第1話「孤影と銀色の瞳」
空気がひどく冷え切っている。
白い息が夜の闇に溶ける。
アレンは硬い石畳を踏んだ。
革靴の音が回廊に響き渡る。
王立グランヴェール学園の夜は深い。
荘厳な尖塔が月光を弾いた。
アレンは歩みを止めない。
重厚な外套が風に揺れる。
夜明け前の静寂が周囲を包む。
誰もいない回廊が続く。
ステンドグラスが光を落とす。
色とりどりの影が揺れた。
アレンの足取りは重い。
気管の奥がじりじりと熱を帯びる。
粘り気のある熱が肺を塞ぐ。
抑制剤の副作用が身体を蝕む。
本来の性を押し殺す薬の代償だ。
アレンはΩとして生まれた。
没落貴族の令息として家督を継ぐ義務がある。
Ωのままでは生きられない。
だからアレンはβを演じている。
薬で本能を根こそぎ封じ込めた。
代償は心身を削る苦痛となって現れる。
熱が内側から骨を焦がす。
痛みが全身を駆け巡った。
アレンは壁に手をつく。
ざらついた石の感触が手のひらに伝わる。
荒い息が口から漏れた。
視界がわずかに歪む。
まぶたをきつく閉ざす。
痛みを必死にやり過ごす。
冷たい壁に額を押し付けた。
石の冷気が肌の熱を奪う。
しばらくして熱が引いた。
アレンはゆっくりと顔を上げる。
前を向いて歩き出す。
図書室が目的地だった。
特待生としての責務がある。
蔵書の整理を任されていた。
孤独な作業は性に合っている。
他人と関わる必要がない。
秘密を隠し通せるからだ。
巨大な木製の扉が現れた。
真鍮の取っ手に手を伸ばす。
重い扉を静かに押し開けた。
古い紙の匂いが漂ってくる。
インクと埃が入り混じる匂いだ。
静謐な空間が広がっていた。
天井まで届く本棚が並ぶ。
ランプの灯りが揺らめく。
誰かが先に来ていた。
アレンは足を止める。
息を潜めて気配を探った。
窓際に人影がある。
長身の男が本を開いていた。
銀髪が月光を反射する。
鋭く冷たい横顔だった。
深い夜色の外套をまとっている。
並外れた気配が漂っていた。
学園の特別教師だ。
ヴィルヘルム・クレイグである。
筆頭公爵家の次期当主だ。
誰もが畏怖するαだった。
アレンは思わず後ずさる。
靴が床と擦れて音が鳴った。
男がゆっくりと顔を上げた。
冷たい視線がアレンを射抜く。
空気が急激に重くなった。
アレンの心臓が大きく跳ねる。
本能が警鐘を鳴らしていた。
強大なαの放つ重圧がのしかかる。
呼吸がうまくできない。
アレンは必死に理性を保つ。
平静を装って頭を下げた。
「申し訳ありません」
「邪魔をするつもりはありませんでした」
ヴィルヘルムは本を閉じる。
静かな動作だった。
隙が全くない。
ヴィルヘルムはアレンを見据えた。
「特待生のエルディスか」
低い声が空気を震わせる。
耳の奥に残る響きだった。
アレンは小さくうなずいた。
「はい」
「蔵書の整理に参りました」
ヴィルヘルムは立ち上がる。
長身がアレンを見下ろした。
恐ろしいほどの威厳がある。
アレンは視線を床に落とす。
目を合わせることができない。
「朝が早いな」
「感心なことだ」
声に感情の色はない。
ただ淡々とした響きだった。
アレンは拳を強く握る。
「失礼します」
足早に奥の本棚へ向かう。
背中に鋭い視線を感じた。
見透かされるような感覚が背筋を這う。
アレンは奥の暗がりに身を隠す。
埃を被った本を手に取る。
指先が微かに震えていた。
なぜあんなに緊張したのかわからない。
相手は教師で自分は生徒だ。
接点などないはずだった。
しかし本能が怯えている。
同時に奇妙な引力を感じた。
氷のような銀の瞳が脳裏に焼き付く。
冷たいのに目が離せない。
アレンは本を棚に押し込む。
作業に没頭しようと努めた。
雑念を振り払う。
時間は静かに過ぎていく。
本を分類し番号を記録する。
単純な作業の連続だった。
痛みが再び胸を掠めた。
薬の切れる時間が近い。
アレンは小さく息を吐く。
額に冷たい汗が浮いた。
指の震えが少し強くなる。
本を落としそうになった。
「無理はするな」
突然背後から声がする。
アレンは肩を大きく跳ねさせた。
振り返るとヴィルヘルムが立っていた。
いつの間にか背後にいたのだ。
足音すら聞こえなかった。
アレンは慌てて距離を取る。
「大丈夫です」
「問題ありません」
声がかすれていた。
ヴィルヘルムの目が細められる。
鋭い視線がアレンを観察する。
青白い顔色を見抜かれた。
「顔色が悪い」
「少し休め」
命令に近い口調だった。
アレンは首を横に振る。
「まだ作業が残っています」
「すぐに終わらせます」
強がって本を持ち上げた。
その瞬間視界が暗転する。
足から力が抜け落ちた。
床が急速に近づいてくる。
倒れると覚悟した。
しかし衝撃は来ない。
強い力が腕を掴む。
ヴィルヘルムが支えていた。
熱い体温が伝わってくる。
彼の外套から冷気をはらんだ分厚い布の匂いがした。
アレンの呼吸が乱れる。
本能がその香りに反応した。
隠し持ったΩの性が騒ぐ。
アレンは慌ててヴィルヘルムを引き剥がした。
「触らないでください」
拒絶の言葉が口をついて出た。
ヴィルヘルムの動きが止まる。
静かにアレンを見つめた。
怒りの色は見えない。
ただ深く静かな瞳だった。
アレンは壁に背を預ける。
荒い息を繰り返した。
「申し訳ありません」
「少しめまいがしただけです」
嘘を重ねて自分を守る。
ヴィルヘルムは踏み込まなかった。
「医務室へ行け」
「これは教師としての命令だ」
冷たい声が響く。
反論を許さない重圧があった。
アレンは唇を強く噛む。
反抗しても無意味だった。
「わかりました」
アレンはふらつく足で歩き出す。
図書室の扉へと向かう。
ヴィルヘルムは後ろ姿を見送った。
アレンは一度も振り返らない。
扉が重い音を立てて閉まる。
一人になった回廊を歩く。
鼓動がうるさく耳を打つ。
腕に熱が残っていた。
火傷しそうなほどの熱だ。
アレンは自分の腕を強く握る。
あの香りを忘れようとした。
しかし鼻の奥にこびりついている。
あれが本物のαの力だ。
自分とは違う世界にいる。
関わってはいけない存在だ。
アレンは足早に回廊を抜ける。
朝の光が差し込み始めていた。
空が白々と明けゆく。
新しい一日が始まろうとしている。
しかし心は重い。
秘密を抱えたまま生きる。
その限界が近づいていた。
薬の効き目は確実に落ちている。
いつか暴かれる日が来る。
その恐怖が常にアレンを苛む。
医務室は冷たい薬品の匂いがした。
白いシーツが整然と並んでいる。
誰もいないベッドに腰掛ける。
アレンは懐から小さな瓶を取り出した。
冷たいガラスの感触が指に伝わる。
中には濁った緑色の液体がある。
強力な抑制剤だ。
医者からは服用を控えるよう言われている。
しかし飲まなければ理性を保てない。
瓶の蓋を力強く開ける。
喉の奥に液体を流し込んだ。
苦味が舌を激しく焼く。
胃袋に重い痛みが落ちる。
アレンはベッドに横たわった。
痛みが引くのを待つ。
静寂だけが耳に響く。
自分の呼吸音だけが聞こえる。
脳裏にあの瞳が蘇った。
ヴィルヘルムの冷たい銀色だ。
なぜあんなに心に引っかかるのか。
ただの偶然の出会いのはずだ。
自分は誰とも関わらない。
ただ家のために生きるだけだ。
Ωの運命に抗うために。
シーツを強く握りしめた。
窓の外から小鳥のさえずりが響く。
学園が目を覚まし始めていた。
生徒たちのざわめきが遠くから届く。
アレンは重い体を起こす。
制服のシワを丁寧に伸ばした。
鏡の前に立ち自分の顔を見る。
血の気のない青白い顔だ。
それでも表情に隙は作らない。
鉄の仮面を被り直した。
医務室の扉を開ける。
光のあふれる廊下へと足を踏み出す。
日常という名の戦場へ戻る。
教室にはすでに多くの生徒がいた。
特待生に向けられる視線は冷たい。
貴族の集まる学園での階級差だ。
アレンは没落した家の出身だった。
誰も話しかけようとはしない。
一番後ろの席に座った。
教科書を机の上に広げる。
文字の羅列をただ目で追う。
頭には全く入ってこない。
授業を知らせる鐘が鳴った。
重厚な音が校舎に響き渡る。
教師が教室に入ってくる。
アレンは顔を上げて息を呑んだ。
教壇に立ったのはヴィルヘルムだった。
周囲の空気が一瞬で張り詰める。
生徒たちの私語がピタリと止まる。
誰もが放つ重圧に沈黙した。
これが公爵家次期当主の力だ。
ヴィルヘルムは教室全体を静かに見渡す。
銀色の瞳がアレンの席で止まった。
視線が真っ直ぐに交差する。
アレンの心臓が早鐘を打つ。
なぜこちらを見るのか。
息が詰まるような緊張感だ。
ヴィルヘルムはすぐに視線を外した。
黒板に向かって文字を書き始める。
流れるような美しい文字だった。
チョークの音が規則正しく響く。
アレンは息を細く吐き出した。
ただの気のせいだったのだ。
授業に集中しようと努める。
しかしヴィルヘルムの声が耳を打つ。
低くよく響く声だった。
言葉の一つ一つに力がある。
誰もが解説に引き込まれる。
アレンも例外ではない。
解説は明快で論理的だった。
魔法陣の構造を鮮やかに解き明かす。
アレンは必死にノートを取る。
知識を一つでも吸収したかった。
一時間の授業はあっという間だった。
終わりの鐘が鳴り響く。
生徒たちは一斉に立ち上がった。
深いお辞儀をして見送る。
ヴィルヘルムは静かに教室を出た。
アレンは椅子に深く背中を預ける。
どっと疲労が押し寄せてきた。
周囲の空気を全て支配していた。
ため息を一つ吐く。
手元のノートを見つめる。
そこにはヴィルヘルムの言葉が残っている。
インクの染みに気配を感じる。
アレンは慌ててノートを閉じた。
おかしな感情に振り回されている。
こんなことは初めてだった。
首を振って思考を断ち切る。
午後の授業の準備を始める。
誰にも心を許してはならない。
秘密を守り抜くためだ。
孤独こそが盾だった。
昼休みを知らせる鐘が鳴った。
生徒たちが食堂へと向かう。
アレンは教室に一人残る。
ざわめきを避けるためだった。
鞄から黒いパンを取り出す。
固くて味気ない食事だ。
それでも飢えを凌ぐには十分だった。
窓の外には美しい中庭が広がる。
噴水の水が陽光を反射していた。
貴族の生徒たちが談笑している。
自分とは全く無縁の世界だ。
パンを小さくちぎる。
無表情のまま口に運んだ。
乾いた食感が広がる。
水筒の水を流し込んで胃袋に収める。
食事はただの生命維持の作業だ。
そこに喜びは見出せない。
静寂な教室は安息だった。
しかしその安息は破られる。
廊下から足音が近づいてくる。
規則正しく重みのある足音だ。
アレンの体が本能的に強張る。
扉が静かに開かれた。
ヴィルヘルムがそこに立っている。
手には数冊の分厚い本がある。
教室にアレンがいるのを見る。
わずかに目を細めた。
「ここにいたのか」
静かな声が教室に響く。
アレンは慌てて立ち上がる。
食べかけのパンを背後に隠した。
「何か御用でしょうか」
声が震えないように腹に力を入れる。
ヴィルヘルムはゆっくりと歩み寄る。
距離が徐々に縮まる。
重厚な香りが鼻を掠めた。
アレンは思わず息を止める。
ヴィルヘルムは机の上に本を置いた。
「図書室に戻す本だ」
「君に頼みたい」
それは特待生の仕事だった。
アレンは小さくうなずく。
「承知いたしました」
「後ほど運んでおきます」
ヴィルヘルムはすぐには去らない。
アレンの背後に隠した手に視線を落とす。
「昼食はそれだけか」
唐突な問いだった。
アレンは肩を大きく震わせる。
「はい」
「十分ですので」
強がって見せたが声が上ずった。
ヴィルヘルムは何も言わない。
ただ静かにアレンの目を見つめる。
その視線に嘘は通じない気がした。
全てを見透かされているようだ。
沈黙が教室を満たす。
やがてヴィルヘルムは懐から何かを取り出した。
銀色の小さな包みだった。
それをアレンの机の上に置く。
「甘いものは脳を休める」
「食べておけ」
それだけを言い残した。
背を向けて教室を出て行く。
扉が閉まり再び静寂が戻る。
アレンは机の上の包みを見つめる。
手が微かに震えていた。
包みをそっと開いてみる。
中には琥珀色の焼き菓子があった。
芳醇なバターの香りが広がる。
見たこともない高級な菓子だ。
なぜこんなものをくれるのか。
同情されたのだろうか。
アレンは唇を強く噛み締める。
施しを受ける筋合いはない。
突き返すべきだと思った。
しかし菓子からはヴィルヘルムの香りがする。
微かに移った残り香だった。
アレンは誘惑に抗えない。
小さな一口をかじる。
濃厚な甘さが舌の上でとろけた。
気管の奥が熱くなる。
冷え切っていた体が温まる気がした。
一人で菓子を全て食べる。
指先についた甘みを舐めた。
罪悪感と奇妙な高揚感がある。
ヴィルヘルム・クレイグ。
彼の存在が日常を揺るがす。
堅く閉ざした扉を叩く音がする。
アレンはその音から耳を塞ぎたかった。
甘い香りがいつまでも残っていた。




