第一章 『絶望の底で』
果てしない暗緑色の海。
高い波が全ての岩を砕き、生きては帰れぬ潮流が渦巻く。
(どこだここは!? 何も見えない。俺は水の中にいるのか!?)
意識を取り戻した直後、男は反射的に口を手で押さえた。
己の置かれた状況を悟ると、彼は必死に上へと泳ぎ始めた……。
だが、彼は死んだ。
頭上には響く波の鈍い轟音、そして底には恐ろしいほどの静寂。
光の一筋すら届かない最深部には、ただ海藻が生い茂っている。
それらは通りかかる生き物を捕らえて絞め殺し、その肉を喰らって肥え太る。
その傍らには、無数の「繭の蕾」が群生していた。
海藻は、海底から抜け出せなかった者たちの、ぐったりとした遺体をそこへ丁寧に引きずり込んでゆく。
ぬめりを帯びた壁が閉じる。
すると――その遺体は再び息を吹き返し、心臓がドクリと最初の脈動を刻む。
繭の鼓動と同調するようにして、脈打ち始めるのだ。
闇の海の中で、人々は生まれ、そして生まれ変わる。ただ、再び上へと這い上がるために。
だが、ほとんどの場合、人は水面に達するまで持ちこたえられず、溺れ、死ぬ。
そして、その死の循環を繰り返すのだ。
(もう少し――もう少しで出られる……!)
それが、男が意識を失い、再び死ぬ直前に抱いた最期の言葉だった。
海藻は再び、息絶えたその遺体を捕らえ、最も近い繭へと深く引きずり込んでゆく。
繭の内部は粘性に満ちた環境が鍛冶場のように機能し、彼の肺を修復し、筋肉を鍛え上げるのだ。
死の循環を重ねるたびに、その肉体はより強く、より苛酷に耐えうるものへと変貌していく。
まるで海そのものが、いつかこの荒波を従えるべき存在へと、彼を研ぎ澄ましているかのように。
(光――)
だが、海底から浮かび上がったところで、男は、唯一無二の岸へと泳ぎ着かねばならなかった。
それは山の麓に広がる岸。その頂は、目を凝らしても見えないほど高くそびえている。
果てしない波の連続が顔面を打ちつけ、呼吸さえも許さない。
潮の塩分が瞳を灼き、水に濡れ、色を失った皮膚が剥がれ落ちてゆく。
幾重にも重なったその下から、繭の中で鍛え上げられた新しい肉が露わになった。
(岸が見える――)
だが、陸地に届く間もなく、力尽きた男はゆっくりと沈み始める。
腕は言うことを聞かず、肺は再び塩水で満たされて痙攣を引き起こす。
岸は、永遠に届かぬ場所のままだ。
そして男は、またしても死を迎えた。
運命のいたずらか、強い潮流が名もなき男の遺体を海岸へと運び去った。
岩場や鋭い礁に打ちつけられ、海の住人たちに喰い荒らされ、海藻が絡みつく。
だが、それでも潮流は彼を岩の多い岸辺へと打ち上げた。
息絶えたその肉体は、赤い砂と、刃のように尖った白い小石の上に横たわっている。
石は容赦なく肉を裂き、引き波とともに、海からは赤黒い筋が伸びていく。
その男は髪は明るいブラウンで、ハリネズミのようにツンツンと逆立っている。全体的に無造作で、額にかかる前髪は隙間があり、おでこが完全には隠れていない。
すらりと背が高く、引き締まり、適度に筋肉のついた体躯。
男の瞳は、暗い雲の向こうに白く輝く太陽が隠れる、濃い紫色の空を捉えていた。
やがて時が経ち、心臓が再び動き始め、徐々にその鼓動を速めていった。
だが、完全に目を覚ますより先に、男は眠りに落ちた。
いや、それは悪夢だった。
鋭いサメの歯が生きながら内臓を引き裂く。
渦に巻き込まれ、同じ岩へと何度も叩きつけられる。
高い波が彼を持ち上げ、水面へと叩きつける。
その繰り返し。
突然、男は恐怖に満ちた表情で目を覚ました。
耐えがたい痛みに、叫び声が漏れる。
身体が痙攣し、ねじれ、弓なりになった。
発作が収まると、彼は自分の手で体を確かめた。
すべての部位が無事であることを確認し、安堵の息を吐き出した。
立ち上がろうとして、彼は手のひらを地面につけた。
その瞬間、鋭い小石が掌を裂いた。
「俺は死んだはずだ……なのに、まだ生きているのか? 」
痛みを堪えながら、それでも男は両足で立ち上がり、未知の世界へと最初の一歩を踏み出した。
数十歩先には、赤錆びたようなオレンジ色の木々が、豊かに葉を茂らせていた。
波の音、葉擦れの響き、そして己の息遣いと呻き声だけが、この静寂を破っていた。
だが、森へと向かう道半ばで、誰かが彼を呼び止めた。
(――二人の声で)
「そこは危ない! 待ってくれ! 」
二人の男のうちの一人が、そう叫んだ。
彼らは槍と網を手にしており、身に着けているのは腰と足首を包む獣の皮だけだった。
男たちは落ち着いた足取りで近づき、そのうちの一人が親しげに手を振っている。
「ここはどこだ!? 教えてくれ! 」
男は、彼らとの距離が半分になるよりも早く、そう叫び返した。
だが、返事はなかった。
彼は森へと足を速めた。
力の続く限り早く歩き、傷口からは一歩ごとに血が地面に滴っていく。
「おい! 助ける! このままだと出血死するぞ! 」
見知らぬ二人は声を揃えて叫び、一斉に駆け出した。
つい数分前まで、やっとの思いで立ち上がることができたばかりの男に向かって。
森までは、あと十歩もない。
だが、逃亡者の両足が激しく震えだした。
男は地面へと倒れ込み, その背後に赤黒い筋を残してゆく。
「嫌だ……俺は、生きる……!」
残された最後の力を振り絞り、彼はそう叫んで、昏い意識の底へと墜ちていった。
完全に理性を失う直前、彼の耳に最後に届いたのは、そんな声だった。
『お前は死ぬ……だが、今ではない』
「おい、こいつの首を見てみろ。こんなの、他の誰かで見たことがあるか?」
一人の男が、一分前に意識を失ったばかりの生存者の首筋を、凝視するだけでなく、指先で確かめ始めた。
その首には、棘を持つ細い枝のような、黒い紋様が絡みついている。
だが、相棒にとっては、そんな観察などどうでもいいことだった。
彼は仲間に向かって縄の網を投げつけ、低く吐き捨てる。
「まごまご見てんじゃねえ、仕事の時間だ」
***
未だ完全に目を開けきらぬまま、犠牲者の体躯は左右へとふらふらと揺れていた。
視線を下へと向けた瞬間、男は息を呑んだ。
彼の両足は、膝より上から切断されていた。
恐怖のあまり、残された部位に触れようと反射的に体を動かしたが、何もできなかった。
鋭く首を左へ、そして右へと巡らせた彼の目に飛び込んできたのは、両腕もまた切断されているという現実だった。
息が詰まり、心臓が狂ったように脈打ち始める。
男は狂乱し、残された肉体を必死に動かそうと、ただ絶望的にのたうち回った。
「あいつ、こんなに早く目覚めるはずではなかったのだが……」
男の背後、魚網のなかに吊るされた囚人が猛然と絶叫した。
野蛮人たちはピタリと足を止める。
相棒は、その腹部へ容赦なく渾身の拳を叩き込み、彼を海岸へと投げ捨てた。
のめり込むようにして、男は地面から一掴みの砂利を拾い上げた。
手のひらから溢れんばかりの小石を、哀れな犠牲者の口内へと手荒に突っ込む。
囚人は痛みに悶え、なおも叫ぼうとした。
だが、一人がその顎を力任せに締め上げ、もう一人が頭部を完全に押さえつける。
周囲に響くのは、ただ押し殺された、くぐもった呻き声だけだった。
やがて囚人が力尽き、抵抗を止めると、ようやくその拘束が解かれた。
大きく開かれた口から、血とともにボロボロと小石がこぼれ落ちる。
無慈悲にも、哀れな男は再びその背中へと放り込まれた。
(クズどもが……獣じみた、無慈悲な屍喰いども! 溺れ死にやがれ、このクソ野郎ども! 痛い……痛い……なんて地獄の苦しみだ、内臓がぎゅっと固く結び目になったようだ。胸が焼けるように熱くて、息すらできない。体が痺れ、顎が引きつり、俺の意識が……俺は踏ん張ってる、気絶なんてしない、いや、いや、倒れない……)
野蛮人の一人が「飯の仕込み」を終えると、地面に突き刺さっていた長い槍の柄を直した。
それから、四肢を失った囚人を荒々しく持ち上げ、鋭く尖った矛先へとそのまま突き刺したのだ。
胸を無惨に貫かれた哀れな男には、もう叫ぶ力さえ残されていなかった。ただ、くぐもった音を立てて血を吐き出すことしかできない。
だが、血の膜に染まったその瞳には、死の気配など微塵もなかった。
そこにあったのは、純然たる怒りだ。
男は目の前の野蛮人を凝視し、その顔の皺一つに至るまで、脳裏に焼き付けていた。
もう彼には、再び昏い意識の底へと墜ちていくことしか残されていなかった。
(お前にも、味わわせてやる……生きたまま肉を焼かれる、その痛みをな)
音にならぬ言葉が、彼の唇をかすかに揺らした。
野蛮人の一人が「獲物の仕込み」を終えると、地面に突き刺さっていた長い槍の柄を直した。
それから、四肢を失った囚人を荒々しく持ち上げ、鋭く尖った矛先へとそのまま突き刺したのだ。
胸を無惨に貫かれた哀れな男には、もう叫ぶ力さえ残されていなかった。ただ、くぐもった音を立てて血を吐き出すことしかできない。
だが、血の膜に染まったその瞳には、死の気配など微塵もなかった。
そこにあったのは、純然たる怒りだ。
男は目の前の野蛮人を凝視し、その顔の皺一つに至るまで、脳裏に焼き付けていた。
もう彼には、再び昏い意識の底へと墜ちていくことしか残されていなかった。
「いつかお前も知るだろう…生きたまま焼かれる痛みを。」
声なき呟きが、彼の唇をかすかに震わせた。




