↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された完璧令嬢は、微笑みのまま王都を去る~王太子に選ばれなかった私が、自由を手に入れるまで~   作者: カルラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/18

第八章 あなたは、どうしたいのですか

リディア・エヴァンスが公爵邸を訪れたいと申し出たのは、その五日後だった。  

先触れに添えられた手紙には、王太子妃候補としてではなく、一人の令嬢として話をしたいと書かれている。  

護衛も侍女も最小限にとどめ、正式な会談の記録も求めない。  

要件については、会ったうえで直接伝えたいという。


「お断りいたしましょう」  


手紙を読み終えたコンラートは、即座にそう言った。  

朝食室には父娘とマリアンヌしかいない。  

銀の食器が並ぶ長机の中央で、切り分けられた果実が光を帯びている。


「王太子殿下に続いて、今度は新しい婚約者か。」  


コンラートは手紙を机へ置いた。


「我が家を懺悔室とでも思っているのか」

「リディア嬢の用件は、まだ分かりません」

「謝罪に決まっている」

「謝罪であれば、受け取るかどうかはわたくしが決めます」

「会うつもりなのか」

「はい」  


コンラートの太い眉が寄る。


「なぜだ」

「本人へ確認したいことがございます」

「調査では足りないと?」  


父も、リディアの身辺を調べていることは知っている。  

家令を通してジュールを雇った以上、隠し通せることではなかった。


「書類では分からないこともございます」

「また傷つけられるだけかもしれん」

「心配は無用です」

「お前はいつも、そう言うのだな」  


コンラートは苦々しく呟いた。


「大丈夫だと」

「実際、大丈夫でございます」

「大丈夫な人間は、毎晩三時まで執務室の灯をつけてはおらん」  


アデライドの手が止まった。  

眠れないことを、父に気づかれているとは思わなかった。


「仕事をしております」

「お前がしなければならない仕事など、今はない」

「公爵領の税制改革案を」

「父の仕事まで奪うな」  


強い言葉だった。  

アデライドは驚いて父を見る。  

コンラートは額を押さえ、声を落とした。


「すまない」

「いいえ」

「お前が役に立たないと言いたいのではない」

「分かっております」

「ただ、何もせずに休むことを覚えてくれ」

「何もせずにいることが、何の役に立つのでしょう」  


父の顔に、深い疲労が浮かぶ。  

アデライドはそれ以上の説明を求めなかった。  

父には理解できないのだろう。  

止まってしまえば、すべてに追いつかれる。  

失われた未来も、王宮から必要とされなくなった現実も、アルベルトが自分を選ばなかった理由も。  

動いている間だけ、考えずに済む。


「リディア嬢とは、わたくし一人で会います」

「それは許可できない」

「マリアンヌを隣室へ控えさせます」

「扉は開けておけ」

「お父様」

「これは命令だ」  


コンラートはアデライドの反論を許さなかった。



リディアが公爵邸へ到着したのは、約束の時刻より十分早かった。  

しかし彼女は早く着いたことを理由に面会を急がせず、玄関の控え室で待っていた。  

アデライドは予定どおりの時刻に青の間へ入る。  

王家との会談に使われる薔薇の間ではなく、親しい客を迎えるための小さな応接室である。  

リディアは立ち上がり、深く頭を下げた。  

華美な装飾のない薄緑のドレスを着ている。  

胸元には、真珠の小さな飾りが一つ。  

王太子の婚約者を示す白鷹の徽章は、どこにも見当たらない。


「本日は、お時間を頂戴しありがとうございます」

「遠いところを、よくお越しくださいました」  


アデライドは向かいの椅子を示した。


「お掛けになって」

「失礼いたします」  


二人が座ると、マリアンヌが紅茶を注いだ。  

扉はコンラートの命令どおり、わずかに開けられている。  

廊下には公爵家の護衛が二人。  

リディアを危険人物として警戒しているようで、滑稽にさえ見えた。


「お口に合うとよろしいのですが」  


アデライドは言った。


「ありがとうございます」  


リディアはカップを手に取ったものの、飲もうとはしない。  

指先に力が入り、白くなっている。


「緊張なさっているのですね」

「はい」  


正直な返事だった。


「意外です」

「なぜでしょう」

「王太子殿下の隣へ立つ方が、元婚約者を恐れる理由が分かりません」

「恐れているのは、アデライド様そのものではございません」

「では、何を?」

「私が何を言っても、あなたをさらに傷つけてしまうことを」  


アデライドは微笑んだ。


「お気遣いは無用です」

「そうおっしゃると思っておりました」

「わたくしのことを、よくご存じなのですね」

「いいえ」  


リディアは首を横に振った。


「私は、アデライド様をほとんど存じません」

「学院では何度かお話ししました」

「ご挨拶をした程度です」

「それでも殿下から、わたくしのことを聞いていらっしゃるでしょう」  


リディアの視線が揺れる。


「はい」

「どのように?」

「優秀で、責任感が強く、決して間違えない方だと」

「それだけですか」

「美しい方だとも」

「ほかには」  


リディアは黙った。  

アデライドはカップへ指を添えた。  

何を聞き出そうとしているのか、自分でも分からなくなりかけている。  

アルベルトが陰で自分を悪く言っていたなら、怒る理由になる。  

褒めていたなら、なぜ捨てたのか理解できない。


「お気に障ったのでしたら、申し訳ございません」

「謝罪ばかりなさるのですね」

「謝るべきことが多いものですから」

「では、本日は何を謝りに?」  


リディアはカップを受け皿へ戻した。  

小さく息を吸い、アデライドを正面から見る。


「卒業祝賀会のことです」

「婚約破棄そのものではなく、方法について?」  


アルベルトと同じなのだろう。  

アデライドがそう続ける前に、リディアは首を振った。


「すべてです」

「すべて」

「私は、あの場で殿下の隣へ立つべきではありませんでした」

「ですが、お立ちになった」

「断りました」

「それでも、立った」

「はい」  


リディアの声が震えた。


「殿下は、私がいなければ、ご自分の決意が揺らぐとおっしゃいました」  


アデライドの胸に、冷たいものが落ちた。


「わたくしに説得されるのが怖かったのですね」

「おそらく」

「わたくしが間違っていないと、分かっていたから」

「違うと思います」  


リディアが静かに否定した。


「では、なぜです」

「殿下は、アデライド様の前でご自分の希望を口にすると、それが身勝手なものに思えてしまうとおっしゃいました」

「実際、身勝手でしょう」  


アデライドは即座に返した。


「国王陛下と公爵家が結んだ婚約を、個人の感情で破棄なさったのです」

「はい」  


リディアは言い逃れをしなかった。


「身勝手なところは、あったと思います」

「では、わたくしが止めるのは当然ではありませんか」

「当然だったかもしれません」

「ならば」

「ですが、殿下は止められたくなかったのです」  


穏やかな言葉が、かえって鋭く響いた。  

アデライドは背筋を伸ばした。


「それを、あなたが支えた」

「はい」

「わたくしが傷つくと分かっていて」

「はい」

「なぜです」  


リディアの睫毛が震える。


「殿下を、お慕いしているからです」  


アデライドは初めて、リディアの口からその言葉を聞いた。  

勝者の告白だった。  

奪った女が、敗者の家まで来て、自分はアルベルトを愛していると語っている。  

怒りを覚えるべき場面のはずなのに、胸の内側には何も湧かなかった。  

あまりに単純な言葉で、理解が追いつかなかったのである。


「ずいぶんと正直なのですね」

「嘘を申し上げれば、さらに失礼になります」

「正直であれば、何を言っても許されると?」

「許されるとは思っておりません」  


リディアは膝の上で拳を作った。


「私は、アデライド様に許していただくために来たのではありません」

「では、何のために?」

「お願いがございます」  


アデライドは、ようやく用件が出たことに安堵さえ覚えた。


「伺いましょう」

「私のことをお調べになっていると聞きました」

「殿下から?」

「はい」

「それをやめろと?」

「いいえ」  


予想外の答えだった。


「お調べください」

「何ですって」

「私が何をしてきたのか、誰と会い、殿下とどのように知り合ったのか」  


リディアは震える息を吐いた。


「すべてお調べになってください」

「何も見つからない自信があるのですね」

「人に知られたくない失敗なら、いくつもございます」

「例えば?」

「十三歳の頃、友人の秘密を別の友人へ話しました」  


あまりに小さな告白に、アデライドは言葉を失う。


「十五歳のときには、義姉の耳飾りを無断で借りて壊しました」

「そのような話を聞いているのではありません」

「分かっております」

「ならば、何をおっしゃりたいの」

「何かを見つければ、アデライド様が安心なさるのでしたら、お調べください」  


リディアは一度俯き、また顔を上げた。


「ですが、私の家の使用人や、友人を脅すことだけはなさらないでください」

「そのような命令はしておりません」

「存じております」

「ならば、なぜ」

「今は、なさっていないからです」  


扉の向こうで、誰かがわずかに身じろぎした。  

マリアンヌか、護衛だろう。  

アデライドは声を落とした。


「わたくしが、いずれそのようなことをすると?」

「分かりません」

「わたくしを侮辱するために、ここへいらしたのですか」

「違います」  


リディアは立ち上がりかけ、思い直したように座り直した。


「もう終わりにしていただきたいのです」

「何を?」

「誰が悪かったのかを探すことを」  


アデライドの顔から微笑みが消えかける。


「悪い者がいなければ、このようなことは起こりません」

「殿下は、婚約破棄の方法を間違えました」

「方法だけですか」

「いいえ」  


リディアは苦しげに続けた。


「もっと早く、アデライド様と話すべきでした」

「その程度の間違いで、わたくしは十年を失ったのですか」

「その程度とは思っておりません」

「でしたら、身を引いてください」  


言葉は、考えるより早く口から出ていた。  

室内が静まり返る。  

アデライドは自分が何を言ったのか理解した。  

しかし、取り消す必要はない。  

これは以前から分かっていた、最も簡単な解決策である。


「あなたが身を引けば、混乱は収まります」  


アデライドは声を整えた。


「王家と公爵家の関係は修復され、殿下は再び政治へ集中できます」

「アデライド様は、それでよろしいのですか」

「わたくしの希望ではなく、王国のためです」

「殿下は?」

「いずれ、ご理解なさいます」

「殿下が嫌だとおっしゃっても?」

「王太子である以上、個人の感情だけを優先することはできません」

「アデライド様」  


リディアの瞳に、悲しみに似た色が浮かぶ。


「あなた一人が諦めれば、王国は正しい形へ戻ります」  


アデライドは言った。


「エヴァンス子爵家には、相応の補償を約束いたします」

「補償の問題ではありません」

「では、殿下へのお気持ちですか」

「はい」  


リディアは迷わなかった。


「ならば、なおさら身を引くべきです」

「なぜでしょう」

「愛しているのでしょう」

「はい」

「でしたら、殿下にとって最も正しい道をお選びください」  


リディアはしばらく、アデライドの顔を見つめていた。  

やがて、ほとんど囁くように尋ねる。


「それは、アデライド様にとって正しい形ではありませんか」  


胸の奥を、細い針が刺した。


「王国にとってです」

「殿下にとってではなく?」

「殿下は王国の王太子です」

「その前に、一人の人間です」

「一人の人間である前に、王位継承者でしょう」

「それでは、殿下の望みは、どこへ行くのですか」

「王となる者は、ときに望みを捨てなければなりません」

「アデライド様が、そうなさったように?」  


アデライドは息を止めた。


「何のことでしょう」

「アデライド様は、王太子妃になるために、多くのものを諦めてこられたと伺いました」

「殿下から?」

「はい」

「だから、わたくしにも諦めろと?」

「違います」  


リディアは首を横に振った。


「諦めることが正しかったのか、お尋ねしているのです」

「必要なことでした」

「誰にとって?」

「王国にとってです」

「アデライド様は、どうしたかったのですか」  


問いの意味が分からなかった。  

王国のために必要なことを行う。  

それこそがアデライドの希望であり、役目だった。


「同じことでしょう」

「同じではありません」

「あなたに、わたくしの何が分かるのです」

「分かりません」  


リディアは静かに答えた。


「ですから、尋ねています」

「何を?」

「あなたは、どうしたいのですか」  


アデライドは答えようとした。  

婚約を戻したい。  

王太子妃になりたい。  

王妃となり、王国を正しく導きたい。  

アルベルトの隣へ戻りたい。  

どれも答えのようでありながら、口に出そうとすると別の疑問が生じる。  

なぜ王妃になりたいのか。  

なぜアルベルトでなければならないのか。  

自分が本当に望んだことなのか。  

それとも、望むよう教えられたことなのか。


「わたくしの希望など、今は関係ありません」  


ようやく、それだけを絞り出した。  

リディアの目が伏せられる。


「そうお答えになると思っておりました」

「分かったような言い方をなさらないで」

「申し訳ございません」  


リディアは立ち上がった。


「本日は、これで失礼いたします」

「用件は終わったのですか」

「はい」

「わたくしに調査を許すためだけに?」

「いいえ」  


リディアはドレスの裾を整え、深く一礼した。


「アデライド様と、お話しするために参りました」

「話したところで、何も変わっておりません」

「そうかもしれません」  


彼女は扉へ向かった。  

手をかける前に、一度だけ振り返る。


「私は、アデライド様が怖いです」  


アデライドの眉が寄る。


「ですが、嫌いになりたいとは思っておりません」

「同情なら不要です」

「同情ではございません」

「では、何です」

「まだ、分かりません」  


リディアは寂しそうに笑った。


「それを考えるためにも、お会いしたかったのです」  


扉が開き、閉じる。  

廊下に待機していた護衛の足音が、次第に遠ざかっていった。  

マリアンヌが部屋へ入り、手つかずの紅茶を片づけ始める。


「何か言いたいのでしょう」  


アデライドが先に尋ねた。


「リディア様は、賢い方でございますね」

「政治も語学も、成績は平均です」

「そのようなお話ではございません」

「では、どのような意味?」

「答えを出す前に、問いを立てられる方です」  


アデライドはリディアが座っていた椅子を見た。  

座面にはわずかな温もりが残り、卓上の紅茶からは細い湯気が立っている。


「答えが分からないから、質問ばかりするのでしょう」

「答えが分からないと認めるのは、難しいことでございます」

「無知を美徳のように言うのは、おやめなさい」

「失礼いたしました」  


マリアンヌがカップを銀盆へ載せる。  

アデライドは立ち上がり、窓辺へ歩いた。  

門を出ていくエヴァンス家の馬車が、小さく見える。  

リディアは悪女ではない。  

少なくとも、今まで集まった情報だけを見れば、そう結論づけるほかない。  

だが、悪女でないからといって、彼女が正しいとは限らない。  

善良さは、結果への責任を消してはくれない。


「やはり、あの女がすべてを狂わせたのです」  


マリアンヌの手が止まった。


「もしリディア様がおられなければ、殿下は婚約を破棄なさらなかったと?」

「当然です」

「殿下のお心が、すでにお嬢様から離れていたとしても?」  


アデライドは振り返らなかった。


「結果は同じです」

「本当に?」

「同じでなければならないのです。」  


それが誰に対する答えなのか、アデライド自身にも分からなかった。


















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。