第3話「図書室の灯りと触れ合う指先」
古い柱時計が夜の時刻を刻む。
真鍮の振り子が鈍い光を放つ。
規則正しい音が空間を満たした。
図書室は深い静寂に沈んでいる。
高い天井には暗い影が巣食う。
魔力で灯るランプが周囲を照らす。
青白い光が床に円を描いた。
アレンは古い木製の脚立に登っている。
一番上の段に慎重に足を乗せる。
ぐらつく足場に体重を預けた。
手には古い羊皮紙の巻物がある。
長い歴史の埃を吸い込んだ古文書だ。
表面は乾燥してひび割れていた。
アレンは息を詰めて巻物を扱う。
貴重な資料を傷つけるわけにはいかない。
特待生としての立場に関わるからだ。
埃が光の帯の中で舞い踊る。
喉の奥が微かに乾燥した。
小さく乾いた咳をする。
薬の副作用は今日は比較的軽い。
胃袋に鈍い痺れが残る程度だった。
これなら夜の作業も乗り切れる。
小さく息を吐き出す。
作業は順調に進む。
指定された棚の隙間を次々と埋めていく。
背後に微かな気配を感じた。
振り返らなくても誰か察しがつく。
肌を刺すような夜の静寂が匂いとなって届く。
ヴィルヘルムがそこにいる。
巨大な樫の机に向かっている。
分厚い革張りの魔導書を開いていた。
羽ペンが羊皮紙を擦る音が響く。
迷いのない滑らかな動きだ。
文字を書き連ねる音が心地よい。
アレンは横顔を盗み見る。
ランプの光が銀色の髪を照らす。
大理石の彫刻のように美しい造作だ。
真剣な眼差しは底冷えするほど冷ややかだ。
しかし不思議と怖くはない。
昼間に見せる威圧感は鳴りを潜めている。
今はただ静かな夜の空気があった。
二人の間に言葉のやり取りはない。
それでも空間の居心地は悪くない。
むしろ奇妙な安らぎすら覚える。
孤軍奮闘する日常からの逃避だった。
この図書室だけが特別な場所だ。
二人きりの時間が流れる。
アレンは巻物を棚の奥に押し込む。
革の表紙に指が触れる。
その時指先が不意に滑った。
乾いた羊皮紙が手からこぼれ落ちる。
巻物が暗い床へ向かって落下した。
乾いた音が静寂を激しく乱す。
巻物は床を勢いよく転がる。
真っ直ぐにヴィルヘルムの足元へ向かう。
アレンは血の気が一気に引く。
「申し訳ありません」
慌てて脚立の階段を降りる。
床に両膝をついて手を伸ばした。
しかし別の手が先に巻物を拾い上げる。
長くて骨ばった綺麗な男の手だ。
ヴィルヘルムが巻物を手に取る。
書かれた古代の文字に目を落とす。
銀色の瞳が文字をなぞった。
「第三紀の地誌か」
静かな声が暗い部屋に響く。
アレンは床に身を屈めたまま答える。
「はい」
「西架廊の歴史棚へ収めるものです」
ヴィルヘルムは巻物の埃を払う。
滑らかな動作で立ち上がる。
アレンの目の前に歩み寄る。
アレンは顔を上げることができない。
黒い革靴が目の前で止まる。
「これはただの地誌ではない」
声が頭上から降ってきた。
「北方の幻獣の生息域が記されている」
アレンは驚いて顔を上げる。
ヴィルヘルムの目と真っ直ぐにぶつかる。
「幻獣の記述があるのですか」
思わず問い返す。
ヴィルヘルムは短くうなずく。
巻物の一節を長い指で示す。
「この記号は竜の巣を意味する」
「古い時代の暗号だ」
解説は明快で興味深い。
アレンは食い入るように巻物を見つめる。
二人の距離がほんの少し縮まる。
体温が伝わってくる距離だった。
「知らなかった」
「ただの古い記録だとばかり思っていました」
アレンの言葉にヴィルヘルムはわずかに目を細める。
「知識は隠されているものだ」
「表面だけを見て満足するな」
それは教師としての指導だった。
アレンは深くうなずく。
「ありがとうございます」
「勉強になりました」
ヴィルヘルムは巻物をアレンに差し出す。
アレンは恐る恐る手を伸ばす。
巻物を受け取ろうとした瞬間だった。
ヴィルヘルムの指先がアレンの手に触れる。
微かに皮膚がすれ違う。
火傷しそうなほどの熱を感じる。
アレンの肩が大きく跳ねた。
慌てて手を引っ込める。
巻物を胸に抱え込んで立ち上がる。
心臓が肋骨を内側から強く叩く。
ヴィルヘルムはアレンの反応を見る。
咎めるような様子はない。
ただ深く静かに見つめてくるだけだ。
「君の手はひどく冷たいな」
低い声が耳の奥を震わせる。
アレンは呼吸の仕方を忘れる。
肺に新しい空気が入ってこない。
「図書室は冷えますから」
苦しい言い訳をなんとか口にする。
ヴィルヘルムはそれ以上踏み込まない。
視線を魔導書に戻す。
「作業が終わったら火に当たれ」
「暖炉に薪をくべてある」
それは命令というより細やかな気遣いだった。
アレンは気管の奥が熱く焼けるのを感じる。
薬の副作用の熱とは違う種類の熱だ。
心地よくてひどく恐ろしい熱だった。
「ありがとうございます」
消え入りそうな声で小さく答える。
アレンは急いで脚立の元へ戻る。
残りの本を整理する作業を再開する。
しかし指先の震えはどうしても止まらない。
ヴィルヘルムの言葉が何度も頭の中で反響する。
不器用な優しさが心を絡め取る。
逃げ出したいのにこの場に留まりたい。
矛盾した感情が胸の中で渦を巻く。
秘密を知られれば全てが確実に終わる。
貴族社会から軽蔑されて学園を追放される。
Ωであることを隠した罪は重い。
何より軽蔑されることだけは避けたかった。
アレンは巻物の埃を古い布で拭き取る。
頭を空っぽにしようと必死に努める。
時計の針が深夜の時刻を指す。
本日の整理ノルマは全て終わる。
アレンは掃除道具を隅に片付ける。
ヴィルヘルムはまだ樫の机に向かっている。
姿勢は全く崩れない。
「お先に失礼します」
アレンが部屋の入り口から声をかける。
ヴィルヘルムは動かしていた羽ペンを置く。
「暗い」
「寮まで送ろう」
立ち上がろうとする彼をアレンは慌てて止める。
「結構です」
「寮はすぐそこですから」
強い拒絶の響きを含んだ声になる。
しまったと激しく後悔した。
ヴィルヘルムは立ち上がる動きを止める。
「そうか」
「夜道には気をつけて帰れ」
怒った様子はない。
ただ淡々とした声音だった。
アレンは深くお辞儀をする。
図書室の重い扉を両手で押し開ける。
冷たい夜風が廊下を勢いよく吹き抜ける。
アレンは扉を閉める前に一度だけ振り返る。
扉の隙間から姿が小さく見える。
再び魔導書に向かっている。
広く孤独な背中だった。
彼もまた一人で重い何かを背負っている。
アレンは扉を静かに閉める。
一人で暗い夜の回廊を歩く。
自分の足音が虚しく響き渡る。
学園の中庭には石像が静かに立つ。
枯れ葉が風に舞って足元を転がる。
一緒に暖炉の火に当たりたかった。
そんな馬鹿げた願いが脳裏をよぎる。
歩きながら頭を強く振る。
他者への甘えは身を滅ぼす猛毒だ。
夜風が容赦なく体温を奪っていく。
アレンは外套の襟を固く合わせる。
月は厚い雲に隠れて見えない。
暗闇の中をひたすら歩き続ける。
学生寮は学園の敷地の端にある。
特待生用の古い建物だった。
貴族の豪華な寮とは天と地ほどの差がある。
壁の塗料は所々剥がれ落ちていた。
アレンは自分の部屋の鍵を開ける。
蝶番が錆びた音を立てる。
部屋の中は氷室のように冷え切っていた。
暖炉はあるが薪を買う余裕はない。
暗闇の中で外套を脱ぐ。
椅子に制服を無造作にかける。
ベッドに倒れ込むように横たわった。
薄い毛布を頭まで引き被る。
寒さで体が微かに震えている。
しかし心臓のあたりだけが熱い。
ヴィルヘルムの指が触れた感覚が消えない。
熱が肌に焼き付いてしまったようだ。
アレンは自分の右手を左手で包み込む。
体温を思い出すような仕草だった。
闇の中で銀色の瞳が思い浮かぶ。
冷たくて深い不思議な瞳だった。
見つめられると嘘が剥がれる気がする。
強がっていることを全て見透かされている。
それでも無理に暴こうとはしない。
ただ静かにそこにいる。
アレンは毛布の中で身を丸める。
不器用な優しさがひどく痛い。
優しくされればされるほど欲が出る。
もっと知りたいと思ってしまう。
それはΩとしての本能なのかもしれない。
惹かれるのは自然の摂理だ。
しかしそれは破滅への第一歩だった。
アレンはまぶたをきつく閉じて眠りを乞う。
これ以上考えるのを避けたかった。
夢の中だけは自由でいられるはずだ。
しかし夢の中でも銀色の光が瞬いている。
孤独な夜は静かに更けていく。




