第6話「陽だまりの休息と見透かされた心」
数日の穏やかな時間が経過する。
新しい薬の効果はアレンの日常を劇的に変える。
副作用の痛みから解放された身体は羽のように軽い。
授業での集中力も以前の比ではないほど高まる。
複雑な魔術理論も難なく理解できるようになった。
教師たちからの評価も日に日にうなぎ登りだ。
アレンはさらに自分自身を限界まで追い込むようになる。
ヴィルヘルムの多大な恩に少しでも報いるためだった。
特待生としての雑務も進んで次々と引き受ける。
図書室の膨大な蔵書の整理だけではない。
実技棟の重い機材の手入れも一人で完璧にこなした。
誰よりも働き誰よりも熱心に学ぶ。
しかしそれは新たな身体の無理を生み出していた。
精神的な余裕は肉体の疲労を見事に隠してしまう。
アレン自身はその深刻な事実に全く気づいていなかった。
実技の授業は屋外の広い訓練場で行われる。
土煙が舞う厳しい環境での実践的な魔法演習だ。
特待生のアレンには常に高いハードルが課せられる。
貴族の生徒たちはいつも冷ややかな視線を向けている。
少しでも失敗すれば容赦ない嘲笑が浴びせられる。
以前のアレンなら無難な基礎魔法でやり過ごしていただろう。
しかし今の彼は全く違う。
見学席の最前列にヴィルヘルムの姿があったのだ。
自分の成長と実力をはっきりと見せたかった。
深く深呼吸をして体内の魔力を練り上げる。
指先から青白い光の粒子が勢いよくあふれ出す。
高度な炎と風の複合魔法を素早く展開する。
巨大な火球が遠くの的を正確無比に射抜く。
凄まじい衝撃波が周囲の空気を激しく震わせた。
完璧な制御と並外れた威力の見事な両立だ。
貴族の生徒たちが一斉に驚愕の声を上げる。
誰もアレンを笑うことなどできない。
肩で息をしながらヴィルヘルムの顔を見る。
腕を組んだまま静かに小さくうなずいてくれた。
そのわずかな反応だけで心が満たされる。
もっとできる。
もっと認めてもらいたい。
次々と難易度の高い大魔術を披露する。
魔力の消費は激しく肉体を確実に蝕んでいく。
それでも術の展開を決して止めない。
限界を超えて身体の奥底から魔力を絞り出す。
最後の的を破壊した時視界が大きく歪む。
魔力欠乏によるひどく強いめまいだった。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
演習の終了を告げる鐘が鳴り響く。
誰にも気づかれないように訓練場を後にした。
その日の午後のことだった。
空には雲一つない快晴がどこまでも広がる。
初夏を思わせる強い陽射しが容赦なく降り注ぐ。
地面からは陽炎が揺らめいて高く立ち昇っている。
アレンは分厚い資料の束を両腕に抱えて中庭を歩く。
年老いた教授から頼まれた過去の研究記録だ。
腕の筋肉が限界を訴えて悲鳴を上げている。
額から流れる汗が目に入って視界を白くにじませた。
息が上がり足取りが鉛のように重くなる。
さすがに働きすぎたと少しだけ後悔する。
目的の資料室まではまだかなり距離がある。
途中でどこか日陰に入って休む必要があった。
方向を変えて人気のない旧校舎へ向かう。
そこなら生徒の姿もなく静かに休めるはずだ。
旧校舎の裏手には大きな古い樫の木がある。
青々とした葉が豊かな暗い日陰を作っている。
木陰にある古い石のベンチを目指した。
資料の束をベンチの端に崩れないように慎重に置く。
自分もその隣にどっと重い腰を下ろす。
荒い息を吐き出して空を仰ぐように目を閉じた。
木陰は驚くほど涼しくてひどく心地よい。
葉擦れの音が静かな音楽のようにかすかに聞こえる。
張り詰めていた筋肉が少しずつ解れていく。
「また無茶をしているな」
頭上から不意に低い声が降ってくる。
驚いて勢いよく目を開ける。
太陽の光を背にして立つ高い影が目の前にあった。
逆光で顔は見えないがすぐに誰か察しがつく。
ヴィルヘルム・クレイグだった。
いつも予期せぬ時に突然現れる。
慌ててベンチから立ち上がろうとする。
しかし疲労した足がもつれて前へよろめいた。
ヴィルヘルムの腕がすかさず身体を支える。
強い力で引き寄せられ硬い胸にぶつかる。
「動くな」
「そのままそこで休んでいろ」
肩を軽く押して再びベンチに座らせた。
自分もそのすぐ隣に静かに腰を下ろす。
ベンチが体重で微かに軋む音を立てる。
二人の距離が再びゼロに近くなる。
特有の香りが全身を優しく包み込んだ。
「なぜここにいるのですか」
アレンは乱れた息を整えながら尋ねる。
「君を探していた」
ヴィルヘルムは短い言葉で端的に答えた。
「私をですか」
「何か御用でしょうか」
ベンチの上の重そうな資料の束に視線を向ける。
「その資料は別の生徒に運ばせる手はずだったはずだ」
「なぜ特待生の君がやっている」
咎めるような厳しい響きが声に混じっている。
アレンは視線を逸らして小さな声で答えた。
「私がやると自分から申し出ました」
「少しでも学園のお役に立ちたくて」
ヴィルヘルムはひどく深いため息を吐く。
「君は本当に不器用すぎる」
「私に恩を返すために自分をすり減らしているのだろう」
図星を突かれてアレンは息を呑む。
彼の前では本当に何の嘘も隠し事もできない。
全ての思考を見透かされてしまう。
「私は」
「教師のご期待に少しでも応えたいのです」
「薬までいただいて何もしないわけにはいきません」
アレンは必死に自分の行動の正当性を訴える。
ヴィルヘルムはアレンの方へ身体を真っ直ぐに向ける。
真剣な銀色の瞳が目を射抜く。
「私は君にそんな自己犠牲を望んではいない」
「君が毎日健やかに学園生活を送ること」
「それだけが私の唯一の望みだ」
言葉は胸の奥に真っ直ぐに突き刺さる。
見返りなど最初から求めていなかったのだ。
深い愛情が内側に存在している。
アレンは自分の愚かさを心底恥じる。
恩返しという名目で心配をかけているだけだ。
「申し訳ありません」
深く反省して頭を下げる。
ヴィルヘルムは熱い頬にそっと手を添える。
手のひらは少しだけひんやりとしていた。
熱を持った頬にとても心地よく馴染む。
「謝る必要はどこにもない」
「だがこれからは自分の体力の限界を知れ」
「頼れる時は私を頼れと教えたはずだ」
アレンは手に自分の顔をゆっくりと押し付ける。
安心する匂いを胸の奥まで深く吸い込む。
もうこれ以上強がる必要はないのだと心から思える。
隣にいる時だけは重い鎧を脱いでもいい。
「はい」
「これからは十分に気をつけます」
素直な返事にヴィルヘルムはとても満足そうにうなずく。
ベンチの上の重い資料を持ち上げた。
分厚い束を片手で軽々と抱えてみせる。
「これは私が資料室へ運んでおく」
「君はここで体力が完全に回復するまで休んでいろ」
アレンは慌てて彼を止めようと手を伸ばす。
「そんな」
「教師に運ばせるわけには絶対にいきません」
ヴィルヘルムは強い視線で制する。
「これは教師としての命令だ」
「それとも私に本気で逆らう気か」
少しだけ意地悪な響きを含んだ魅力的な声だ。
アレンはもう何も反論できずに黙り込む。
どんな理屈でも絶対に敵わない。
「わかりました」
「お言葉に甘えさせていただきます」
アレンがそう言うとかすかに微笑んだように見えた。
ただの気のせいかもしれない。
しかし胸は確かに大きく高鳴る。
ヴィルヘルムは資料を抱えてゆっくりと歩き出す。
木陰から眩しい午後の陽射しの中へと出て行く。
アレンはその広くて頼もしい背中をいつまでも見送る。
存在が日増しに大きく膨らんでいく。
教師と生徒という分厚い壁が少しずつ溶けていく感覚。
それはとても甘美で同時に恐ろしい変化だった。
アレンは石のベンチに背中を預ける。
頭上の葉擦れの音が静かに聞こえる。
心地よい疲労感の中でゆっくりと目を閉じる。
手の冷たい感触がまだ頬に残っている。
この陽だまりのような温もりを永遠に手放したくない。
心に生まれた感情をはっきりと自覚する。
自分はヴィルヘルム・クレイグに惹かれている。
Ωとしての抗えない本能からではない。
アレン・エルディスという一人の人間としての確かな思いだった。




