第七章 悪女の経歴
リディア・エヴァンスに関する最初の報告書が届いたのは、アルベルトが公爵邸を訪れた翌朝だった。
革張りの薄い書類綴りを運んできたのは、ジュール・ベケットという名の男である。
年齢は四十前後。
かつて王都警備隊で捜査官を務め、負傷を理由に退役したあとは、貴族家から依頼を受けて身辺調査を行っている。
余計な推測を交えず、確認できた事実だけを報告する男として、グランフェルト家の家令が選んだ人物だった。
ジュールはアデライドの執務室へ通されると、古傷の残る右足をわずかに引きながら、机の前まで進んだ。
「ご依頼の件につきまして、ひととおりの調査が完了いたしました」
「ご苦労でした」
アデライドは机上の書類綴りへ目を落とした。
「座ってください」
「恐れ入ります」
ジュールが椅子へ腰を下ろす。
マリアンヌはアデライドの右後ろに控えた。
窓の外では細い雨が降っている。
淡い灰色に煙る庭園は輪郭を失い、白薔薇の花弁が濡れた地面へ散っていた。
「まず、エヴァンス子爵家の財政状況からご報告いたします」
ジュールは膝の上で手帳を開いた。
「同家の年間収入は、およそ一万八千リラ」
「子爵家としては多くありませんね」
「はい」
「負債は?」
「領地の灌漑工事に伴う借入金が、四千二百リラほどございます」
「ほかには?」
「確認できませんでした」
アデライドは眉を寄せた。
王太子との婚姻を企む理由として、金銭問題は最も分かりやすい。
しかし、四千二百リラ程度の借入なら、領地経営を圧迫するほどではない。
「隠し債務の可能性は?」
「商会七社と王都の金融業者を確認いたしましたが、それらしき記録はございません」
「子爵個人の賭博、愛人、投機は?」
「いずれも見つかりませんでした。」
「ずいぶん清廉な方なのですね」
アデライドが言うと、ジュールは返答を控えた。
事実だけを述べ、依頼主の望む感想へ迎合しない。
その姿勢は好ましい。
だからこそ、報告の内容が気に入らないという理由だけで男の能力を疑うわけにはいかなかった。
「エヴァンス子爵は毎朝六時に起床し、領地から届いた報告書を確認なさいます」
ジュールは続けた。
「昼までは財務院へ出仕し、帰宅後は子爵家の所領に関する書類を処理されます」
「社交は?」
「月に一度ほど、他の貴族の方と酒場へ」
「女性関係は?」
「夫人以外の女性と親しくしている形跡はございません。」
「では、リディア嬢ご本人について」
ジュールが一枚、頁をめくった。
「学院での成績は、中の上でございます」
「得意分野は?」
「文学と薬草学」
「政治、歴史、語学は?」
「いずれも平均程度」
アデライドは指先で机を一度叩いた。
「王太子妃としては、明らかに不足しています」
「その評価は、私の任務の範囲外でございます」
「分かっています」
ジュールがわずかに頭を下げる。
「交友関係は広く、身分を問わず友人がいるようです」
「友人が多いことは、人格の証明にはなりません」
「はい」
「むしろ、多くの者へ好意的な印象を与える術を心得ているとも考えられます」
「その可能性は否定できません」
ジュールの答えに、アデライドはわずかな苛立ちを覚えた。
否定できないが、肯定する証拠もない。
彼は最初から、そのような言葉ばかりを選んでいる。
「学院で問題を起こしたことは?」
「二年前、教師の判断へ異議を申し立てています」
アデライドは顔を上げた。
「詳しく」
「平民出身の給費生が、試験中の不正を疑われました」
「リディア嬢が庇ったのですか」
「はい」
「その生徒とは親しかった?」
「同じ慈善活動委員会に所属しておりました」
「ならば、友人を守るために教師へ逆らったのでしょう」
「当初は、そのように見られていたようです」
ジュールは手帳を確認した。
「ですが、リディア嬢が別の学生の答案を調べた結果、問題を漏洩させたのは教師の助手であることが判明しました」
「教師の許可なく、答案を調べたのですか」
「学長へ許可を求めています」
「教師へ直接異議を申し立てる前に、正式な手順を踏むべきでした」
「リディア嬢も、その点については謝罪しております」
過ちを犯したあと、謝罪して修正する。
以前にリディアが語ったと報告された姿勢と一致する。
作られた美談でなければ、の話だが。
「慈善活動委員会では、どのような役割を?」
「王都南区の孤児院と学院をつなぐ連絡役です」
「殿下と知り合った場所ですね」
「はい」
「王太子殿下が慈善院を訪問する日程を、事前に知る立場だった?」
「知り得る立場ではございました」
アデライドは椅子の背へ身を預けた。
ようやく一つ、意図的な接近を疑える事実が出た。
「殿下の訪問に合わせて、自分も慈善院へ?」
「いいえ」
ジュールは即座に否定した。
「殿下が最初に訪問なさった日は、リディア嬢の担当日ではございません」
「それなのに、なぜ会ったのです」
「担当者が高熱を出したため、代わりに向かったようです」
「偶然だったと?」
「交代表が残っております」
あまりにも都合のよい偶然だった。
しかし、担当者を病気にさせることなどできるはずもない。
仮に薬を使ったのなら、その形跡があるだろう。
「最初の訪問以降、二人は頻繁に会っています」
「殿下が再訪の日程を決めておられます」
「リディア嬢から誘ったことは?」
「確認できた範囲では、一度もございません」
アデライドは報告書を開いた。
日付ごとに、アルベルトとリディアが会った場所が記されている。
慈善院。
学院の図書室。
王都南区の施療院。
王立植物園。
王太子の立場を利用した密会というより、慈善事業の視察が続いているように見えた。
だからこそ、アデライドは二人の関係に気づかなかった。
「手紙は?」
「リディア嬢から殿下へ送られたものを、七通確認しております」
「内容は」
「こちらに写しがございます」
ジュールが別の封筒を差し出す。
アデライドはそれを受け取り、中から便箋を取り出した。
リディアの丸みを帯びた文字が、等間隔に並んでいる。
最初の三通は、慈善院への寄付に対する礼状だった。
四通目には、施療院で不足している薬について。
五通目には、孤児院の屋根を修繕するための予算。
六通目から、内容が変わっていた。
『殿下がお優しくしてくださることを、私は嬉しく思っております』
その一文を読んだ瞬間、アデライドの指へ力が入った。
続きを追う。
『ですが、殿下にはアデライド様という正式な婚約者がおられます』
『私との関係が誤解を招けば、傷つくのはアデライド様です』
『今後、私的にお会いすることは控えさせていただきたく存じます』
アデライドは次の手紙を開いた。
『私が身を引けばよいと考えておりました』
『けれど殿下は、それでは私が殿下の人生を決めることになるとおっしゃいました』
『私には、何が正しいのか分かりません』
『どうかまず、アデライド様とお話し合いください』
便箋を持つ指先から、少しずつ温度が失われていく。
「この手紙は、どこで?」
「王太子府に残された写しでございます」
「リディア嬢が、自分に都合のよい手紙だけを残させた可能性は?」
「王太子殿下が保管を命じられたと、侍従が証言しております」
「侍従が買収されている可能性は」
「ございませんとは申し上げられません」
「では、調べてください」
「承知いたしました」
ジュールは表情を変えない。
アデライドは便箋を机へ戻した。
「ほかに、何かありますか」
「リディア嬢が行っている援助について」
「王太子の関心を引くための慈善活動でしょう」
「殿下と知り合う前から、五年間続けておられます」
ジュールはもう一冊、薄い帳面を出した。
「子爵家から個人的に与えられる年間手当の、およそ三分の一を使っています」
「援助先は?」
「孤児院に三か所」
「ほかには」
「学院で働く使用人の家族へ、治療費を支払った記録がございます」
「なぜ使用人の家族へ?」
「娘が肺病を患い、薬を買えなかったためです」
「見返りを求めた可能性は?」
「使用人本人は、援助者がリディア嬢だったことを一年後まで知りませんでした」
「匿名だった?」
「はい」
善行が一つなら、演技を疑える。
二つなら、偶然と呼べる。
しかし、調べるほど同じような話ばかりが積み重なる。
リディア・エヴァンスは貧しい者を助け、使用人に礼を言い、友人の過ちを諫め、アルベルトから距離を置こうとした。
王太子妃となるための企みは出てこない。
代わりに現れるのは、アデライドが決して責められない行動ばかりだった。
「調査が足りません」
アデライドは言った。
ジュールが静かに彼女を見る。
「一か月で調べられる範囲には限界がございます」
「期間は問いません」
「承知いたしました」
「学院へ入学する以前も調べてください」
「幼少期まで遡ると?」
「人の本質は、突然生まれるものではありません」
ジュールは手帳を閉じた。
「どのような事実を、特にお求めでしょうか」
「事実に種類などございません」
「金銭問題、異性関係、いじめ、教師への不正な働きかけ」
ジュールは淡々と並べた。
「いずれも確認できませんでした」
「見つからなかったからといって、存在しないとは限りません」
「仰せのとおりです」
「何か言いたいことがあるのですか」
ジュールは一度、マリアンヌへ目を向けた。
助けを求めたのではない。
この場で言葉を選ぶべきか、見極めようとしただけだろう。
「調査とは、依頼主の望む人物像を作る仕事ではございません」
室内の空気が張り詰めた。
「存じております」
「ならば、確認された事実がご期待に沿わなくとも、それを事実としてお受け取りください」
「わたくしが、報告を歪めろと命じましたか」
「いいえ」
「では、余計な忠告です」
「失礼いたしました」
ジュールは頭を下げた。
アデライドは報告書を閉じた。
「次の報告を待ちます」
「かしこまりました」
男は立ち上がり、古傷を引きずりながら部屋を出ていった。
扉が閉まっても、マリアンヌは動かなかった。
「何かしら」
アデライドが尋ねる。
「いいえ」
「言いたいことがあるなら、おっしゃい」
「ベケット殿が申し上げましたので」
「彼の忠告と、あなたの考えが同じだと?」
「お嬢様は、優秀な調査役をお選びになりました」
「選んだのは家令です」
「お嬢様のお気に召す報告を書く者なら、いくらでも雇えたでしょう」
「そのような報告には意味がありません」
「左様でございますね」
マリアンヌは机の上の手紙を見た。
「リディア様は、殿下へアデライド様と話すよう勧めておられた」
「手紙が真正であれば」
「真正でなければ、お喜びになりますか」
アデライドは顔を上げた。
「何を言いたいの」
「お嬢様は、何を見つけたいのですか」
「真実です」
「いいえ」
マリアンヌの声は穏やかだったが、一歩も退く気配がない。
「どのような真実なら、ご満足なさるのですか」
「わたくしが満足するかどうかは関係ありません」
「では、リディア様が善良な方で、殿下を誘惑しておらず、婚約破棄も望んでおられなかったと証明されれば、調査をおやめになりますか」
アデライドは口を開きかけた。
しかし、言葉が出なかった。
その事実を受け入れれば、リディアを責める理由がなくなる。
誰にも奪われていないことになる。
アルベルトが自分の意思で、アデライドではなくリディアを選んだのだと認めなくてはならない。
それだけは、まだ考えられなかった。
「証明など、されておりません」
アデライドは手紙を封筒へ戻した。
「今の段階で結論を出すのは早計です」
「いつなら、結論をお出しになりますか」
「必要な情報が揃ったときです」
「必要かどうかを決めるのは、どなたでしょう」
アデライドは侍女を見据えた。
「今日は、ずいぶんと無礼ね」
「申し訳ございません」
「下がりなさい」
「かしこまりました」
マリアンヌは一礼し、部屋を出る。
一人になったアデライドは、再びリディアの手紙を開いた。
『どうかまず、アデライド様とお話し合いください』
文字は整っているが、ところどころにインクの滲みがある。
書きながら迷った跡にも見える。
アデライドはその一文を何度も読んだ。
もし本当に、リディアが話し合いを望んでいたのなら。
もしアルベルトが、それを拒んだのなら。
そこまで考えて、便箋を折り畳んだ。
何も分かっていない女が、善良な振る舞いをしたというだけだ。
結果としてアデライドの人生を奪った事実は変わらない。
雨脚が強まり、硝子窓を細かく叩き始める。
机上の報告書には、探していた悪女の姿がどこにもなかった。
それでもアデライドは、調査を終わらせなかった。




