第9話「過保護な視線と甘い束縛」
窓硝子に白い霜が降りる季節になった。
朝の冷え込みが一段と厳しさを増している。
アレンは寮の小さな部屋で身支度を整えていた。
厚手の制服のボタンを首元までしっかりと留める。
冷たい水で顔を洗って小さな鏡を見た。
顔色は良く肌には健康的な血色が戻っている。
新しい抑制剤は期待通りに機能していた。
以前のような急な体調不良は全く起こらない。
机の上に置かれた包みが目に入った。
昨夜彼から無造作に手渡されたものだ。
アレンは慎重に薄い紙の包みを開いた。
中から出てきたのは濃紺の厚手の手袋だった。
最高級のカシミヤで丁寧に編まれている。
指先を触れるだけで驚くほど柔らかかった。
特待生のアレンには一生買えない高価な代物だ。
「手が冷たいのは魔力制御に良くない」
彼が不器用にそう言い訳をして渡してくれたのだ。
アレンは両手にその手袋をそっとはめてみた。
手袋からは微かに彼の気配がした。
肌を刺すような冷たい空気が肺を満たす感覚だ。
彼の気配がアレンの両手を優しく包み込む。
まるで彼自身に手を握られているようだった。
アレンの頬が熱を帯びる。
あの夜から二人の関係は変化した。
ヴィルヘルムは態度を隠そうとしなくなったのだ。
過保護なまでの一人の男としての顔を見せる。
アレンは手袋をしたまま教室へと向かった。
冷たい北風も今は気にならなかった。
中庭を歩いていると声をかけられた。
同じクラスの人の良い男子生徒だった。
高位貴族ではない一般家庭出身のβだ。
「エルディス」
「今日の魔術史のノートを見せてくれないか」
彼は申し訳なさそうに両手を合わせた。
アレンは足を止めて微笑んだ。
自分を普通に扱ってくれる数少ない生徒だ。
「構いませんよ」
「あとで図書室で写してください」
アレンがそう答えたときだった。
背後の空気が急激に凍りついた。
見えない氷の針が突き刺さるような悪寒だ。
男子生徒の顔がみるみる青ざめた。
彼はアレンの背後を見てガタガタと震え出す。
アレンが振り返るよりも早く冷酷な声が響いた。
「特待生の時間を無駄に奪うな」
ヴィルヘルムがそこに立っていた。
彼の銀色の瞳は荒れ狂っている。
アレンに話しかけた生徒を睨みつけていた。
「も」
「申し訳ありません」
男子生徒は慌てて逃げ去ってしまった。
アレンは呆然としてヴィルヘルムを見上げた。
「先生」
「彼はただノートを借りに来ただけです」
ヴィルヘルムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「他の男に安易に隙を見せるな」
「君は愛想が良すぎるのだ」
理不尽な怒りにアレンはまばたきを繰り返した。
ただのクラスメイトへの親切さえ許されないのか。
彼の独占欲は想像を遥かに超えていた。
「教室へ行くぞ」
彼はアレンの背中を軽く押して歩き出した。
周囲の生徒たちが慌てて道を空ける。
彼らから直接的な敵意はもう感じられない。
上位貴族の派閥はすっかりと沈黙した。
学園の理事会すら彼らに警告を発したらしい。
公爵家の力の恐ろしさを誰もが理解したのだ。
誰もアレンに指一本触れることはできない。
アレンは誰にも邪魔されずに自分の席に着いた。
午前中の魔術理論の授業が始まる。
ヴィルヘルムが教壇に立つと教室が静まり返る。
彼の銀色の瞳が真っ直ぐにアレンを捉えた。
授業中だというのに視線が執拗に絡みつく。
他の生徒には向けられない特別な熱を帯びている。
アレンは恥ずかしくて教科書に視線を落とした。
彼の視線を受け止めるだけで鼓動が早くなる。
「エルディス」
不意に名前を呼ばれてアレンは素早く立ち上がった。
「この古代呪文の構成要素を答えろ」
淡々とした口調だが声のトーンがどこか甘い。
アレンは黒板の図式を見て完璧に答えた。
「正解だ」
「よく予習ができているな」
彼は僅かに口角を上げて優しく微笑んだ。
その笑顔はアレンだけに向けられたものだ。
教室の空気が微かにどよめいた。
氷の教師が特定の生徒に微笑みかけたのだ。
アレンはうつむいて頬の熱を隠すしかなかった。
放課後になると彼はアレンを執務室へ呼んだ。
これまでは図書室の整理という名目があった。
今は茶を淹れたという理由だけで呼ばれる。
重い扉を開けると甘い香りが漂ってきた。
上質な紅茶と焼き菓子の匂いだった。
「遅かったな」
彼は革のソファに座ってアレンを待っていた。
アレンは少し緊張しながら彼の向かいに座る。
テーブルには蜂蜜を添えた紅茶が置かれていた。
「今日の授業はひどく難解だったはずだ」
「疲れた頭には甘いものが必要だ」
彼は銀の皿に乗った小さな菓子を手に取った。
それを直接アレンの口元へと運んでくる。
アレンはまばたきを忘れて固まった。
「口を開けろ」
有無を言わせぬ低い声だった。
アレンは言われるがままに小さく口を開いた。
甘い砂糖菓子の味が口いっぱいに広がる。
彼の指先がアレンの唇に僅かに触れた。
その接触だけでアレンの鼓動が跳ねる。
「美味しいか」
「はい」
「とても甘くて美味しいです」
アレンは視線をさまよわせながら咀嚼した。
ヴィルヘルムはとても満足そうに目を細める。
彼はアレンの反応を楽しんでいる。
かつての厳格な教師の面影はどこにもない。
ここにいるのは一人の独占欲の強いαだった。
「他の奴らに見せるな」
彼は突然低い声で威圧するように言った。
「え」
「その赤い顔は私だけのものだ」
「他の男の前でそんな顔をするのは絶対に許さん」
それは強烈な束縛の言葉だった。
アレンの心を縛り付けるような甘い重圧だ。
アレンは彼の深い瞳から目を逸らせなくなった。
逃げ出すことなど最初から不可能だったのだ。
彼の深い愛情に沈んでいく感覚があった。
息苦しいのにどこまでも心地よかった。
アレンは彼の甘い束縛に身を委ねていた。




