エピローグ「初夏の庭園と揺るぎない未来」
数年の月日が穏やかに流れていった。
学園での激動の日々が遠い昔の夢のように思える。
ここはクレイグ公爵家の広大な領地にある壮麗な本邸だ。
初夏の陽光が緑豊かな庭園に降り注いでいる。
色鮮やかな無数の薔薇が見事に咲き誇っていた。
甘くて芳醇な香りが風に乗って運ばれてくる。
小鳥たちのさえずりが木々の間から心地よく響き渡る。
アレンはガラス張りの大きな温室の中で本を読んでいた。
上質な白い絹のシャツにゆったりとした黒いズボン姿だ。
かつてのすり切れた安物の制服の面影はどこにもない。
首元は大きく開いていてあの噛み跡がはっきりと見える。
公爵家の伴侶としての誇り高い確かな印だった。
隠す必要などもう世界のどこにも存在しないのだ。
アレンは学園を首席で卒業したあとに彼と正式に結婚した。
今では有能な魔術研究者として公爵家を立派に支えている。
領地の農業を豊かにするための新しい土壌改良魔術を開発した。
領民たちからは慈悲深き公爵夫人として深く慕われている。
ただ守られるだけのひ弱なΩではない。
彼と肩を並べて歩く一人の対等なパートナーなのだ。
使用人たちもアレンに心からの敬意を払っている。
誰も彼の出自や第二の性を嘲笑う者などいなかった。
「アレン様」
「旦那様が王都からお戻りになられました」
年老いた上品なメイドが温室の入り口で静かに告げた。
アレンは読んでいた本をテーブルに置いて素早く立ち上がった。
鼓動が早くなるのをどうしても抑えることができない。
何年経っても彼を迎えるときのこの高揚感は変わらないのだ。
温室のガラス扉が開いて背の高い男が中へ入ってくる。
ヴィルヘルムだった。
学園時代よりも少しだけ大人の落ち着きと威厳を増している。
銀色の髪は相変わらず初夏の光を反射していた。
彼はアレンの姿を見つけると険しい表情をふっと和らげた。
「ただいま戻った」
低い声が温室の静かな空気を震わせる。
アレンは彼に向かって小走りで駆け寄った。
彼の大きな胸にためらうことなく飛び込む。
ヴィルヘルムの強い腕がアレンの腰をしっかりと抱き留めた。
王都からの長旅の土埃の匂いが微かにする。
しかしその下にある冷気を帯びた香りはあの頃のままだ。
「お帰りなさい」
「予定よりもずっとお早いご帰還ですね」
アレンが顔を上げて微笑むと彼も優しく目を細めた。
「君に一日でも早く会いたくて馬を急がせたのだ」
堂々と甘い言葉を口にするようになった彼にアレンは照れる。
「公爵様ともあろうお方がみっともないですよ」
冗談めかして言うと彼はアレンの額に深く口づけをした。
「君の夫としての役目の方が私には遥かに重要だ」
二人は腕を組んで温室から続く日当たりの良い中庭へと歩き出した。
純白のテーブルセットにはすでに熱い紅茶が用意されている。
アレンは彼の向かいの席に座ってティーカップを手にした。
「王都での会議はいかがでしたか」
「相変わらず退屈な権力闘争の連続だったよ」
ヴィルヘルムは少しだけ疲れたように苦笑した。
「だが君が開発した新しい魔術の成果は高く評価された」
「領地の収穫量が劇的に向上したからな」
彼の誇らしげな言葉にアレンは胸を熱くした。
自分が彼の重荷ではなく力になれていることが何より嬉しい。
「私の魔術はあなたの強大な魔力があってこそです」
「私たち二人の絆が生み出した成果ですよ」
アレンがそう言うと彼はティーカップを置いてアレンの手を握った。
「君に出会えて私は本当に幸運だった」
「孤独だった私の人生に君が確かな光を与えてくれた」
銀色の瞳には深い愛情が宿っている。
かつての氷の教師の面影はアレンの前にだけは存在しない。
アレンは彼の手を握り返して幸せを噛み締めた。
「私もです」
「あなたなしの人生などもう考えられません」
二人は見つめ合って静かな午後の時間を共有した。
かつては他人の目を気にして息を潜めて生きていた。
しかし今の彼らには何も恐れるものはない。
試練を乗り越えて手に入れた揺るぎない確かな未来だ。
夕暮れが近づき空が美しい色に染まり始めた。
ヴィルヘルムが立ち上がってアレンに手を差し伸べる。
「部屋へ戻ろう」
「長旅の疲れを君に癒してほしい」
彼の甘く低い声にアレンの頬が微かに赤く染まる。
アレンは彼の手を取って微笑みながら立ち上がった。
「ええ」
「喜んでお供します」
二人の長い影が庭園に一つに重なって伸びていく。
彼らの刻む穏やかで愛に満ちた時間は永遠に続いていく。




