第11話「雪夜の逃走と限界の境界線」
吸い込んだ冷気が肺を刺した。
アレンは深い雪の中を足を引きずって進んだ。
冬至祭の華やかなざわめきは遠ざかっている。
美しい光も優雅な音楽もここには届かない。
学園の敷地の最も外れにある深い森の中だった。
礼服の薄い靴が雪に沈んで皮膚の感覚を奪う。
しかし身体の奥で燃える熱は冷めなかった。
むしろ雪の冷たさが内なる熱を煽り立てる。
体内で熱が渦巻いていた。
足がもつれてアレンは雪の上に倒れ込んだ。
冷たい雪が熱い頬に当たってすぐに溶けていく。
「はぁっ」
「くそ」
喉の奥から低い呻き声が漏れた。
抑制剤に対する抗体ができたわけではないのだ。
薬は普通のαに対しては完璧に効いている。
ただ一人彼に対してだけ効力を発揮しない。
ヴィルヘルム・クレイグの存在そのものが毒だ。
彼と真っ直ぐに目が合うだけで本能が暴れ出す。
彼に直接触れられた瞬間に理性の糸が焼き切れた。
運命の番という強烈な引力だった。
これ以上自分の本能から逃げ続けることは不可能だ。
肉体も精神も限界を迎えつつあった。
アレンは雪まみれになりながら震える身体を起こす。
木立の奥に古い石造りの小さな建物が見えた。
今は使われていない学園の古い礼拝堂だ。
ステンドグラスは割れて木の板が打ち付けられている。
アレンは重い木の扉を押し開けて中に転がり込んだ。
堂内は外の雪景色よりもさらに冷え切っていた。
埃と古いカビの匂いが微かに空間に漂う。
アレンは祭壇の暗い陰に身を隠すように小さく丸くなった。
膝を抱えて自分の身体を両腕で強く縛り付ける。
顎が震えて不気味な音を鳴らした。
冬の寒さから震えているわけではない。
彼を求める衝動が限界を超えて悲鳴を上げている。
早く彼に捕まって噛みつかれたい。
彼の気配で全身を隈なく塗り潰されたい。
そんな欲求が頭の大部分を支配していく。
自分が自分という人間でなくなっていく恐怖があった。
ただ本能に従う存在に成り下がる。
人間としての尊厳が崩れていく。
アレンは両手で強く耳を塞いで必死に耐え凌いだ。
どれくらいの時間が暗闇で経ったかわからない。
不意に礼拝堂の重い扉が軋む音を立てて開いた。
雪を踏みしめる静かな足音が中に入ってくる。
アレンの鼓動が警鐘を鳴らして跳ね上がった。
暗闇の中でもその気配だけで誰か確信できる。
冷気を帯びた彼特有の重圧が堂内を満たした。
ヴィルヘルムだった。
彼は真っ直ぐにアレンの隠れる祭壇へと歩いてくる。
暗闇など彼には障害になっていないようだ。
足音は祭壇の数歩手前でピタリと止まった。
それ以上アレンとの距離を詰めようとはしない。
「こんなところに隠れていたのか」
彼の低い声が暗い礼拝堂に静かに響いた。
アレンは呼吸を止めて身を小さくすくませた。
声を聞いただけで下腹部が熱くうずく。
「来ないで」
「お願いだからあっちへ行ってください」
涙声で必死に拒絶の言葉を喉から絞り出した。
ヴィルヘルムはそれ以上近づかなかった。
「君の匂いがあの大広間を満たしていた」
「他のαが気づく前に私がすぐに追ってきた」
彼の低い声には微かな震えが混じっている。
荒い息遣いが暗闇に響いた。
彼もまた強大なαとしての本能と戦っている。
目の前に発情した運命の番が倒れているのだ。
理性を保っていること自体が奇跡に近かった。
「私の顔を見ろ」
「エルディス」
命令するような重い響きにアレンは恐る恐る顔を上げた。
暗闇に目が慣れて彼の姿がぼんやりと見えてくる。
彼は自分の分厚い黒い外套を静かに脱ぎかけていた。
それを床を滑らせてアレンの足元へと正確に投げる。
「それに包まって身体を少しでも温めろ」
「私はここで背を向けて扉のそばで待っている」
「学園の専属医を今すぐこちらへ向かわせている」
アレンはその言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
彼はアレンの本能に付け込んで抱こうとはしていない。
医者にアレンを任せて自分は身を引くつもりなのだ。
「彼らが来たら私はすぐにここを立ち去る」
「これ以上君を苦しめるつもりはない」
ヴィルヘルムは本当にアレンに対して背を向けてしまった。
アレンの視界から彼の顔が見えなくなる。
その大きな背中がどこか遠くへ消えてしまう気がした。
アレンの胸の奥で鋭い痛みが不意に弾けた。
発情の苦痛とは違う一人の人間としての痛みだ。
彼を失うことへの恐ろしい恐怖だった。
本能ではなくアレンの心そのものが彼を求めている。




