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婚約破棄された完璧令嬢は、微笑みのまま王都を去る~王太子に選ばれなかった私が、自由を手に入れるまで~   作者: カルラ


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第九章 奪ったのは誰か

リディアが公爵邸を訪れた翌週、アデライドは王立慈善院の創設五十周年式典へ招かれた。  

婚約を破棄されたあと、彼女が王家主催の行事へ出席するのは初めてだった。  

招待状を受け取ったコンラートは欠席を勧めたが、アデライドは応じなかった。  

王太子の元婚約者となったからといって、十年間続けてきた慈善活動まで捨てる理由はない。  

それに慈善院の給水設備を刷新したのは、彼女の提案とグランフェルト公爵家の資金によるものだった。  

アデライドが姿を見せなければ、病気で伏せている、あるいは社交界から逃げたと噂される。  

どちらも事実ではない。  

式典当日、彼女は公爵家の色である濃紺のドレスを選んだ。  

王太子の婚約者として好んでいた白と青ではない。  

胸元に飾ったのも白鷹ではなく、グランフェルト家の双剣を模した銀細工である。


「よくお似合いでございます」  


髪を整えながら、マリアンヌが言った。


「以前は似合わなかったと?」

「以前のお嬢様は、王家の色ばかりお召しでしたので」

「必要だったのです」

「本日は必要でなくなった」

「ええ」  


アデライドは鏡の中の自分を見る。  

濃紺は白い肌と淡い髪を際立たせ、冷たいほど端正な印象を与えた。  

王太子の隣に立つための装いではない。  

それでも、思っていたより悪くなかった。



慈善院の前には、多くの馬車が並んでいた。  

貴族だけでなく、寄付を行っている商人や教会関係者も招かれている。  

アデライドが玄関へ降り立つと、人々の会話がわずかに途切れた。  

すぐに礼儀正しい挨拶が交わされるものの、その目には好奇心が隠れている。  

婚約破棄された公爵令嬢。  

捨てられた未来の王妃。  

彼女が泣き腫らした顔で現れることを期待していた者もいるだろう。  

アデライドは一人ずつ名前を呼び、微笑み、相手の家族や領地の近況を尋ねた。  

誰より平然としていることが、最も優れた反撃だった。


「アデライド様」  


聞き覚えのある声に振り返る。  

エリオット・ヴァレン中尉が、二人の兵士を連れて立っていた。  

式典の警備を任されているらしい。


「ヴァレン中尉」  


アデライドは軽く頭を下げた。

「先日は、馬車の手配をありがとうございました」

「当然の務めを果たしたまでです」

「お仕事中でしたね」

「いえ」  


エリオットは周囲を一度確認し、声を落とした。


「お元気そうで、安心いたしました」

「わたくしが病に伏せているとでも?」

「そういう意味ではありません」  


彼は困ったように眉を寄せる。  

アルベルトと同じだ。  

言葉を選びながら、結局は相手に察することを求める。


「ご心配には及びません」  


アデライドは微笑んだ。


「わたくしは元気です」

「はい」  


エリオットは姿勢を正した。

「本日の給水設備の披露を、兵士たちも楽しみにしております」

「兵士が?」

「南部駐屯地でも、同じ濾過方法を使えないか検討されております」

「それは何よりです」  


給水設備はアデライドが二年前から進めてきた計画だった。  

砂、木炭、砂利を何層にも重ね、井戸水の濁りを除く。  

王都の慈善院で成果が出れば、地方の施療院や軍の駐屯地へ広げる予定だった。  

婚約破棄によって王宮の役職を失っても、彼女が行ったことまで消えるわけではない。


「アデライド様が王妃になられれば、国は安泰だと、今も思っております」  


エリオットは真剣な顔で言った。  

近くにいた兵士が、慌てて上官を見た。  

アデライドも一瞬、返事を忘れた。  

公の場で口にするには、あまりに危うい言葉である。


「中尉」

「失礼いたしました」  


エリオットは頭を下げた。


「忘れてください」

「聞かなかったことにいたします」  


アデライドは歩き出しかけ、足を止めた。


「ありがとうございます」  


小さく告げる。  

エリオットは顔を上げたが、彼女はもう前を向いていた。



式典の会場には、アルベルトとリディアも来ていた。  

二人を見た瞬間、アデライドの足はほんのわずかに鈍った。  

アルベルトは正装し、王太子として招待客へ挨拶している。  

その隣に立つリディアは、以前より礼の角度が整っていた。  

まだ完璧ではない。  

侯爵夫人へ挨拶する際、右手の位置が少し低い。  

人の流れを止めないための立ち位置も、半歩ほどずれている。  

気づく者は少ないだろう。  

しかし、アデライドには見える。  

自分なら間違えないことを、リディアは次々と間違えている。  

それでも人々は彼女を責めない。  

年配の貴族夫人が、扇の陰で何かを教える。  

リディアは素直に聞き、その場で礼をやり直した。  

夫人は満足そうに笑っている。  

アデライドが同じ年頃だったとき、失敗をすれば王妃から厳しく叱責された。  

未来の王妃が人前でやり直すなど、許されなかった。  

なぜ、この女だけが。  

その思いを表情へ出す前に、アルベルトがこちらへ気づいた。  

彼の目が見開かれる。  

リディアもアデライドを見て、わずかに緊張した。  

二人は相談するように視線を交わしたあと、そろって歩いてくる。


「アデライド」

「王太子殿下」  


アデライドは正式な礼を取った。  

アルベルトの顔に苦いものが浮かぶ。  

以前なら必要のなかった礼である。


「来てくれたんだね」

「慈善院より、正式な招待を頂戴しましたので」

「給水設備の完成、おめでとう」

「ありがとうございます」

「君が二年前から進めていた計画だ」

「よく覚えておいでですね」

「忘れるはずがない」  


アルベルトの声に含まれたものを、アデライドは見極めようとした。  

後悔。  

懐旧。  

あるいは罪悪感。  

どれであっても、今さら彼女の役には立たない。


「アデライド様」  


リディアが一礼した。


「先日は、お時間をいただきありがとうございました」

「こちらこそ」

「本日の設備について、あとでご説明いただくことはできますか」

「わたくしが?」

「はい」  


リディアは真っ直ぐにアデライドを見る。


「資料を拝見しましたが、濾過層を交換する時期について、分からない部分がございました」

「担当技師へお尋ねになっては?」

「もちろん、技師の方にも伺います」

「では、わたくしの説明は不要でしょう」

「この設備を作ろうと思われた方のお考えを、聞きたいのです」  


人前で拒絶しにくい頼み方だった。  

意図的かどうかは分からない。  

リディアなら無意識に行うかもしれない。  

だからこそ、余計に厄介だった。


「時間がございましたら」

「ありがとうございます」  


リディアが微笑む。  

喜びも、勝利もない。  

ただ、純粋に教えを請う者の顔である。  

アデライドは、それを見ていることに耐えられず、式典会場へ視線を向けた。  

ちょうど院長が登壇し、開会の挨拶を始めるところだった。



設備の披露が終わったあと、アデライドは慈善院の中庭でアルベルトと二人になった。  

意図して二人きりになったのではない。  

院長に呼ばれたリディアが席を外し、護衛も少し離れた位置へ下がっただけである。  

中庭の中央には、小さな噴水がある。  

設備を通した透明な水が、陽光を受けてきらめいていた。


「リディアと会ったそうだね」  


アルベルトが先に口を開いた。


「殿下へご報告なさったのでしょう」

「ああ」

「何と?」

「自分の考えを押しつけてしまったかもしれないと」  


アデライドは思わず笑った。


「あれほど質問ばかりなさったのに?」

「君に考えてほしかったんだと思う」

「何をです」

「君自身が、どう生きたいのか」

「殿下も、同じことをおっしゃるのですね」

「僕は言えなかった」  


アルベルトは噴水の水面を見つめた。


「ずっと、君に聞くべきだった」

「いつからですか」

「何が?」

「いつから、わたくしとの婚約を望んでおられなかったのです」  


アルベルトの肩が固くなる。  

アデライドは視線を逸らさなかった。


「リディア嬢と出会ってから?」

「違う」

「では、その前から」

「ああ」  


短い返事が、胸の底へ沈んでいく。


「いつから?」

「正確には、分からない」

「分からないということがございますか」

「ある日突然、嫌になったわけじゃない」

「わたくしを嫌っていたのですか」

「嫌ってはいない」

「ですが、妻にはしたくなかった」  


アルベルトは苦しげに息を吐いた。


「十五か、十六の頃から、考えていた」  


海軍へ入りたいと語った頃だ。  

アデライドが彼のためを思い、危険な希望を断念させた頃。


「あの頃から、君と話すことが怖くなった」

「わたくしは、殿下を叱責したことなどございません」

「そうじゃない」

「声を荒らげたことも」

「君は正しかった」

「でしたら」

「いつも正しかったから、僕は何も言えなかったんだ」  


アルベルトは顔を上げた。


「君に何かを望んでほしいと言われると、王太子として正しい答えしか許されていないように思えた」

「王太子であれば、正しい答えを選ぶべきでしょう」

「ほら」  


アルベルトが悲しそうに笑う。


「君は、今でもそう言う」

「間違っておりますか」

「分からない」  


その答えに、アデライドは苛立った。


「殿下は、分からないとおっしゃってばかりです」

「君は、分からないと言ったことがないね」

「学べば分かることを、分からないままにする理由がございません」

「人の気持ちは、学んでも正解が出ない」

「だからといって、考えることを放棄なさるのですか」

「そう聞こえるんだ」  


アルベルトは目を閉じた。


「君と話していると、僕はいつも、出来の悪い生徒になった気がした」  


アデライドは何も言えなかった。  

そんなつもりは、一度もない。  

彼が失敗しないよう支えた。  

迷えば答えを示した。  

危険な道を選ぼうとすれば止めた。  

王となったときに困らないよう、誰より近くで助け続けた。


「リディア嬢は、違ったのですね」  


ようやく声が出た。


「あの人は、答えをくれなかった」

「それが、よかったと?」

「僕がどうしたいのかを、聞いてくれた」

「わたくしも、尋ねたことはございます」

「尋ねたあと、正しい答えへ導いただろう」  


アデライドの胸に、怒りとも悲しみともつかない熱が広がる。


「それでは、わたくしが悪かったとおっしゃるのですか」

「そうじゃない」

「また、その言葉です」

「僕が悪かった」  


アルベルトは言った。


「何年も悩みながら、君に何も言わなかった」

「リディア嬢に出会うまで」

「ああ」

「彼女に、わたくしとの婚約を破棄するよう勧められたのですか」

「逆だ」  


アルベルトは首を横に振った。


「彼女は、君を傷つけることになるから、会うのをやめると言った」

「知っております」

「手紙を読んだのか」

「調査の一環です」

「なら、分かるだろう」

「何が?」

「リディアは、君から何も奪っていない」  


噴水から落ちた水滴が、硬い石を打つ。  

同じ音が、繰り返し中庭へ響いた。


「僕が決めた」  


アルベルトは続けた。


「彼女が身を引いても、君とは結婚しなかった」  


アデライドの視界が狭くなる。  

目の前にいるアルベルトの顔だけが鮮明で、そのほかの景色が暗く沈んだ。


「なぜ、そのようなことをおっしゃるのです」

「君がリディアを調べ続けているからだ」

「王太子妃候補の身辺確認は」

「違う」  


アルベルトは遮った。


「君は、彼女が悪いという証拠を探している」

「そのようなことは」

「リディアに原因があれば、君は何も間違っていなかったことになるから」  


アデライドは立ち上がった。


「失礼いたします」

「アデライド」

「これ以上、お話しすることはございません」

「僕のせいだ」  


背後から声が追う。


「君から未来を奪ったのは、僕だ」  


アデライドは足を止めなかった。



慈善院を出たあと、アデライドは式典の会食へ戻らず、公爵家の馬車へ向かった。  

マリアンヌが追いつき、何も言わずに扉を開ける。  

馬車が動き出すと、アデライドは窓の覆いを下ろした。  

薄暗い車内で、アルベルトの言葉だけが何度も蘇る。  

リディアは、君から何も奪っていない。  

僕が決めた。  

彼女が身を引いても、君とは結婚しなかった。  

ならば、アデライドは誰に負けたのか。  

リディアではない。  

自分より優秀な女に地位を奪われたのではない。  

陰謀によって陥れられたのでもない。  

アルベルトはアデライドではない人生を望み、それを選んだ。  

それだけだった。


「お嬢様」  


マリアンヌの声がする。


「お気分が優れませんか」

「いいえ」

「お顔が」

「何でもありません」  


アデライドは膝の上で手を組んだ。  

誰にも奪われていないのなら、取り戻すことはできない。  

初めから自分のものではなかったと、認めなければならない。  

王太子妃という地位も。  

アルベルトの心も。  

彼とともに歩むはずだった未来も。  

十年間、正しいと信じて積み重ねた努力が、誰にも結果を約束されていなかったことになる。  

その考えは、婚約破棄そのものより耐え難かった。


「いいえ」  


アデライドは呟いた。


「お嬢様?」

「殿下は、ご自分で判断なさったと思っているだけです」  


マリアンヌが黙る。


「周囲の者が、殿下のお心を弱らせたのでしょう」

「周囲の者とは?」

「王太子が、国益より個人の感情を優先する」  


アデライドは窓の覆いへ目を向けた。


「それによって利益を得る者が、必ずいるはずです」

「リディア様ではないと?」

「あの方一人に、国家的な婚約を覆す力はありません」

「では、誰が?」

「調べます」

「何をお調べになるのです」

「殿下の決定によって、得をした者です」  


言葉にすると、胸の混乱が少しずつ整った。  

これは恋愛の問題ではない。  

王太子の判断が、政治的な意図によって歪められたのだ。  

そうでなければならない。


「まず、婚約解消を支持した貴族を洗い出します」  


アデライドの声は、すでに落ち着きを取り戻していた。


「王太子府への献金、官職、婚約発表後の人事も」

「お嬢様」

「何かしら」

「今度は、何を見つけたいのですか」  


マリアンヌの問いに、アデライドは迷わなかった。


「王国を誤らせた者です」  


馬車は雨上がりの王都を進む。  

石畳には西日が映り、血を薄めたような赤い光がどこまでも続いていた。













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