第4話「綻びと抗えない熱」
深い闇の中から意識が戻る。
全身が泥に沈んだようにひどく重い。
アレンは重いまぶたをゆっくりと開ける。
天井の木目がぼんやりと見える。
全身に寝汗をかいている。
薄い寝間着が肌にまとわりつく。
呼吸が浅く乱れる。
胸の奥で何かがくすぶっている。
内臓を鈍く焼くような奇妙な熱だ。
いつもの副作用の痛みとは種類が違う。
もっと粘り気のある甘い熱だ。
アレンは嫌な予感に飛び起きる。
視界が大きく揺らぐ。
壁に手をついて必死に身体を支える。
震える手で薬瓶を手に取る。
残りの液体はもうわずかだった。
濁った薬を喉の奥に流し込む。
舌を刺すような強い苦味が広がる。
いつもならここで熱が引いていく。
氷水を浴びたように痛みが消えるはずだ。
しかし今日は全く違う。
薬が熱に飲み込まれていく感覚がある。
熱の勢いは一向に衰えない。
身体が薬に抗体を持ち始めている。
長年の服用が限界に達しつつあった。
アレンは絶望的な事実を悟る。
呼吸を整えようと深く息を吸う。
肺に入る空気すら熱を帯びている。
ふらつく足で洗面台へ向かう。
冷たい水を張って顔を沈めた。
凍てつくような冷たさが肌を刺す。
顔を上げて鏡の中の自分を見る。
水滴が頬を伝って落ちていく。
青白かったはずの頬が紅潮している。
瞳は熱を帯びて潤んでいた。
発情の兆候が現れ始めている。
Ωとしての本能が目覚めようとしていた。
ここで休むわけにはいかない。
特待生が授業を休めばすぐに目をつけられる。
濡れた顔をタオルで乱暴に拭く。
シワのない制服に着替える。
震える両手を強く握りしめて気合いを入れた。
鉄の仮面を被り直して部屋を出る。
食堂には向かわない。
食べ物の匂いを嗅げば吐き気がしそうだった。
そのまま教室へと急ぐ。
廊下を歩く生徒たちの声が鼓膜を打つ。
普段より全ての音が大きく聞こえる。
感覚が過敏になっている証拠だ。
教室に入り自分の席に座る。
窓から差し込む朝日がひどく眩しい。
目を細めて光を避ける。
授業が始まっても内容は頭に入らない。
黒板の文字が歪んで見える。
机の端を強く掴んで身体を支える。
意識が遠のきそうになるのを必死に堪えた。
時折甘い香りが鼻を掠める。
誰かが香水をつけているのかと思った。
しかし違う。
香りの源は自分自身だった。
花の蜜を煮詰めたような濃厚な香りだ。
Ω特有の甘いフェロモンが漏れ出している。
アレンの背筋に冷たい汗が流れる。
薬で抑えきれなくなっているのだ。
周囲の生徒を盗み見る。
皆は授業に集中しているようだ。
まだ誰にも気づかれていない。
しかし嗅覚の鋭いαが近くにいれば終わりだ。
冷や汗を拭いながら時計を見る。
授業の終わりまであと少しだった。
鐘が鳴った瞬間だった。
誰よりも早く席を立つ。
鞄を掴んで教室を飛び出す。
どこか人がいない場所へ逃げたかった。
息を潜めてこの熱をやり過ごさなければならない。
誰も使っていない旧校舎へと向かう。
足元がおぼつかなくて何度も壁にぶつかった。
石の壁の冷たさだけが唯一の救いだ。
旧校舎の廊下は薄暗い。
埃の匂いが充満している。
人気のない空き教室に逃げ込む。
扉を閉めて床に崩れ落ちた。
荒い息が止まらない。
胸の奥から湧き上がる熱が全身を支配する。
身体の奥底から甘い疼きが押し寄せる。
誰かに触れてほしいという抗えない衝動だ。
アレンは自分の腕を強く抱きしめる。
爪が皮膚に食い込むほど力を込めた。
痛みで本能を抑え込もうとする。
「こんなところで終わるわけにはいかない」
かすれた声で自分に言い聞かせる。
しかし香りはどんどん強くなる。
教室中が甘い匂いで満たされていく。
誰かがここを通れば確実に見つかる。
恐怖で視界が涙でにじむ。
廊下から足音が聞こえる。
誰かがこの教室に近づいてくる。
アレンは息を止めて扉を見つめる。
足音は扉の前でピタリと止まった。
ゆっくりと真鍮のドアノブが回る。
錆びた音を立てて扉が開かれる。
廊下の光が暗い教室に差し込む。
逆光の中に長身の男が立っている。
深い夜色の外套だ。
冷たい銀色の髪。
ヴィルヘルムだった。
アレンの心臓が凍りつく。
なぜここにいるのか。
一番見つかりたくない相手だった。
ヴィルヘルムは教室の中を見渡す。
床にうずくまるアレンを見つける。
表情がわずかに険しくなる。
「エルディス」
低い声が教室に響く。
ゆっくりとアレンに近づいてくる。
アレンは後ずさりしようとする。
しかし壁に背中が当たって逃げ場がない。
ヴィルヘルムは目の前にしゃがみ込む。
鋭い嗅覚が甘い香りを捉えたはずだ。
秘密は完全に暴かれた。
「来ないでください」
アレンは両手で顔を覆う。
拒絶と絶望の叫びだった。
ヴィルヘルムはそれ以上近づかない。
しかし去ることもない。
「君の香りが廊下まで漏れていた」
冷静な状況報告だった。
嫌悪するような響きはない。
「ここは旧校舎だ」
「他の生徒はめったに来ない」
「だが安全とは言えない」
震える肩を見つめる。
「立てるか」
問いかけの言葉だ。
アレンは首を横に振る。
足に力が入らないのだ。
ヴィルヘルムは短く息を吐く。
アレンの身体を抱き上げる。
軽々と持ち上げられる。
アレンは驚いて抗議しようとする。
「やめてください」
「下ろしてください」
しかしヴィルヘルムの腕は強固だった。
「暴れるな」
「私の執務室へ運ぶ」
「そこなら誰にも見つからない」
声には絶対的な安心感がある。
アレンはヴィルヘルムを見上げる。
銀色の瞳には理性の光が灯っている。
目の前に発情したΩがいるのに。
微塵も本能に振り回されていない。
並外れた自制心を持つαだ。
アレンは抗うのをやめる。
温かい胸に顔を埋める。
特有の夜の香りがアレンを包み込む。
その香りに本能が安堵した。
張り詰めていた糸がふつりと切れる。
アレンはヴィルヘルムの腕の中で意識を手放す。




