↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
βを演じる没落貴族の特待生ですが、次期公爵である氷の教師に運命の番として見出され、甘く激しく溺愛されています  作者: 小野林 千早


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/16

第3話「図書室の灯りと触れ合う指先」

 古い柱時計が夜の時刻を刻む。


 真鍮の振り子が鈍い光を放つ。


 規則正しい音が空間を満たした。


 図書室は深い静寂に沈んでいる。


 高い天井には暗い影が巣食う。


 魔力で灯るランプが周囲を照らす。


 青白い光が床に円を描いた。


 アレンは古い木製の脚立に登っている。


 一番上の段に慎重に足を乗せる。


 ぐらつく足場に体重を預けた。


 手には古い羊皮紙の巻物がある。


 長い歴史の埃を吸い込んだ古文書だ。


 表面は乾燥してひび割れていた。


 アレンは息を詰めて巻物を扱う。


 貴重な資料を傷つけるわけにはいかない。


 特待生としての立場に関わるからだ。


 埃が光の帯の中で舞い踊る。


 喉の奥が微かに乾燥した。


 小さく乾いた咳をする。


 薬の副作用は今日は比較的軽い。


 胃袋に鈍い痺れが残る程度だった。


 これなら夜の作業も乗り切れる。


 小さく息を吐き出す。


 作業は順調に進む。


 指定された棚の隙間を次々と埋めていく。


 背後に微かな気配を感じた。


 振り返らなくても誰か察しがつく。


 肌を刺すような夜の静寂が匂いとなって届く。


 ヴィルヘルムがそこにいる。


 巨大な樫の机に向かっている。


 分厚い革張りの魔導書を開いていた。


 羽ペンが羊皮紙を擦る音が響く。


 迷いのない滑らかな動きだ。


 文字を書き連ねる音が心地よい。


 アレンは横顔を盗み見る。


 ランプの光が銀色の髪を照らす。


 大理石の彫刻のように美しい造作だ。


 真剣な眼差しは底冷えするほど冷ややかだ。


 しかし不思議と怖くはない。


 昼間に見せる威圧感は鳴りを潜めている。


 今はただ静かな夜の空気があった。


 二人の間に言葉のやり取りはない。


 それでも空間の居心地は悪くない。


 むしろ奇妙な安らぎすら覚える。


 孤軍奮闘する日常からの逃避だった。


 この図書室だけが特別な場所だ。


 二人きりの時間が流れる。


 アレンは巻物を棚の奥に押し込む。


 革の表紙に指が触れる。


 その時指先が不意に滑った。


 乾いた羊皮紙が手からこぼれ落ちる。


 巻物が暗い床へ向かって落下した。


 乾いた音が静寂を激しく乱す。


 巻物は床を勢いよく転がる。


 真っ直ぐにヴィルヘルムの足元へ向かう。


 アレンは血の気が一気に引く。


「申し訳ありません」


 慌てて脚立の階段を降りる。


 床に両膝をついて手を伸ばした。


 しかし別の手が先に巻物を拾い上げる。


 長くて骨ばった綺麗な男の手だ。


 ヴィルヘルムが巻物を手に取る。


 書かれた古代の文字に目を落とす。


 銀色の瞳が文字をなぞった。


「第三紀の地誌か」


 静かな声が暗い部屋に響く。


 アレンは床に身を屈めたまま答える。


「はい」


「西架廊の歴史棚へ収めるものです」


 ヴィルヘルムは巻物の埃を払う。


 滑らかな動作で立ち上がる。


 アレンの目の前に歩み寄る。


 アレンは顔を上げることができない。


 黒い革靴が目の前で止まる。


「これはただの地誌ではない」


 声が頭上から降ってきた。


「北方の幻獣の生息域が記されている」


 アレンは驚いて顔を上げる。


 ヴィルヘルムの目と真っ直ぐにぶつかる。


「幻獣の記述があるのですか」


 思わず問い返す。


 ヴィルヘルムは短くうなずく。


 巻物の一節を長い指で示す。


「この記号は竜の巣を意味する」


「古い時代の暗号だ」


 解説は明快で興味深い。


 アレンは食い入るように巻物を見つめる。


 二人の距離がほんの少し縮まる。


 体温が伝わってくる距離だった。


「知らなかった」


「ただの古い記録だとばかり思っていました」


 アレンの言葉にヴィルヘルムはわずかに目を細める。


「知識は隠されているものだ」


「表面だけを見て満足するな」


 それは教師としての指導だった。


 アレンは深くうなずく。


「ありがとうございます」


「勉強になりました」


 ヴィルヘルムは巻物をアレンに差し出す。


 アレンは恐る恐る手を伸ばす。


 巻物を受け取ろうとした瞬間だった。


 ヴィルヘルムの指先がアレンの手に触れる。


 微かに皮膚がすれ違う。


 火傷しそうなほどの熱を感じる。


 アレンの肩が大きく跳ねた。


 慌てて手を引っ込める。


 巻物を胸に抱え込んで立ち上がる。


 心臓が肋骨を内側から強く叩く。


 ヴィルヘルムはアレンの反応を見る。


 咎めるような様子はない。


 ただ深く静かに見つめてくるだけだ。


「君の手はひどく冷たいな」


 低い声が耳の奥を震わせる。


 アレンは呼吸の仕方を忘れる。


 肺に新しい空気が入ってこない。


「図書室は冷えますから」


 苦しい言い訳をなんとか口にする。


 ヴィルヘルムはそれ以上踏み込まない。


 視線を魔導書に戻す。


「作業が終わったら火に当たれ」


「暖炉に薪をくべてある」


 それは命令というより細やかな気遣いだった。


 アレンは気管の奥が熱く焼けるのを感じる。


 薬の副作用の熱とは違う種類の熱だ。


 心地よくてひどく恐ろしい熱だった。


「ありがとうございます」


 消え入りそうな声で小さく答える。


 アレンは急いで脚立の元へ戻る。


 残りの本を整理する作業を再開する。


 しかし指先の震えはどうしても止まらない。


 ヴィルヘルムの言葉が何度も頭の中で反響する。


 不器用な優しさが心を絡め取る。


 逃げ出したいのにこの場に留まりたい。


 矛盾した感情が胸の中で渦を巻く。


 秘密を知られれば全てが確実に終わる。


 貴族社会から軽蔑されて学園を追放される。


 Ωであることを隠した罪は重い。


 何より軽蔑されることだけは避けたかった。


 アレンは巻物の埃を古い布で拭き取る。


 頭を空っぽにしようと必死に努める。


 時計の針が深夜の時刻を指す。


 本日の整理ノルマは全て終わる。


 アレンは掃除道具を隅に片付ける。


 ヴィルヘルムはまだ樫の机に向かっている。


 姿勢は全く崩れない。


「お先に失礼します」


 アレンが部屋の入り口から声をかける。


 ヴィルヘルムは動かしていた羽ペンを置く。


「暗い」


「寮まで送ろう」


 立ち上がろうとする彼をアレンは慌てて止める。


「結構です」


「寮はすぐそこですから」


 強い拒絶の響きを含んだ声になる。


 しまったと激しく後悔した。


 ヴィルヘルムは立ち上がる動きを止める。


「そうか」


「夜道には気をつけて帰れ」


 怒った様子はない。


 ただ淡々とした声音だった。


 アレンは深くお辞儀をする。


 図書室の重い扉を両手で押し開ける。


 冷たい夜風が廊下を勢いよく吹き抜ける。


 アレンは扉を閉める前に一度だけ振り返る。


 扉の隙間から姿が小さく見える。


 再び魔導書に向かっている。


 広く孤独な背中だった。


 彼もまた一人で重い何かを背負っている。


 アレンは扉を静かに閉める。


 一人で暗い夜の回廊を歩く。


 自分の足音が虚しく響き渡る。


 学園の中庭には石像が静かに立つ。


 枯れ葉が風に舞って足元を転がる。


 一緒に暖炉の火に当たりたかった。


 そんな馬鹿げた願いが脳裏をよぎる。


 歩きながら頭を強く振る。


 他者への甘えは身を滅ぼす猛毒だ。


 夜風が容赦なく体温を奪っていく。


 アレンは外套の襟を固く合わせる。


 月は厚い雲に隠れて見えない。


 暗闇の中をひたすら歩き続ける。


 学生寮は学園の敷地の端にある。


 特待生用の古い建物だった。


 貴族の豪華な寮とは天と地ほどの差がある。


 壁の塗料は所々剥がれ落ちていた。


 アレンは自分の部屋の鍵を開ける。


 蝶番が錆びた音を立てる。


 部屋の中は氷室のように冷え切っていた。


 暖炉はあるが薪を買う余裕はない。


 暗闇の中で外套を脱ぐ。


 椅子に制服を無造作にかける。


 ベッドに倒れ込むように横たわった。


 薄い毛布を頭まで引き被る。


 寒さで体が微かに震えている。


 しかし心臓のあたりだけが熱い。


 ヴィルヘルムの指が触れた感覚が消えない。


 熱が肌に焼き付いてしまったようだ。


 アレンは自分の右手を左手で包み込む。


 体温を思い出すような仕草だった。


 闇の中で銀色の瞳が思い浮かぶ。


 冷たくて深い不思議な瞳だった。


 見つめられると嘘が剥がれる気がする。


 強がっていることを全て見透かされている。


 それでも無理に暴こうとはしない。


 ただ静かにそこにいる。


 アレンは毛布の中で身を丸める。


 不器用な優しさがひどく痛い。


 優しくされればされるほど欲が出る。


 もっと知りたいと思ってしまう。


 それはΩとしての本能なのかもしれない。


 惹かれるのは自然の摂理だ。


 しかしそれは破滅への第一歩だった。


 アレンはまぶたをきつく閉じて眠りを乞う。


 これ以上考えるのを避けたかった。


 夢の中だけは自由でいられるはずだ。


 しかし夢の中でも銀色の光が瞬いている。


 孤独な夜は静かに更けていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。