 ほんの少し前まで重苦しい空気に包まれていた裏庭の空気が、急に軽くなったように思えた。


 朱莉はあからさまに決まずそうに視線を落とした。スカートの裾を緊張した手つきでこねくり回し、今度は純粋な羞恥心からくる真っ赤な朱が、彼女の首筋から頬へと駆け上がっていく。


「私……すごくバカだった」彼女はほとんど唇の動きを読まなければ聞こえないほどの小声で呟いた。「聞こえた言葉に振り回されて……理由があるかもしれないなんて、考える余裕もなかった」


「君のせいじゃないよ。僕だって同じ立場ならそう思ってた。あの人は……トラブルを起こすのが本当に得意なんだ」


 朱莉は顔を上げ、控えめな微笑みを向けてくれた。そこにはさっきまでの悲しげな影はなく、ついに世界が正しい軌道に戻ったのだと実感させてくれた。


「それじゃあ……」彼女は僕に向かって躊躇いがちに一歩踏み出した。「私たち、これからも『親しい』関係でいていいの?」


 喉に空気が詰まった。その瞳に宿る輝き、不安と希望が混ざり合ったその表情に、引き込まれないはずがなかった。僕は前へ踏み出し、二人の間の距離を縮めた。


 彼女の髪から漂う、さわやかでどこか桜の花を思わせる優しい香りが、僕を包み込んだ。


「それ以上だよ」頬が熱くなるのを感じながら言った。「もし君がいいなら……肩書きなんて気にしないで、ただ一緒の時間をもっと過ごしたいんだ。本当に」


 彼女は僕のまっすぐな言葉に瞬きをし、一瞬固まった。それから、愛おしいほどの恥ずかしさを浮かべながら、大きく頷いた。


「うん……喜んで!」


 遠くで予鈴のチャイムが鳴り響いた。授業やテスト、周囲の期待といった現実の世界が僕たちを呼び戻す、野暮な合図だった。けれど、葉を落とし始めた木々の影の下で過ごすこの瞬間において、そんなことはどうでもよかった。


 僕たちは並んで校舎へと戻った。身体が触れ合うことはなかったけれど、その距離感だけで十分だった。肩が偶然すれ違うたびに、背骨を電気のような衝撃が駆け抜けた。


(これが、新しい何かの始まりなのかな?)

 彼女の横顔を盗み見ながら思った。誤解や嘘の告白から遠く離れて、これが僕の人生の歩むべき道なんだろうか?


 廊下に入ると、いつもの学校の日常が再び僕たちを包み込んだ。遠くからナツキが僕たちの姿を見つけると、雰囲気が変わったこと――朱莉が胸を張って歩き、僕の拳が固く握りしめられていないこと――に気づき、親指を立てて満足気な笑みを浮かべた。思わず顔を隠したくなるような表情だった。


 ナツキが言った通り、人生はシンプルなのかもしれない。けれど、本当に目の前にある大切なものに気づくためには、時に誤解の嵐を通り抜けなければならないのだ。


「政司くん」教室に入る直前、彼女が僕を呼び止めた。「私を探しに来てくれて、ありがとう」


「お礼なんていらないよ」彼女のためにドアを開けながら答えた。「これからは、もう走って逃げなくていいからね。いつでも君のペースに追いつくから」


 彼女は鈴を転がすように小さく笑った。その声を脳裏に焼き付けようと心に誓いながら、僕は彼女に続いて教室に入った。テストや学校の騒々しさがあるとしても、これほど長い間感じたことのなかった感覚――未来は絶壁などではなく、歩む価値のある道なのだという思いが、胸を満たしていた。


 夕方の黄金色の光が図書室のブラインドの隙間から差し込み、僕たちが座る木製のテーブルに縞模様の影を落としていた。静寂がその場を支配し、時折ページをめくる音と僕たちの静かな息遣いだけが響いていた。


 教科書の数学のページを開き、シャーペンの先で最も複雑な問題の一つを指し示した。


「ほら、この問題を解くには、まずこの変数を整理する必要があるんだ」図書室の静けさを壊さないよう、低い声で説明した。「ここに直接公式を当てはめちゃうと、符号で混乱するから。こうやって……」


 手が止まった。


 首肯も返事も返ってこないことに気づき、ノートから顔を上げた。朱莉はページを見ていなかった。顔を僕の方へ向け、すぐ近くからじっと僕を見つめていた。朝の赤みがまだかすかに残る彼女の瞳が、夕暮れの光を受けて輝いていた。


 見つめていたことがバレたと気づくと、彼女は跳ね起きた。頬は耳の先端まで鮮やかな朱色に染まった。慌てて体勢を直そうとして、手元を狂わせ、消しゴムを床に落としてしまった。


「あ、あ……ごめんなさい」と言いながら、拾おうと大急ぎでかがみ込んだ。


「朱莉……」手元を震わせながら起き上がる彼女を見て、小さく息を吐いた。「説明、分かりにくかった? 嫌じゃなければ、最初からやり直すけど」


「ううん……そうじゃないの」消え入りそうな声で答えた。


 彼女はテーブルの上に腕を置き、膝の上で拳を握りしめながら俯いた。二人の間の空気感が急変し、息をのむほど濃密で親密な緊張感が漂い始めた。


「どうしたの?」少しだけ彼女に寄り添いながら訊ねた。


 朱莉は冷たい水に飛び込む直前のように、深呼吸をした。胸が激しく上下する。ゆっくりと視線を上げ、僕の目を見つめ返した。その瞳にはもう躊躇はなく、震えながらも確かな決意だけが宿っていた。


「本当は……数字に集中できないの、政司くん」彼女の声がかすかに震えていた。「どれだけ頑張っても、今日起きたことばかり頭を駆け巡っちゃって……あなたを失うかと思った時に感じたことや、こんなに近くにいる時に感じることばかり……」


「朱莉……」


「もう、二度と疑いたくないの」彼女はテーブル越しに少し身を乗り出し、二人の距離を縮めながら優しく言葉を遮った。「私たちの間に、もう誤解も怖さも残したくない」


 図書室の中の時間すら止まったようだった。外の風の音も消え去り、僕の耳に響くのは、自分自身の激しい鼓動の音だけだった。


 朱莉は頬を真っ赤に染めながら僕の目をまっすぐに見つめ、二人の間にある空間を打ち砕く言葉を紡ぎ出した。


「好きです、政司くん」


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