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βを演じる没落貴族の特待生ですが、次期公爵である氷の教師に運命の番として見出され、甘く激しく溺愛されています  作者: 小野林 千早


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第8話「手当ての温もりと明かされた庇護」

 嵐が過ぎ去ったあとのような深い静寂だった。


 夕日がステンドグラスを通して赤い光の斑点を落とす。


 アレンは大きく息を吐き出して石の壁に背中を預けた。


 張り詰めていた緊張の糸が切れて膝の力が抜けそうになる。


 魔力を急激に消費した反動も確かにあった。


 ヴィルヘルムが静かに歩み寄ってくる。


 彼はアレンの左手をそっと丁寧に取った。


 大きな彼の手がアレンの細い手首を包み込む。


「火傷をしている」


 指摘されて初めてアレンは微かな痛みを感じた。


「大した傷ではありません」


「後で氷で冷やせばすぐに治ります」


 強がって自分の手を引き抜こうとする。


 しかしヴィルヘルムはそれを許さなかった。


「大した傷かどうかは私が判断する」


「執務室へ来い」


 彼の声には有無を言わせぬ響きがあった。


 アレンは逆らうことを諦めて素直にうなずいた。


 二人は並んで夕暮れの回廊を歩く。


 ヴィルヘルムの足幅に合わせてアレンは歩く。


 彼の歩みはアレンを気遣っていつもより遅かった。


 執務室の重いマホガニーの扉が開かれる。


 中はいつも通り整然として静かだった。


 インクと古い紙の匂いがアレンの心を落ち着かせる。


 ヴィルヘルムはアレンを革張りのソファに座らせた。


 彼は奥の棚から救急用の木箱を取り出してくる。


 アレンの隣に腰を下ろして木箱の蓋を開けた。


 中には様々な薬品や白い包帯が整頓されている。


 彼は小さな軟膏の瓶を手に取った。


 アレンの左手を再び自分の膝の上に引き寄せる。


「少し沁みるかもしれない」


 彼が指先に透明な軟膏を取って傷口に塗る。


 ピリッとした痛みの後に心地よい清涼感が広がった。


 熱を持っていた皮膚が静かに冷やされていく。


 彼の手つきは信じられないほど優しかった。


 先ほどの回廊での冷酷な姿とはまるで別人だ。


 アレンはその美しい横顔をじっと見つめてしまった。


 長いまつ毛が銀色の瞳に影を落としている。


 真剣な表情でアレンの小さな傷の処置をしている。


 それがひどくくすぐったくて視線をさまよわせた。


「教師は」


「どうしてあそこにいらしたのですか」


 アレンは沈黙に耐えきれずに尋ねた。


 ヴィルヘルムは軟膏の瓶の蓋を静かに閉める。


 清潔なガーゼを傷口にそっと当てた。


「偶然ではない」


「君が図書室を出るのを見て後を追った」


 彼の正直な答えにアレンは目を瞬かせた。


「私を尾行していたのですか」


「なぜそんなことを」


 ヴィルヘルムは手当てを終えてアレンの手を離した。


 しかし視線はアレンの顔から外さない。


「最近の君に対する周囲の不穏な動きは察知していた」


「いずれ実力行使に出る輩が現れると思っていたからだ」


 アレンは小さく肩を跳ねさせた。


 彼は全てを知っていて陰で見守ってくれていたのだ。


「気にかけていただいてありがとうございます」


「でも私は一人で対処できました」


「教師の手を煩わせるようなことではありません」


 アレンは自立した特待生としてのプライドを見せた。


 ヴィルヘルムは静かに立ち上がって窓辺に向かう。


 夕日が彼の銀色の髪を燃えるようなオレンジに染める。


「君の魔術の能力は高く評価している」


「先ほどの見事な防御魔術も鮮やかな手際だった」


「だがそれは問題の本質ではないのだ」


 彼は窓の外の景色を見つめたまま言葉を紡いだ。


「君を激しく妬む輩はあいつらだけではない」


「上位貴族の派閥が裏で手を結び始めている」


「君の特待生の資格を不当に剥奪しようとする動きがある」


 アレンの呼吸が一瞬止まった。


 生徒同士の幼稚な嫌がらせレベルではない。


 学園の政治的な暗い思惑が絡み始めているのだ。


「私はどうすれば」


 アレンの声が微かに震えた。


 家のために学園を追い出されるわけにはいかない。


 Ωである秘密がばれなくても立場が危ういのだ。


 ヴィルヘルムは振り返ってアレンを見た。


「君は何も心配する必要はない」


「君はただ自分の学業に専念すればいい」


「障害は全て私が排除する」


 彼の言葉は淡々としていたが強烈な意志が宿っていた。


「排除するって」


「教師がいったい何をされるおつもりですか」


「彼らの親が属する派閥の不正の確たる証拠を握った」


 ヴィルヘルムは平然と恐ろしいことを言った。


「クレイグ家の力を使えば彼らを黙らせるなど造作もない」


「学園の理事会にもすでに厳重に手を回してある」


「君の地位を脅かす動きは明日にはすっかり消滅するだろう」


 アレンは言葉を返せなかった。


 彼はアレンの知らないところでそこまで動いていたのだ。


 一介の生徒のために公爵家の強大な権力を行使した。


 それは教師と生徒の枠を大きく逸脱している。


「どうして」


「どうしてそこまでしてくださるのですか」


 アレンの声は震えていた。


 ただの特待生に対する哀れみや同情では説明がつかない。


 ヴィルヘルムはゆっくりとアレンに歩み寄った。


 ソファに座るアレンの前に静かに片膝をつく。


 視線の高さがアレンと全く同じになった。


 銀色の瞳がアレンの瞳を真っ直ぐに見据える。


「まだわからないのか」


 低い声が耳の奥に響いた。


「私は君の全てを守りたいと心から思っている」


「学園の教師としての義務からではない」


「一人の男としての嘘偽りのない確かな意志だ」


 アレンの指先がかすかに震えた。


 ずっと一人で孤独に戦ってきた。


 誰にも心を許さず弱みを見せないように必死に生きてきた。


 しかし彼はアレンの防御を全て剥ぎ取ってしまった。


 彼の庇護の下にあることがこんなにも温かい。


 もう彼なしの冷たい世界には決して戻れない。


 アレンの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 今回は我慢することがどうしてもできなかった。


 次々と涙が頬を伝って膝の上に落ちる。


 ヴィルヘルムは両手でアレンの濡れた頬を包み込んだ。


 親指で優しく何度も涙を拭ってくれる。


「泣くことは決して弱さではない」


「私の前ではいくらでも泣いていい」


 その言葉でアレンはこらえきれなくなった。


 アレンは彼の手のひらに自分の顔をすり寄せた。


 声を上げて小さな子供のように泣きじゃくる。


 これまでの張り詰めていた苦しみが涙となって流れ出る。


 彼に守られているという確固たる安心感があった。


 ヴィルヘルムはアレンが泣き止むまで黙って抱きしめてくれた。


 大きく温かい胸に顔を埋めると彼の気配に包まれる。


 二人の間にあった立場の壁はもはや意味を成さない。


 そこには深い信頼と分かち難い確かな絆だけが存在していた。

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