第十章 正義の公爵令嬢
王太子アルベルトとアデライドの婚約解消を、最も早く支持した貴族は三人いた。
宮内府次官オスカー・メルツ伯爵。
財務院監査官バーナード・クロイツ伯爵。
そして王太子派の重鎮、ジークハルト・レーヴェ侯爵である。
メルツ伯爵は王命へ従っただけで、婚約解消によって具体的な利益を得てはいなかった。
クロイツ伯爵の娘はアルベルトの側近と婚約しているが、その関係は五年前から続いている。
残るレーヴェ侯爵は、婚約破棄の十日後、王都穀物取引所の監督官に就任していた。
これまで同職はグランフェルト家と親しい貴族が務めていた。
公爵家と王家の関係が悪化したことで、その席が空いたのである。
偶然と呼ぶには、あまりに時期がよかった。
「レーヴェ侯爵領は、国内第三位の小麦産地です」
ジュールは地図の上へ指を置いた。
「王都穀物取引所の監督権を得れば、自領の穀物価格へ影響を与えることができます」
「侯爵は、以前からその地位を望んでいました」
アデライドは別の資料を開いた。
「三年前、前任者を汚職で告発しています」
「証拠不十分で退けられた件ですね」
「当時の調査記録は?」
「財務院の保管庫にございます」
「写しを入手してください」
ジュールの表情がわずかに曇る。
「正式な手続きでは、グランフェルト公爵家に開示されません。」
「正式でない手続きなら?」
「公爵家からのご命令ですか」
「いいえ」
アデライドは男の目を見た。
「方法を尋ねただけです」
「保管庫の職員を買収することになります」
「賄賂を渡せと命じるつもりはありません」
「ならば、入手は困難です」
「財務院に友人はいないのですか」
「友人へ罪を犯させる趣味はございません」
ジュールの答えは、相変わらず遠慮がない。
アデライドは怒らず、資料を閉じた。
「では、公開されている記録だけで構いません」
「承知いたしました」
「侯爵領の穀物収穫量と、王都への出荷量を五年分」
「手配いたします」
「婚約解消との関係だけでなく、不正があるなら、それも明らかにしてください」
「目的が変わったのですか」
「いいえ」
アデライドは静かに答えた。
「王国を誤らせる者が、ほかの場所では正しく振る舞っているとは思えません」
ジュールは何も言わなかった。
調査は二か月に及んだ。
最初に見つかったのは、数字の食い違いである。
レーヴェ侯爵領の収穫量は、三年前から徐々に減少している。
一方、王都で販売された侯爵領産の小麦は、同じ時期から増えていた。
通常ならあり得ない。
領地の民が食べる分と、翌年の種籾を差し引けば、王都へ出荷できる量は限られる。
それを超える小麦が市場へ流れている。
「他領の小麦を、侯爵領産と偽っている可能性がございます」
ジュールが報告した。
「なぜ、その必要が?」
「レーヴェ侯爵領の小麦には、王家への納入実績を理由に、通常より高い等級が認められております」
「安い小麦を買い、高級品として売る」
「単純な方法です」
「しかし、それだけでは出荷量の説明がつきません」
「はい」
ジュールが新たな帳面を差し出す。
「侯爵領内の村で、配給量が減らされております」
アデライドは頁をめくった。
税として徴収される小麦の割合は、王国法で収穫量の四分の一までと決められている。
凶作時には六分の一へ下げることも義務づけられていた。
ところが、レーヴェ侯爵領では収穫量が減った年にも、三分の一近くを徴収している。
それらが王都へ運ばれ、高値で売却されたのだ。
「村人は?」
「冬を越すため、商人から穀物を借りています。」
「利息は」
「半年で五割」
アデライドは顔を上げた。
「貸し手は?」
「レーヴェ侯爵の従兄が経営する商会です。」
領主が穀物を取り上げ、そのために飢えた領民へ、親族の商会が高利で穀物を貸す。
返済できなければ土地を奪い、農奴として縛る。
仕組みとしては単純だ。
単純であるからこそ、逃げ道がない。
「証言を得られますか」
「領民は侯爵を恐れております」
「保護を約束します」
「グランフェルト領へ受け入れると?」
「必要ならば」
「数百人に及ぶ可能性がございます」
「公爵家の財政は、それで傾きません」
アデライドは即答した。
「生活の基盤を奪われた者へ、土地と仕事を用意してください」
「お父上の許可は?」
「わたくしからお話しします」
ジュールはしばらく彼女を見つめた。
「この件に、婚約解消との関係が見つからなくとも、続けられますか」
「当然です」
アデライドは帳面を閉じた。
「見つけてしまった罪を、見なかったことにはできません」
その言葉に嘘はなかった。
レーヴェ侯爵が婚約破棄を裏で操ったかどうかとは別に、領民を食い物にする行為を許すつもりはない。
怒りは確かなものだった。
飢えた子供の報告を読み、胸が痛んだ。
その感情まで、誰かに偽物だと決めつけられるいわれはない。
コンラートは娘から資料を渡されると、夜を徹して読み込んだ。
翌朝、彼は主要な家臣を会議室へ集めた。
「証言者の保護を最優先とする」
公爵としての声が、長机の端まで届く。
「侯爵領から逃れてきた者は、我が領内で受け入れよ」
「陛下への上奏は?」
家令が尋ねる。
「証拠が揃い次第、行う」
「レーヴェ侯爵は王太子派です」
「だから何だ」
コンラートは低く言った。
「王太子の名を掲げれば、民を飢えさせても許されるのか」
誰も答えられない。
「アデライド」
父に呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「お前は王都側の帳簿を確認しろ」
「承知いたしました」
「ただし、一人で抱えるな」
「はい」
「進捗は三日ごとに私と家令へ報告すること」
アデライドは一瞬、反論しかけた。
自分だけでも処理できる。
むしろ、人へ説明する時間が惜しい。
しかし、王太子府の仕事を独占していたと指摘された記憶が蘇った。
「分かりました」
「よろしい」
コンラートの目に、安堵が浮かんだ。
娘が婚約破棄以来、初めて明確な目的へ向かっているからだろう。
それが父にとっても救いになるなら、アデライドに異論はなかった。
調査が公になったのは、避難してきた農夫が王都の新聞社へ証言したためだった。
『侯爵家の兵に、冬を越すための麦まで奪われた』
『妻は薄い粥を子供へ譲り、春を待たずに亡くなった』
記事は王都中へ広まり、レーヴェ侯爵への非難が高まった。
侯爵側は、グランフェルト公爵家による政治的な攻撃だと反論した。
王太子との婚約を破棄されたアデライドが、逆恨みから王太子派の重臣を陥れようとしている。
その主張には、一定の説得力があった。
「予想どおりです」
アデライドは新聞を机へ置いた。
「わたくしの私情を持ち出せば、証拠そのものから目を逸らせる」
「実際、私情はないのですか」
ジュールが尋ねた。
「何が言いたいのです」
「婚約解消を支持した者を調べた結果、レーヴェ侯爵へたどり着いた」
「だからといって、侯爵の罪が消えますか」
「消えません」
「では、問題はないでしょう」
「目的と事実は、分けて考えるべきです」
ジュールは卓上の帳面を指した。
「侯爵が領民から不当に穀物を取り上げたことは事実です」
「ええ」
「ですが、侯爵が殿下の婚約解消を企てた証拠は、何一つ見つかっておりません」
「まだ、です」
「その言葉を忘れないでください」
アデライドは男を見据えた。
「わたくしが事実を歪めると疑っているのですか」
「疑うのが、私の仕事です」
「依頼主であっても?」
「依頼主だからこそ」
ジュールの目に敵意はない。
ただ、冬の川底に沈む石のような、動かし難いものがある。
「不快であれば、私を解雇してください」
「その必要はありません」
アデライドは資料へ視線を戻した。
「あなたの疑念も含めて、結果で否定いたします」
「それで結構です」
ジュールは一礼した。
アデライドは集めた資料を公開し、王立広場で証言者の話を聞く機会を設けた。
王都の民衆だけでなく、多くの貴族と官吏が集まった。
粗末な服を着た老農夫が、壇上で震えている。
人前で話した経験などないのだろう。
アデライドは彼の隣へ立ち、急かさずに待った。
「ゆっくりで構いません」
彼女は言った。
「ここにいる者は、あなたの言葉を聞くために集まりました」
老農夫は何度も息を吸い、やがて途切れながら語り始めた。
徴税官に穀物を奪われたこと。
抵抗した息子を兵に殴られたこと。
借金のため、畑を失ったこと。
語り終えたとき、広場は静まり返っていた。
アデライドは老農夫の手を取った。
「あなた方が怠けたから、飢えたのではありません」
広場の視線が彼女へ集まる。
「国の法が、届くべき場所へ届かなかったのです」
アデライドの声は、広場の隅まで響いた。
「法は、強い者が弱い者から奪うためにあるのではありません」
「民が明日も生きられると信じ、畑を耕すためにあるものです」
群衆の中から拍手が起こった。
一人、二人と増え、やがて広場全体を揺らす。
「アデライド様」
誰かが名を呼んだ。
「白銀の正義だ」
別の声が続いた。
称賛が波のように押し寄せる。
婚約破棄以来、憐れみと好奇心ばかりを向けられてきた。
今、人々は彼女を見上げている。
必要としている。
アデライドは壇上で微笑んだ。
胸に空いていた穴が、久しぶりに満たされていく。
自分は間違っていない。
自分の努力は、まだ誰かを救える。
アルベルトに選ばれなかったからといって、その価値が失われたわけではない。
広場の端には、王宮警備のために派遣されたエリオットが立っていた。
彼もまた、まっすぐにアデライドを見ている。
その眼差しには、疑いの影すらなかった。
だが、その夜、ジュールは新しい報告を持ってきた。
王都への不正出荷。
領民への過剰徴税。
高利貸しとの結託。
それらを示す帳簿と証言は揃っている。
しかし、すべては侯爵家の家令と徴税官の名で行われていた。
「レーヴェ侯爵本人の命令を示すものが、ございません」
ジュールは言った。
「侯爵は、部下が勝手に行ったと主張するでしょう」
「それが通るのですか」
「監督責任は問えます」
「それだけ?」
「爵位の剥奪や刑事罰には、本人が命じた証拠が必要です」
「家令は証言しないのですか」
「すべて自分の判断だったと」
「家族を人質に取られている可能性は?」
「保護を申し出ましたが、拒まれました」
アデライドは机の上の帳簿を見た。
何百人もの領民を飢えさせ、財産を奪った男が、命令書を残さなかったという理由だけで罪を逃れる。
そのようなことが許されてよいはずはない。
「必ず、どこかにあるはずです」
「命令書が?」
「侯爵が関与した証拠です」
「引き続き、調べます」
ジュールは資料をまとめ、退出した。
アデライドは一人、執務室に残った。
机の上には、侯爵家の家令が各地へ送った命令書の写しがある。
どれも侯爵本人の署名はない。
ただし、命令の内容は明確だった。
税率を引き上げること。
穀物を王都へ運ぶこと。
借金を返せない農民から土地を取り上げること。
侯爵の命令でなければ、家令一人が行える規模ではない。
事実は、すでにここにある。
足りないのは、それを法廷で事実として認めさせるための形だけだった。
アデライドは一枚の命令書を手に取った。
紙を灯りへ透かす。
レーヴェ侯爵家の透かし紋。
家令の署名。
そして、本来あるべき主の名だけが、そこにはなかった。




