第7話「敵意の炎と氷点下の威圧」
秋の深まりが学園を包み込んでいた。
色づいた木の葉が乾いた風に舞う。
石畳の上に枯葉が擦れる音が響いた。
冷たい風が吹き抜ける季節になっていた。
アレンの成績は学年で単独首位に躍り出る。
特待生がトップに立つのは学園史上でも稀だ。
教師たちは彼の努力と才能を手放しで称賛した。
しかし生徒たちの反応は全く違っていた。
貴族階級特有の歪んだプライドがそれを許さない。
没落貴族の彼を見下すことで保っていた自尊心だ。
それが無惨にも足元から打ち砕かれた。
彼らの心に渦巻く嫉妬は次第に露骨になっていく。
すれ違いざまの舌打ちや冷笑は日常茶飯事だ。
聞こえよがしな悪口も頻繁に耳に入るようになった。
アレンはそんなものを一切意に介さない。
他人の低い評価など彼にはどうでもいいことだ。
ヴィルヘルムの期待に応えることだけが重要だった。
その日の午後も彼は図書室で自習を終えたばかりだ。
手には彼から特別に借りた貴重な魔導書がある。
分厚い革張りの表紙を大切に胸に抱えていた。
誰も通らない裏の古い渡り廊下を選んで歩く。
西日が長く伸びて石の床に影を落としている。
静かに誰とも会わずに寮へ戻りたかったからだ。
しかしその考えは少し甘かったようだ。
廊下の角を曲がった先でアレンの足が止まった。
五人の男子生徒が道を塞いでいる。
いずれも高位貴族の出身者たちばかりだ。
仕立ての良い制服の着こなしに傲慢さがにじみ出ている。
先頭に立つのは見覚えのある伯爵家の長男だった。
彼は薄ら笑いを浮かべてアレンをねめつける。
「随分と調子に乗っているようだな」
「卑しい没落貴族の分際でトップとは笑わせる」
耳障りな高い声が静かな回廊に不快に反響した。
アレンは歩みを止めたが表情は全く変えない。
彼らの安い挑発に乗るつもりは毛頭ない。
「道を空けてください」
「私は寮へ戻る途中です」
淡々とした声で事実だけを告げた。
それが彼らの神経をさらに逆撫でしたらしい。
伯爵家の長男が顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「そのふざけた態度が気に入らないと言っているんだ」
「教師に媚びを売って点数を稼いでいるくせに」
「裏でどんな汚い手を使っているかわかったものじゃない」
全く根拠のない卑劣な言いがかりだった。
アレンの血のにじむような努力を根底から否定する言葉だ。
以前の孤独なアレンなら黙って耐えていただろう。
波風を立てずにやり過ごすのが一番安全だからだ。
しかし今の彼は以前の彼とは違う。
自分を正当に評価してくれた彼の目を信じている。
ヴィルヘルムの指導を侮辱されるのは我慢ならない。
「私の点数は正当な評価の結果に過ぎません」
「不満があるならご自身の努力で覆してください」
「他人の足を引っ張る暇があるのならですが」
アレンの冷ややかな視線が彼らを鋭く射抜いた。
正論は研ぎ澄まされた刃よりも相手を深く切り裂く。
伯爵家の長男は屈辱に顔を醜く歪ませた。
「生意気な口を叩くな」
彼はアレンが胸に抱える魔導書に乱暴に手を伸ばした。
力任せに奪い取ろうとする卑劣な動きだった。
アレンは素早く身を翻してその手を避ける。
彼から借りた大切な本を汚されるわけにはいかない。
「触らないでください」
アレンの低い声には明確な怒りがこもっていた。
空振りに終わった相手は顔を真っ赤にして逆上する。
「偉そうに」
「その本ごと燃やしてやる」
彼の右手に魔法陣が浮かび赤い炎が灯った。
学園内での生徒同士の私闘は厳しく禁じられている。
ましてや魔術による直接攻撃など言語道断の行為だ。
しかし彼は怒りで正常な判断力を失っていた。
燃え盛る炎の球がアレンの胸めがけて放たれる。
熱風が廊下の冷たい空気を一瞬で焦がす。
アレンは慌てることなく空いた左手を前にかざした。
呪文の詠唱すら必要としない無詠唱の防御魔術だ。
分厚い氷の盾が虚空に瞬時に展開される。
炎と氷が激突して白い蒸気がけたたましく弾け飛ぶ。
焦げたオゾンの匂いが回廊に立ち込めた。
炎は氷の壁に阻まれて煙となり消滅する。
アレンは制服の裾一つ焦がさずに静かに立っている。
「なっ」
伯爵家の長男が信じられないという顔で後ずさった。
無詠唱で炎を防ぐなど並の生徒には不可能だ。
魔力の制御力と格の違いをまざまざと見せつけられる。
「学園の規則を忘れたのですか」
「これ以上の狼藉は教員に報告しますよ」
アレンは静かにしかし強い口調で警告した。
しかし彼らの心には恐怖よりも自尊心の傷が上回る。
見下していた相手に手も足も出ないことが許せないのだ。
背後にいた他の四人の生徒たちも一斉に魔力を練り始めた。
廊下の空気が複数の魔力によってビリビリと震える。
五対一という極めて不利な状況に陥った。
アレンは魔導書を背中に庇いながら戦闘態勢をとる。
複数の攻撃魔法を同時に防ぎ切るのは至難の業だ。
多少の怪我は免れないだろうと覚悟を決めた。
そのときだった。
回廊の空気が突然重く沈み込んだ。
目に見えない圧力が空間全体を押し潰す。
呼吸の仕方すら忘れるほどの重圧だった。
怒り狂っていた五人の動きが不自然にピタリと止まる。
彼らの顔がみるみる青ざめていくのが見えた。
魔法を維持することすらできずに手元の光が消え去る。
背後の角から静かで規則正しい足音が近づいてきた。
硬い靴音が一つ響くたびに空間の重圧が増していく。
ヴィルヘルム・クレイグが長い影を落として姿を現した。
彼の銀色の瞳は冷え切っていた。
一切の感情を排した無機質で恐ろしい眼差しだ。
それがかえって底知れぬ恐怖を周囲に煽り立てる。
「何をしている」
ひどく静かな声だった。
しかしその声には抗いがたい支配力が宿っていた。
五人の生徒たちは次々と膝から崩れ落ちる。
強大なαの放つ本能的な威圧に耐えられないのだ。
彼らはガタガタと震えながら冷たい床に這いつくばる。
伯爵家の長男すら顔を上げることもできずに怯えている。
ヴィルヘルムは彼らを一瞥すらしなかった。
無機質なものを見るような極めて冷淡な態度だった。
彼の視線は真っ直ぐにアレンへと向けられていた。
アレンもまたその重圧に肩を強張らせて立ち尽くしていた。
彼が放つ覇気は静かな怒りに満ちている。
しかしアレンに向けられたものではないと直感でわかる。
アレンを守るための鋭く巨大な刃なのだ。
ヴィルヘルムはゆっくりと生徒たちの間を通り抜けた。
誰も彼に触れることすら許されない空気があった。
彼はアレンの目の前で静かに立ち止まる。
足元で震える生徒たちには目もくれない。
「怪我はないか」
先ほどの冷酷な声とは打って変わった静かな響きだ。
アレンは小さくうなずいた。
「はい」
「問題ありません」
声が微かに震えてしまったのは隠せなかった。
戦闘の恐怖からではない。
彼の並外れた存在感に心が激しく揺さぶられたからだ。
ヴィルヘルムはアレンを上から下まで念入りに観察した。
そしてアレンの左手に視線を止める。
炎を防いだときに生じた微かな火傷の跡があった。
氷の盾越しに熱線を浴びたのだ。
皮膚がわずかに赤く腫れ上がっている。
アレン自身も気づいていなかった小さな傷だった。
ヴィルヘルムの目がスッと細められる。
周囲の温度がさらに数度下がったように感じられた。
彼は再び床に這う生徒たちを冷たく見下ろした。
「学園内で魔術による私闘」
「あまつさえ特待生への一方的な攻撃」
「言い逃れはできないぞ」
氷の刃のような冷酷な宣告だった。
伯爵家の長男が必死に命乞いのような弁解を試みる。
「ちがいます」
「彼が先に挑発を」
「黙れ」
ヴィルヘルムの冷酷な声が回廊に響く。
その一言が周囲の全ての音を消し去った。
「貴様らの処分は追って沙汰を下す」
「今は私の視界から消えろ」
その言葉の重みに逆らえる者などいない。
五人の生徒たちは這うようにして回廊から逃げ去った。
無様な背中があっという間に見えなくなる。
後に残されたのはアレンとヴィルヘルムの二人だけだった。
静寂が再び秋の回廊に舞い戻ってきた。




