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βを演じる没落貴族の特待生ですが、次期公爵である氷の教師に運命の番として見出され、甘く激しく溺愛されています  作者: 小野林 千早


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第5話「秘密の共有と冷めない微熱」

 沈み込むような柔らかい感触がある。


 背中を包んでいるのは上質な絹のシーツだ。


 アレンはゆっくりと重いまぶたを開ける。


 見慣れない高い天井が真っ先に目に入る。


 精緻な彫刻が施された見事な梁だ。


 ここは隙間風の吹く自分の寮の部屋ではない。


 暖炉の火が静かに燃える温かい空間だ。


 乾燥した薬草の匂いが微かに漂う。


 そして別の香りが色濃く混じっている。


 肌を刺すような夜の冷気を思わせる鋭い匂いだ。


 ヴィルヘルムの特有の香りである。


 脳裏に旧校舎での記憶が鮮明に蘇る。


 薬が効かずに甘いフェロモンを撒き散らした。


 そして腕の中で意識を手放したのだ。


 絶望的な事実が心臓を冷たく強く掴む。


 Ωとしての秘密は全て知られてしまった。


 自分はもうこの学園にはいられない。


 退学処分は絶対に免れないだろう。


 家名に泥を塗り一族を失望させてしまう。


 アレンは跳ね起きようとして激しく顔をしかめる。


 身体の節々が鉛を詰めたように重い。


 筋肉が疲労しきって全く言うことを聞かない。


「まだ寝ていろ」


 部屋の隅から低い声が静かに響く。


 アレンはびくりと肩を大きく震わせた。


 窓際に置かれた深い一人掛けの椅子がある。


 ヴィルヘルムがそこに腰掛けている。


 手には分厚い書類の束を持っている。


 視線を書類からアレンの顔へ移した。


 銀色の瞳が静かにアレンを捉える。


 怒りや軽蔑の色は一切浮かんでいない。


 ただ湖面のように静かで凪いだ瞳だ。


 ヴィルヘルムは書類をテーブルに置く。


 ゆっくりとした足取りでベッドへ近づいてくる。


 アレンは恐怖でシーツの端をきつく握りしめる。


 大きな影がアレンの身体を覆い隠す。


「気分はどうだ」


 淡々と事実だけを確かめる問いかけだ。


 アレンはひどく乾いた唇を微かに動かす。


「なぜ」


「どうして私をここに運んだのですか」


 声はかすれてみっともなく震える。


 ヴィルヘルムはベッドの脇で立ち止まる。


 サイドテーブルからガラスの杯を取り上げる。


 透明な水が波打って光を美しく反射した。


「飲め」


「ひどく喉が渇いているはずだ」


 杯をアレンの口元にそっと近づける。


 アレンは戸惑いながらも上体を起こす。


 手に添えられるようにして冷たい水を飲んだ。


 干からびた喉を水が優しく潤していく。


 生命の危機から遠ざかる確かな安堵感がある。


 飲み終えるとヴィルヘルムは杯をテーブルに戻す。


「ここは私の私室だ」


「誰にも見られていない」


「安心しろ」


 その言葉の真意をアレンは必死に探る。


 誰にも見られていない。


 つまりまだ他の教師には報告されていないのだ。


「教師は」


「私を退学にするおつもりですか」


 アレンは怯える声で核心を突く質問をする。


 ヴィルヘルムは小さくため息を吐き出す。


 少しだけ呆れたような響きが混じっていた。


「私がいつそんなことを言った」


「君を学園から追い出す理由がどこにある」


 アレンは信じられない思いで顔を見上げる。


「私はΩです」


「身分を偽って特待生として入学しました」


「それは重大な学園の規則違反です」


 自らの罪をわざわざ並べ立ててしまう。


 隠し通せないのならいっそ早く罰してほしかった。


 優しくされてから突き落とされるのは耐えられない。


 ヴィルヘルムはアレンの目を真っ直ぐに見つめ返す。


「君の第二の性など私には全く関係ない」


「君は誰よりも優秀な特待生だ」


「それだけで学園に在籍する資格は十分にある」


 言葉には微塵の揺らぎも存在しない。


 アレンの胸の奥で分厚い壁が大きく崩れ落ちる。


 張り詰めていた緊張の糸が限界を迎えて切れたのだ。


「でも」


「私はもう市販の抑制剤が効きません」


「このままではまた発情してしまいます」


 アレンは自分自身の両腕を強く抱きしめる。


 抗体ができてしまった残酷な事実は変えられない。


 本能を抑えられなければまともに生きていけない。


 ヴィルヘルムは懐から小さな小箱を取り出す。


 黒いビロードで美しく覆われた箱だ。


 それをアレンの膝の上に静かに置く。


「開けてみろ」


 アレンは震える指先で箱の蓋を開ける。


 中には銀色の小さな錠剤が規則正しく並んでいる。


 見たこともないほど高価で洗練された薬だ。


「それはクレイグ家が独自に開発した新薬だ」


「君が飲んでいた粗悪な品とは全く違う」


「副作用も抗体ができる心配もない」


 アレンは驚愕してヴィルヘルムの顔を見上げる。


「こんなに高価なもの」


「私には絶対に受け取れません」


「代金を支払うことなど不可能です」


 没落貴族に払える金額ではないはずだ。


 ヴィルヘルムはアレンの頭に大きな手を乗せる。


 手のひらが優しく髪を何度かなでる。


「代金など求めてはいない」


「これは私から君への個人的な投資だ」


「君の将来に対する先行投資だと思え」


 温かい体温が髪越しにじんわりと伝わってくる。


 その不器用で深い優しさがひどく痛い。


 アレンの視界が不意に水面のようにぼやける。


 ずっと一人で孤独に戦ってきた。


 誰にも頼らずに生きていくと固く決めていた。


 しかしヴィルヘルムは強固な盾になろうとしている。


 アレンは唇から血がにじむほど強く噛み締める。


 涙をこぼすまいと必死に奥歯を噛んで堪える。


 しかし一滴の涙が抗えずに頬を伝って落ちた。


 純白のシーツに小さな暗い染みを作る。


 ヴィルヘルムの指が濡れた頬に触れる。


 長い指先が優しくその涙を拭い取っていく。


「泣くな」


「君は強くなるためにここへ来たのだろう」


「私はその手助けを少しするだけだ」


 アレンは声を出せずにただ小さくうなずく。


 言葉にする代わりに手に頭をすり寄せる。


 それはΩとしての本能からの服従ではない。


 アレン自身の心からの深い信頼の証だった。


 ヴィルヘルムの厳しい目がわずかに和らぐ。


「今日はここでゆっくりと休め」


「明日の朝には寮へ戻る体力が回復するだろう」


 アレンは優しい言葉に素直に甘えることにする。


 もう逆らって強がる気力は残っていない。


 温かいシーツに再び重い身体を沈める。


 香りが染み付いたベッドはひどく心地よい。


 恐怖と痛みに支配されていた今朝が嘘のようだ。


 安心して静かに目を閉じる。


 気配をすぐそばに感じながら深い眠りに落ちた。


 数時間が経過して再び目を覚ます。


 部屋の窓から夕暮れの赤い光が差し込んでいる。


 ヴィルヘルムはまだ同じ椅子に座っていた。


 静かにページをめくって本を読んでいる。


 アレンは身体の重さが完全に消えていることに気づく。


 気管を焼くようなあの不快な熱が嘘のように引いている。


 頭の中にかかっていた分厚い靄もすっかり晴れていた。


 新しい薬の効果は想像を絶するものだ。


 ベッドの上に素早く身体を起こす。


「起きたか」


 ヴィルヘルムが本を閉じて静かに声をかける。


「はい」


「とても身体が軽くなりました」


 信じられない思いで自分の両手を見る。


 指先の震えも胃の痛みも全くない。


 何年ぶりかの本当に健やかな感覚だった。


「その薬は一日に一錠で十分に効く」


「誰にも見つからないように厳重に管理しろ」


 忠告にアレンは深くうなずく。


「本当にありがとうございます」


「この御恩は一生涯忘れることはありません」


 まっすぐな言葉にヴィルヘルムは少しだけ目を伏せる。


「大げさだ」


「私は学園の教師としての務めを果たしたまでだ」


 照れ隠しのような響きが微かに言葉の端にある。


 アレンの表情が自然と和らぐ。


 厳格で恐ろしいだけの冷酷な存在ではない。


 不器用で誰よりも深い愛情を内に秘めている。


 シーツを整えてベッドから床へ降りる。


 足元はしっかりと木の床を捉えることができた。


「もう寮へ自力で戻れそうです」


「長居してしまい大変申し訳ありませんでした」


 深いお辞儀をして部屋の扉へ向かう。


 ヴィルヘルムがその後ろ姿を低い声で呼び止める。


「エルディス」


 驚いて振り返る。


「何か困ったことがあればいつでもここへ来い」


「一人で全てを抱え込むことは絶対に許さん」


 それは強い命令の形をとった最大の庇護だ。


 アレンは小さく微笑む。


 初めて見せる繕わない自然な笑顔だった。


「はい」


「ヴィルヘルム教師」


 部屋を後にして静かな回廊を歩き出す。


 夕日の赤い光が背中を優しく押してくれる。


 世界が昨日とは全く違って鮮やかに見えた。


 存在が暗い人生に確かな光を灯したのだ。


 胸の奥で育ち始めたこの感情に名前をつけるのは早い。


 今はただこの温もりを大切に抱きしめていたかった。


 寮への道のりは驚くほど短く感じられる。


 冷たい風が頬を撫でても少しも寒くはない。


 身体の内側から確かな熱が全身を巡っているからだ。


 寮の部屋に戻るといつもの静寂が迎えてくれる。


 しかし昨夜までの孤独で冷たい闇とは違う。


 ポケットの中には渡された小さな箱がある。


 それが強力なお守りのように守ってくれていた。


 アレンは机の上に小箱をそっと大切に置く。


 銀色の錠剤が窓からの月の光を反射して輝く。


 それは新しい命綱であり希望だった。


 固い木の椅子に座って深く息を吐く。


 ヴィルヘルムの顔が何度も脳裏に鮮明に浮かぶ。


 涙を拭ってくれたあの長い指の優しい感触。


 髪をなでてくれた温かくて大きな手のひら。


 思い出すだけで自然と顔が熱くなる。


 これは単なる教師への感謝の念ではない。


 もっと深くて抗いがたい感情の奔流だ。


 ふさわしい人間になりたいと強く心から願う。


 庇護に甘えて守られるだけでは駄目だ。


 特待生として誰よりも優秀な成績を収める。


 それが唯一の確かな恩返しになるはずだ。


 アレンは分厚い教科書を開いて机に向かう。


 これまでにないほど文字が頭にすんなりと入る。


 不安と恐怖が消えた心は驚くほどに澄み切っていた。


 夜が更けるまでひたすら勉強に没頭する。


 銀色の瞳に常に見守られているような気がした。

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