ヒトとカタチ
黒い意識が私の精神をに塗り潰すと同時に、私の身体から質量というものが抜け落ちたのを感じた。軽くなる身体。解放感は無い。
有るのは失った質量と同量の絶望と空虚感。
暗い、寒い、怖い。
底知れぬ恐怖心が私を満たしパニックを引き起こす。
――――!!
死の間際の記憶が感覚を伴いながら幾度となく思い出され、私は転がるように床に伏せた。胸を抱くように身体を丸め震える身体を抑えつけたところで気休めにもならない。
なんで。
なんでこんな事が……。
死んでまでこんなに苦しい思いをしなければいけないのか。
解放されたいのに。どうすればいいの。わからない。ああああ――
「日ノ枝、さん……」
縋るように視線を向ければ、私同様に蹲っていた朱莉ちゃんが乱れた髪の隙間から私を見ていた。恐ろしく青く疲弊しきった顔で。
「日ノ枝さん、お、落ち、落ち着いて、ください……」
必死に言葉を伝えようとする朱莉ちゃんだが、頭が不規則に揺れ、身体も常にどこかしらがガクガクと震えている。彼女の身体に異変が起こっている事は明白だ。それでも彼女は私の目を見据え、落ち着けと言い聞かせた。
有無を言わせぬ鬼気迫る表情は朱莉ちゃん自身にも余裕が無い事を伺わせる。
茫然と動きを止める私の目の前で朱莉ちゃんは奇妙な行動をとり始めた。着ているワンピースの前ボタンを片手で外すと脱皮するような這う動きで服を脱ぎだした。
五分の袖から腕を抜き、細身の上半身と白の下着が露わになる。それでも構わずといったように朱莉はブラのホックを片手で外す。何度も失敗を繰り返しながらそれは半ば壊すような強引さで成された。弾けるように布が開いたと同時に現れたのは白い背に浮かぶ醜悪な傷だ。火傷の痕のようにも見えるし、刃物で切り付けられたような傷にも見える。おそらくはそれら想像の全てか。様々な痣と傷痕が混在している。傷に傷を重ねた背だ。
しかしそこには妙に真新しい痕跡があった。
それは水ぶくれのように膨らんでおり突けば破れ中の水分が溢れ出てきそうだった。ただの水ぶくれと違うのはその大きさだ。足や手の先にできるものとは明らかに違う。幼児の握り拳ぐらいの大きさはあるだろうか。
……っ!
私は思わず顔を逸らしていた。目に映っソレがあまりにも嫌悪と恐怖の感情を掻きたてられるものだったからだ。
コノ カラダ イゴコチ イイ。
水ぶくれが言葉を発した。ツルリと皮の張った状態から萎みシワが人の顔を形作る。
ホシイ ゼンブ ホシイ
水ぶくれは言うなり震えだした。
「うあ……っ!!」
強張っていた朱莉ちゃんの身体がビクリと跳ねた。痛みによるものか上体が急激に反り返ったかと思うと勢いよく床に叩きつけられ、間を置かず朱莉ちゃんの身体が見えない何かに引っ張られ床をスライドし始めた。まるで床の下から磁石で操られているかのようだ。引き摺り回され壁や家具に身体を打ちつけてはその度に苦悶を押し殺した声が洩れる。私は助けるでもなくただ視線を彼女に向けていた。
とても恐ろしい目に遭っている。しかし朱莉ちゃんの目は絶望に染まってなどいなかった。引き摺られる中、その手には先程まで握られてなかったものが握られていた。先程私が床に落としたままだった包丁だ。それでいったい何をするというのか。
朱莉ちゃんは引き摺られる動きが止まった一瞬の隙を見て、包丁の持ち手側の角を使って自分の背中を切りつけた。
水ぶくれの弾ける音と共に朱莉ちゃんのものとは違う断末魔の叫び声が聞こえてきた。
「あああ!」
いや朱莉ちゃんも悲鳴を上げていた。
私は今の行動に意味を見いだせないでいた。しかし、彼女が切りつけた傷を見ると丁度あの水ぶくれのあったところが潰れていた。膨らみ余った皮がパックリ破れ、中から血を多く含む水分が洩れ出ている。不思議と彼女の身体を引き摺る動きが止んだ。
なにがどうしたというの?
疑問に応える声は無い。しかしその直後、朱莉ちゃんにとり憑いていた筈の女の霊が背後に浮かび上がり、何か言いたそうな顔を朱莉ちゃんに向けそのまま足元から霧散していった。
流れにして一瞬の出来事で、私は自分の状況を忘れてポカンとしてしまった。
降りた沈黙に先に呟いたのは朱莉ちゃんだった。
「……アレに、出会ったのは最近でした」
荒い息を整えるように彼女は呟いた。それが私に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。
「関わってはいけないと思っていたのです。でも、しっかり〝ついて〟きていたようです」
ようやく、身体の主導権を取り戻したのか、朱莉は緩慢な動きで身体を起こす。途中痛みに顔を顰めながら、零れる衣服や露わになる肌も気にせずに。傷口を指先で触って確認しながら。
「私の身体は幽霊が見えるだけではなく幽霊を惹き付けやすい体質のようです。そして、私の身体に乗り移った幽霊は先程のような人面瘡として現れます」
その人面瘡を傷つけたらどうなるのか。
「私の身体からはいなくなります。強制的に成仏させられるのか、存在そのものが消えて無に還るのかは解りません。ただ、二度と会う事は無くなります。今までがそうでしたから」
恐ろしい体験の後で気が昂っているのか彼女はいつも以上に饒舌だ。
存在、か……。
私はお腹の奥に鉛でも沈んでいるかのような気持ちになった。いっそ皆の前から消えてしまえたらなんて、何度考えた事があるだろう。幽霊からしたらそのまま存在し続けるのと消えてしまうのとではどちらが良いのだろうか。私なら、……そうだな、多分――。
不意に、朱莉ちゃんの息を呑む音が聞こえた。
「日ノ枝さん、身体が……」
え?と私は言葉を返し膝立ちになっていた自分の身体を見下ろす。
気付けば、私の身体は大きな異変に晒されていた。身体中の凹凸が溶解し原型を崩しかけていた。溶けた始めたソフトクリームがイメージに近いかもしれない。あまりにも脈略が無くあまりにも唐突過ぎる。しかしたび重なる異変に襲われ続けた私は驚きに対する感覚がマヒしてきているのかもしれない。私はただ不思議そうにそれを眺めていた。特に痛みはないが、身体が中心に向かって収束されるような感覚があり少し不快だ。しかしこのフォルムはマトリョーシカみたいだなと、自虐にも似た苦笑が漏れる。
スタイル、良い方だったんだけどな……。って、んん?
――――。
私は自分の頭の中で自分をイメージすることができなくなっていた。動いていない筈の心臓が高鳴った気がした。ドクンと確実に悪い意味で。
私は私の容姿が思いだせない。身長は、体重は、髪の長さや腕の細さ、肌の色は?
言葉にできない不安感が心の底で噴き出し急速に焦りだした私は必死になにかを思いだそうとする。
「日ノ枝さん……」
日ノ枝?それが私の名前?
「日ノ枝さん。以前にもこういうケースはありました。仮説ですが、幽霊は自分を失えばこの世に存在できなくなるのではないでしょうか。だからこそ生きた人間の身体を欲しがるのかもしれません」
私は自分の原型すら忘れようとしているのか。
理由だけはしっかりと頭に残っている。誰にも知られること無く一人死んでいく記憶があまりにも辛く苦しかったから。自分の姿は忘れても、この記憶だけは無くならないから困る。
「自分を強く持ってください。日ノ枝さん。私はそれまで何度もこの名前を呼びます」
私にどうしろと言うのか。私は多分、このまま消滅を待つだけの存在になったのだ。
「思い出してください日ノ枝さん。先程までなんの障害も無くこの場に存在できていたことを」
日ノ枝、日ノ枝、と彼女は何度も私の名前を呼ぶ。私が自身の名前を忘れないように。
私が仮に存在を赦されたところで、それでどうするのかという気持ちもある。この世に私が留まる理由なんてない。だって、だって私は――
「自分という存在を強く意識し、思いだしてください。認めて下さい。自分がこの場にいることが当たり前なんだと」
無理だよ!
私は、生きていた時ですら自分の存在など認めていなかった!
私は叫んでいた。叫べていたのだろうか。
それでも、朱莉ちゃんの身体がビクリと震えたのは分かった。
家族とも、学校のクラスメイトや職場の同僚とも、常にズレを感じていた。自分は醜いアヒルの子にでもなった気でいた。私が居て当たり前の場所なんてどこにも無いんだと、自暴自棄になって、そして……
一人で死を選んだんだ。そうだ、私は消えたかったんだ。どこからも。この世からも。だからいっそ、このまま――。
その時、私の身体は強く抱きしめられた。
「日ノ枝さんの原型はこうですか?」
霊体である私に触れられるのかという驚きもあったが、この子は特異体質だ。
白く細い手が私の後頭部とも首とも背中とも分からない部位を摩る。
「頭はこう、首はこう」
手で私の身体を捏ね回し、形を整えようとする。私は呆気にとられている。
「……私も一緒です」
嘘だ。上辺だけの同情なんていらない。
私は反射的に朱莉ちゃんの言葉を突っぱねた。それでも朱莉ちゃんは、怒った顔はしなかった。耳の傍で囁くように朱莉ちゃんは言った。
「この体質のせいで周囲には随分と避けられました。突然人格が入れ替わったり、奇行に及んだりしていましたから、当然ですね」
私を摩る手の動きが止まる。昔を、思い出しているのだろうか。
「父は家を出ていき、母は気味の悪い娘と二人きりになり気を病みました。そしていつだったか、私の背中に人の顔が浮かび上がっていることに気付き衝撃を受けました。五人か六人ほどの顔が私の背中に浮かび上がりさざめいていたのです」
僅かな震えが私の身体に伝わる。私も、言い知れぬ感情に身動きをとれないでいた。
「半狂乱になった母はカッターナイフで私の背を切りつけました。一人ずつ、確実に顔を潰していったんです」
淡々と喋る彼女は、いったいどんな感情で話しをしているのだろう。
「気付けば私は病院のベッドの上にうつ伏せに寝かされていました。あとで警察の人が来て、母には会わせられないと言われました。それが私の母との最後の記憶です」
朱莉ちゃんの手が私の顔を両手で挟んでホールドする。正面から視線を合わせるように。まるで無感情だと思われていた彼女の目には涙が浮かび、長いまつ毛が上下する度に零れ落ちていった。
「自分語りが長過ぎました」
そう言って肩で涙を拭う。
「それから後も、背中に顔が浮かび上がる度に私は自分で自分を切りつけました。でも、それでもです。私は死にたいと思った事はありませんでした」
どうして? と、疑問が口から自然に漏れる。
「夜明けを待っているのです」
……?
「私の名前は朱莉。この朱とは夕暮れの朱ではなく朝焼けの朱だと幼少時代、両親から教えられました。私が両親から唯一貰ったものです」
夜は、夜明け前が一番暗いと、誰かが言っていた気がした。
「今がその真っ暗な状態なら、きっと、朱の光りが空を満たすのもそう遠くないのだと、信じていますから」
朱莉ちゃんの目に、もう涙は無かった。強い意志の籠った目で私を見つめてくる。
どやぁって感じだ。
……ほんと、参ったなぁ。
「日ノ枝さん?」
不幸エピソードまで朱莉ちゃんには敵わないんだからなぁ……。しょうもない事に絶望して自分より不幸な人間に器の違いを見せつけられるなんて、立場が無いよ。
ここで自身の消失を認めたら、本当にちっぽけで惨めな人間ではないか。
朱莉ちゃん。
「はい、日ノ枝さん」
朱莉ちゃんには、私が必要?
言うと、朱莉ちゃんが目を丸くした。朱莉ちゃんのキョトンとした顔はなんだか貴重可愛い。
「いえ、それほど」
いやそこは「はい」と言おうよ!?
「でも、一緒に過ごした時間は、楽しかったです」
…………。
誰かに一緒に居て楽しかったと言われるのは、今までの記憶では思いだせないな。もしかしたら始めての事かもしれない。
私は朱莉ちゃんの顔に手を伸ばした。そう、手だ。私の手だ。こんなドロドロではなくて細いんだ。そして綺麗な爪の形だけが自慢の手だ。朱莉ちゃんの頬は思っていた以上に温かみを感じる。そうだ。私もこのくらいの体温があった。いや、運動能力が皆無だからもっと低いか。私は徐々に自分というものを取り戻していく。記憶や足りない情報を朱莉ちゃんに補ってもらいながら。
そして
いつしか私は、元の姿を取り戻し、朱莉ちゃんを強く抱きしめながら声をあげて泣いていた。嬉しいのか悲しいのか、辛いのか楽しいのか、寂しいのか愛しいのか。いろんな感情が私のなかで渦巻き噴出しているのだ。朱莉ちゃんは私が落ち着くまでずっと体温を私に与え続けてくれた。
そうだ。私は、存在していても良いのだろう。誰でもない、私がそれを赦し、許すんだ。




