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βを演じる没落貴族の特待生ですが、次期公爵である氷の教師に運命の番として見出され、甘く激しく溺愛されています  作者: 小野林 千早


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第2話「雨音と不器用な庇護」

 午後の空は厚い雲に覆われている。


 光が遮られ教室が薄暗くなる。


 雨の匂いが風に混じっていた。


 湿った空気が肌にまとわりつく。


 アレンは窓の外を見つめる。


 灰色の空が重く垂れ込めている。


 もうすぐ降り出しそうだった。


 アレンは傘を持っていなかった。


 朝は晴れていたからだ。


 寮までの距離を頭の中で計算する。


 走れば少し濡れる程度で済む。


 そう自分に言い聞かせた。


 最後の授業が終わる頃だった。


 予感通りに大粒の雨が降り始める。


 雨音が校舎を激しく叩く。


 窓ガラスに無数の水滴が流れた。


 終了の鐘が鳴る。


 生徒たちが足早に教室を出て行く。


 皆色とりどりの傘を手にしていた。


 迎えの馬車を待つ者もいる。


 特待生のアレンにそんなものはない。


 鞄を胸に抱えて廊下を歩いた。


 正面玄関は人であふれている。


 雨宿りをする生徒たちの群れだ。


 アレンはその輪から離れて立つ。


 冷たい風が吹き込んでくる。


 首元をきつく締めた。


 雨脚はさらに強くなっている。


 白い靄がかかったように前が見えない。


 止む気配は全くなかった。


 このまま待っても無駄だ。


 アレンは意を決して雨の中に飛び出す。


 冷たい水滴が全身を打ち据える。


 制服があっという間に水を吸った。


 重く張り付く布が体温を奪う。


 視界が雨に遮られる。


 足元だけを見て走った。


 水たまりが靴を泥で汚す。


 それでも歩みを止めない。


 突然雨粒が身体を叩かなくなった。


 頭上に黒い影が落ちる。


 視界の端に大きな傘が見えた。


「濡れるぞ」


 低い声が雨音を切り裂く。


 隣にヴィルヘルムが立っていた。


 傘を差し掛けているのだ。


 自分の肩が濡れるのも構わないらしい。


 傘の半分以上がアレンを覆っている。


「先生」


「どうして」


 アレンの声は雨音にかき消されそうだった。


 ヴィルヘルムは前を見たまま答える。


「通り道だ」


「傘を持っていなかったのだろう」


 淡々とした口調だった。


 アレンは慌てて距離を取ろうとする。


「大丈夫です」


「寮まで走りますから」


 恩を着せられるのは嫌だった。


 関わると心が乱れる。


 ヴィルヘルムはアレンの腕を掴んだ。


 逃げようとするのを許さない。


 強い力が傘の下に引き戻す。


「意地を張るな」


「風邪を引く」


 静かだが有無を言わせぬ響きだった。


 アレンは反論の言葉を飲み込む。


 強大なαの力には抗えない。


 二人は一つの傘の下で歩き出した。


 雨音が周囲の音を全て消し去る。


 世界に二人だけが取り残されたようだ。


 ヴィルヘルムの歩幅は大きい。


 アレンは遅れないよう必死に歩く。


 靴が水を跳ね上げる音が響く。


 隣から伝わる熱気が凄まじい。


 冷え切ったアレンの体を温めてくれる。


 深い夜気を思わせる香りがする。


 雨の匂いと混ざって心地よい。


 アレンは気管の奥が締め付けられる。


 なぜこんなに優しいのか。


 ただの特待生に対する同情なのか。


 それとも別の理由があるのか。


 答えの出ない問いが頭を巡る。


 手はアレンの肩に添えられていた。


 雨から守るように抱き寄せる。


 その力強さに息を呑んだ。


 自分は守られている。


 その事実がアレンを激しく動揺させる。


 誰かに頼るなどあり得ないことだった。


 孤軍奮闘することだけが生きる術だ。


 しかし今だけはその温もりにすがりたい。


 アレンは小さく息を吐いた。


 少しだけ体を預ける。


 ヴィルヘルムは何も言わない。


 ただ傘を持つ手に力がこもる。


 寮へ向かう道から外れたことに気づいた。


「あの」


「ここは寮への道ではありません」


 尋ねるとヴィルヘルムは短く答える。


「私の執務室へ行く」


「君は冷え切っている」


「体を温めるのが先だ」


 アレンは目を見開く。


「そんな」


「ご迷惑をおかけするわけには」


「迷惑だとは言っていない」


 ヴィルヘルムの言葉は絶対だった。


 彼らは学園の特別棟に向かう。


 教師の執務室が並ぶ閑静な場所だ。


 部屋はその最奥にある。


 重厚なマホガニーの扉が開かれる。


 中は驚くほど広かった。


 壁一面を古い本が埋め尽くしている。


 アンティークの家具が上品に配置されていた。


 知性と権力を象徴する空間だ。


「入れ」


 ヴィルヘルムは傘を畳んで言う。


 アレンは濡れた制服から滴る水を気にした。


 絨毯を汚してしまう。


 入り口で立ち尽くすのを見る。


「構わん」


「そこへ座れ」


 革張りのソファを指差す。


 アレンは遠慮がちに端へ腰掛けた。


 ヴィルヘルムは奥の部屋へ消える。


 すぐに戻ってくるとタオルを投げた。


 清潔な白いタオルだった。


「髪を拭け」


 アレンはタオルを受け取る。


 微かに香りがした。


 素直に髪の水分を拭き取る。


 ヴィルヘルムは棚から茶器を取り出す。


 慣れた手つきで湯を沸かす。


 静かな部屋に微かな水音が響いた。


 アレンはその背中をじっと見つめる。


 幅の広い背中だ。


 どんな重圧も跳ね返す強さがある。


 自分とは何もかもが違う。


 カップを二つ運んでくる。


 アレンの前のテーブルに一つ置く。


 芳醇な紅茶の香りが部屋に満ちた。


「飲め」


「体が温まる」


 自分も向かいの椅子に座る。


 アレンはカップを両手で包み込んだ。


 陶器の熱が冷えた指先を溶かしていく。


 一口飲むと豊かな風味が広がった。


 緊張でこわばっていた体が少し緩む。


「ありがとうございます」


 小さな声で礼を言う。


 ヴィルヘルムは紅茶を啜る。


「なぜ傘を持っていなかった」


 静かな声だった。


 責めるような響きはない。


「朝は晴れていたので」


「油断しました」


 アレンは視線を落とす。


「特待生は多忙だ」


「天候を気にする余裕もないか」


 言葉に顔を上げる。


 皮肉かと思ったが目は真剣だった。


「蔵書の整理は終わったのか」


「はい」


「今日の分は全て」


「そうか」


 会話が途切れる。


 雨音だけが窓を叩いている。


 沈黙は以前ほど苦痛ではない。


 むしろ奇妙な心地よさがあった。


 存在がもたらす安心感だ。


 αとしての強大な威圧感が今は薄らいでいる。


 代わりに深い包容力がアレンを包む。


 不思議な感覚に陥る。


 一緒にいると呼吸が楽になる。


 薬の副作用の痛みも忘れていた。


 まるで特効薬のようだ。


「君は」


 ヴィルヘルムが静かに口を開く。


 銀色の瞳がアレンを捕らえる。


「いつも一人だな」


 図星を突かれて息を呑む。


「友人は作らない主義か」


 核心に触れてくる。


 アレンはカップを強く握った。


「私には」


「そんな余裕はありません」


「家のために学ばなければならないので」


 それは嘘ではない。


 しかし真実の全てでもない。


 本当の理由は自分がΩだからだ。


 誰かと深く関われば必ず秘密が露呈する。


 だから壁を作って自分を守ってきた。


 ヴィルヘルムは目を見つめ続ける。


 瞳は深淵のように全てを飲み込む。


 アレンは視線を逸らすことができない。


「一人で背負いすぎるな」


 低い声が胸の奥に響く。


「君はまだ子供だ」


「頼れる者には頼れ」


 その言葉は最も柔らかい部分を突く。


 今まで誰にも言われたことがない言葉だ。


 親でさえ重責を押し付けた。


 弱音を吐くことは許されない。


 アレンの視界が不意ににじむ。


 慌ててまばたきをして涙を堪える。


 こんなところで泣くわけにはいかない。


「私は」


「子供ではありません」


 震える声で精一杯の反抗をした。


 ヴィルヘルムはわずかに目を細める。


 怒ったのだろうか。


 アレンは体を強張らせた。


 しかし静かに息を吐いただけだった。


「そうだな」


「君は立派な大人だ」


 その響きには優しさがにじんでいる。


 アレンは言葉を失う。


 突き放そうとしたのに。


 柔らかく受け止めた。


 不器用で深い庇護だった。


 心の中にあった強固な壁。


 その壁に小さなヒビが入った気がする。


 信頼してみたい。


 ほんの少しだけ寄りかかってみたい。


 そんな危険な感情が芽生え始める。


 禁断の思いだと頭ではわかっている。


 住む世界が違う。


 教師と生徒という絶対的な壁もある。


 それでも心は惹かれていた。


 雨はまだ降り続いている。


 しかし心の中には暖かな光が差す。


 紅茶の最後の一口を飲み干す。


 カップを置く音が静寂に響いた。


 ヴィルヘルムが立ち上がる。


「そろそろ雨が弱まる」


「寮まで送ろう」


 アレンは慌てて首を振る。


「これ以上のご迷惑は」


「迷惑ではないと言ったはずだ」


 決意は揺るがない。


 アレンはついに抵抗を諦めた。


「ありがとうございます」


 素直な感謝の言葉が口をついて出る。


 ヴィルヘルムの目がわずかに和らいだ。


 錯覚かもしれない。


 それでも胸は小さく高鳴る。


 二人は執務室を出た。


 雨は小降りになっている。


 夕闇が迫る回廊を並んで歩く。


 二人の距離は朝よりもずっと近い。


 雨音が足音を優しく包み込んでいた。

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