ブルースは〝ウィルス〟じゃなくて〝ウィリス〟だから!
「私には普通の人には見えないものが見えるんです」
彼女がそう口にすると部屋の空気が一気に冷え込んだ気がした。私は本能的に危機感を覚えたのかもしれない。彼女の目が何処までも吸い込まれそうな色をしていたからだ。目があった人間の全てを見透かすような、そんな妖しい輝きを秘めている。出会った当日に感じた不気味さの正体はこの瞳だ。
そしてその視線は私を通り越して背後へ向き、さらに左右に移動する。
なんだ?
周囲に向かって仕切りに視線を動かす朱莉ちゃんの仕草に堪らず質問するが返事は無く、朱莉ちゃんは無言で台所から包丁を持ちだした。
ひぃ!?
逆光を背に包丁を持って見下ろす少女の姿はとても恐ろしいものだった。
「日ノ枝さんはこれを……」
そしてなぜかその包丁を私に持たせてくる。
状況が呑み込めないとうろたえる私だが、状況は私を待たずに動いていた。
何かが軋む音が響いた。
朱莉ちゃんの背後でクローゼットのドアが揺れている。まさかと、私は驚愕に目を見開いた。ハンガーに掛けてある衣服と衣服の隙間から生白い手が緩慢な動きで生えてきたからである。さっき開けた時はなにもなかったはずだ。私の顔は恐怖に引き攣っていく。
這い出るような動きでソレは現れた。クローゼットから産み落とされたかのように一度床の上で転がると、ソレはゆっくりと立ち上がった。
朱莉ちゃん! 後ろ!
私は金縛りが解けたかのように言葉を発した。朱莉ちゃんは言葉に応じるように振り返るが女は少し目を放した隙に朱莉ちゃんの背後に立っていた。
…………!
朱莉ちゃんが振り向いた動きで固まったのがわかった。無理もない。顔が腐敗し崩れ落ちそうな女と呼吸を感じるような至近距離で目があったのだから。
時が止まったかのように、部屋に居るモノ全てが静止した。
そして沈黙を破ったのは私だ。
私の手には朱莉ちゃんから渡された包丁があった。
武器があるから強気になったのではない。仮の保護者としての使命感だ。私は包丁を手に朱莉ちゃんの横を通り過ぎ女へと突進した。刃物の切っ先はしっかりと相手に向けていた。
あああああああ!
湧きあがる恐怖を大声で抑えつけ放たれた渾身の突きは、抵抗を感じることなく女の身体をすり抜け、私は床に胸から倒れ込んだ。痛みよりも先に、ゾクリとした寒気が身体を駆け抜けた。いや、抜けてなどいない。身体に纏わりつくような悪寒に私は身体を丸め震えだした。抑えられない。自分の身体が自分の物で無くなったかのような錯覚すら覚える。寒い。そしてさらに女の身体をすり抜ける時に私の頭に黒い意識が流れ込んだのだ。
やだ……。 嫌だ……。
これは女の怨念なのか、とても黒くて暗くて冷たい……。私の視線の先で女が手をゆっくり持ち上げ、その手は朱莉ちゃんに向かって伸びていた。
朱莉ちゃん! 逃げて!
私の叫びなど聞こえていないかのように、朱莉ちゃんはピクリとも動かない。いったいどうして!?
女の手が朱莉ちゃんの首に巻きつく。
チョーダイ……。コノカラダ チョウダイ……。
そんな声が聞こえてきてゾクリとした。
女は朱莉ちゃんを抱き締めるように腕を回すと、急激に身体の腐敗が進んだように身体が崩れていく。そして同時に朱莉ちゃんの身体にも変化が表れ始めた。
「う……くっ……!」
顔や腕など肌の露出した所にその変化は見られた。紫の痣が急速に範囲を広げ始めたのだ。
「あぁ……!!」
女の身体が完全に崩れ去ると同時に、朱莉ちゃんの身体も姿勢を崩し床に倒れ込んだ。
私は床を這うようにして近づくと朱莉ちゃんを抱き起こす。
朱莉ちゃん!!
腕の中で荒く呼吸する朱莉ちゃんの額には大粒の汗が浮かび、恐ろしいほど高熱を発していた。私はどうすればいいのだろうか。動転した頭が全ての思考を空回りさせている。それでもなんとか考えを捻りだすと私は動きだしていた。
朱莉ちゃんを横たえ、台所に向かう。まずは冷やさないと。私は手近にあった水に飛び付いたのだ。台所の蛇口を捻りその辺にあった布巾かタオルを引っ掴む。近くでコップなどの食器がガシャンと音を立てて割れるが今は気にしない。後で怒られる事は確実だが、今はその怒る相手がピンチなのだ。蛇口を捻り、出てきた水に掴んだ布を浸す。その時蛇口が弾け飛んで水が噴水のように噴き上がったが私は気にしない。
焦る私は降り注ぐ水をものともせずに朱莉ちゃんのもとに走り出す。しかし――
ビチャリと足元で音がした。
見れば私が手に持っていたはずの布巾が床に落ちている。
え?と自分の手を見てみれば、しっかり握ったと思っていた手は空の状態だ。動揺しているのだろうと自分に落ち着くように言い聞かせ再びそれを拾おうとするが、
あれ? あれれ?
私の手は何度も布巾の付近を空振りする。いやいやダジャレを言っている場合ではない。距離感が狂っているのではない。私の手は確かに布巾に触れている。しかし、布巾は持ちあがることなく私の手をすり抜けるのだ。
あ、ああ……
身体を再び寒気が襲う。あの時感じた悪寒も、今感じているこの寒気も、あの女が自分にもたらしたものだ。しかし、あの時流れ込んできたドス黒い死のビジョンは本当にあの女のもの……? もしかして私は……。私は気が狂いそうなほどの焦燥を胸に周囲を見回す。苦悶に美しい顔を歪め、うずくまる朱莉ちゃんがいる。そしてその周辺の風景がフラッシュバックと共に景色を変える。内装が一気に古ぼけ、見覚えの無い家具、開け放たれたドアや引きだしは一緒だが、その周辺の窓やカーテンが不規則な割れ方破れ方をしている。ここは私の知る部屋ではなかった。いったいこれは、なにが、どうして、なんだ、これは……?
そしてさらに呼び起こされる記憶は朱莉ちゃんの今までの言動だ。
『私には普通の人には見えないものが見えるんです』
普通の人には見えないモノとはなんだ。
『この惨状はなんですか? 日ノ枝さん』
私が触ろうとしたガラスや身の回りの物は不思議とよく破裂する。
『前々から荷物を送っておきましたから』
朱莉ちゃんが引っ越して来た時、私の家には私の知らない荷物が届いてあった。
『突然黙られると怖いのですが』
朱莉ちゃんは何に対して怖いと思ったのか。
なにかの映画で見た事がある。
〝○○は自分に都合の悪いモノは見えない。見ようとしない〟と。
突如一変したこの荒れ果てた部屋はなんだ……。
ああ、あ……
クライ、サムイ、コワイ……
ああ、そうか……私は……
私はもう、死んでいたんだ。
全ての記憶が蘇り、急速に私の心をドス黒い物で埋め尽くした。




