番外編「雨の記憶と封じ込めた初恋」
降り続く冷たい雨の音を今でも思い出す。
私の人生はあの夜から静かに変わり始めたのだ。
特待生として学園に入学したばかりの頃だった。
孤独と重圧だけで私の鞄ははち切れそうだった。
誰にも頼らずに一人で生きていくと固く誓っていた。
Ωという第二の性をひたすら隠して生きる毎日だ。
いつ発情の熱に襲われるかわからない恐怖が常にある。
貴族たちからの冷ややかな視線も日常茶飯事だった。
味方などこの広い学園のどこにも存在しなかった。
図書室での深夜の作業を終えた夜のことだ。
帰り道で不運にも突然の冷たい雨に降られた。
氷のように冷たい雨粒が薄い制服を叩きつける。
凍えるような寒さが骨の髄まで浸透してくる。
寮までの暗い道のりは果てしなく遠く感じられた。
雨だれを避けて深い軒下に身を小さく潜ませる。
身体の震えをごまかすように両腕を強く抱きしめる。
誰か助けてほしいと願うことすら忘れていた。
どうせ誰も私を助けたりはしないと知っていたからだ。
そのときだった。
暗闇の中から規則正しい硬い足音が近づいてきた。
大きな黒い傘が私の頭上に差し掛けられる。
雨の冷たい音が布に弾かれる重い音へと変わった。
見上げるとそこに背の高い彼が立っていた。
ヴィルヘルム・クレイグ教師だった。
彼が私と同じ傘の下に並んで静かに立っている。
彼の肩が私の肩に微かに触れそうなくらいに近い距離だ。
氷の教師と恐れられる彼から確かな温もりが伝わってくる。
私の凍りついた身体が少しずつ解れていった。
彼の身体から張り詰めた冷気のような香りが漂ってきた。
雨の匂いと混じり合って私の鼻腔をくすぐる。
Ωとしての本能が警鐘を鳴らしたのではない。
アレン・エルディスという人間の心が激しく揺さぶられたのだ。
彼が私に向ける視線には何の偏見もなかった。
没落貴族だからと見下すような暗い色はどこにもない。
Ωだと知らずにただの一人の生徒として見ている。
その純粋な眼差しが眩しかった。
「風邪を引くぞ」
「私の傘に入れ」
不器用でぶっきらぼうな言葉だった。
その響きが凍えた胸の奥に真っ直ぐに刺さる。
誰も私を心配などしてくれなかった。
自己責任だと冷たく突き放されるのが当たり前だったからだ。
彼の大きな傘の下は世界のどの場所よりも安全だった。
彼と歩いた雨の回廊の記憶は私の宝物になった。
寮の前に着いて彼が静かに背を向けて立ち去るときのことだ。
私は自分の胸を両手で強く押さえつけていた。
鼓動が肋骨を打ち据えるように鳴っていたからだ。
熱病にかかったように息が苦しい。
これが恋なのだと理解するのに時間はかからなかった。
しかし同時に深い絶望が私を飲み込んでいった。
私は決して彼にふさわしい人間ではない。
嘘をついて生きるΩに過ぎないのだ。
この気持ちを彼に伝えることなど許されない。
もし秘密がばれてしまえばこの僅かな接点すら失うだろう。
彼から嫌悪の目を向けられることだけは避けたかった。
だから私は自分の心に固くて重い鍵をかけた。
彼への初恋を心の最深部に封じ込めたのだ。
ただの優秀な一介の生徒として彼の記憶に残るために。
見返りなど求めずに遠くから彼を尊敬し続ける。
そう固く決意したはずだった。
彼の不器用な優しさが少しずつ私の鍵を壊していった。
結局私は彼の引力から逃れることなどできなかったのだ。
今にして思えばあの雨の夜にはもう全て手遅れだった。
彼に傘を差し掛けられた瞬間に私の運命は決まっていた。
暗い寮の部屋に戻った私は濡れた制服のまま泣いた。
声を殺してベッドの上で小さく丸まって泣き続けた。
彼の気配が残る自分の肩を強く抱きしめながら。
彼を好きになってしまった自分の愚かさを呪いながら。
それでも彼に出会えた幸福感はどうしても消せなかった。
あんなにも胸を焦がすような痛くて甘い初恋だった。
今では彼は私の隣で静かな寝息を立てている。
彼の長い銀色の髪が私の枕元に散らばっている。
私は彼の手を握ってあの雨の夜のことをそっと思い出す。
遠回りをしたけれど彼に愛されて私は幸せだ。
彼の手の温もりが私の心を満たして静かな眠りへと誘う。
窓の外では今日も静かに雨が降り続いていた。
しかし今の私には少しも冷たくない優しい雨だった。




