第十一章 たった一枚の紙
レーヴェ侯爵本人の命令を示す証拠は、その後も見つからなかった。
侯爵家の家令はすべての責任を認め、地下牢へ収監された。
徴税官たちも、命令は家令から受けたと証言している。
レーヴェ侯爵は領地の不正を知らなかったと主張し、病を理由に屋敷へ閉じこもった。
王都では連日、彼を非難する声が上がっている。
それでも法廷は、民衆の怒りだけで爵位を剥奪することはできない。
アデライドには、それが正しい制度であると分かっていた。
嫌疑だけで人を裁けば、次にその刃が向けられるのは罪のない者かもしれない。
証拠を求める法は、悪人を守るためではなく、無実の者を守るために存在する。
分かっている。
理解している。
それでも、レーヴェ侯爵が無実でないことも知っていた。
「上奏書は、この内容で提出します」
コンラートは会議室で言った。
「監督責任を問い、穀物取引所の監督官から解任する」
「爵位は?」
アデライドが尋ねる。
「現状の証拠では難しい」
「領地へ戻せば、証言した者の家族が危険にさらされます」
「侯爵領へ王家の監察官を常駐させる」
「買収されれば?」
「監察官を三か月ごとに交代させる」
「侯爵が以前と同じ権力を持つ限り、不正は形を変えて続きます」
コンラートは娘を見た。
「だからといって、証拠のない罪では裁けん」
「証拠はございます」
「侯爵の部下が罪を犯した証拠だ」
「侯爵が知らなかったはずはありません」
「それを示せと言っている」
アデライドは唇を引き結んだ。
父は娘を疑っているのではない。
法に従おうとしている。
その姿勢を責めることはできなかった。
「もう少し、お時間をください」
「いつまでだ」
「一週間」
「見つからなければ?」
アデライドは答えられなかった。
コンラートは長く息を吐く。
「三日だ」
「お父様」
「上奏を遅らせるほど、侯爵に証拠を消す時間を与える」
「分かりました」
「アデライド」
会議室を出ようとした彼女を、父が呼び止める。
「追い詰められたときほど、自分のしていることを誰かに見せろ」
「どういう意味でしょう」
「一人で正しさを決めるな」
アデライドは父を見つめた。
「わたくしを信じておられないのですか」
「信じている」
「でしたら」
「信じているから、間違えないと思うのは、信頼ではない」
コンラートの声には、父親としての不器用な温かさがあった。
「人は間違える」
「わたくしも?」
「お前もだ」
アデライドは一礼し、会議室を出た。
三日という時間は、瞬く間に過ぎていった。
ジュールは侯爵邸を出入りした商人を調べた。
公爵家の家臣は、領地に残る帳簿を探した。
証言者の保護を条件に、侯爵家の下級使用人からも話を聞いた。
新たな不正はいくつも見つかった。
それでも、侯爵本人の命令は出てこない。
三日目の夜、アデライドは執務室で報告書を読んでいた。
時計の針は深夜一時を回っている。
机には十数本の蝋燭が灯り、窓の外は墨を流したように暗い。
マリアンヌが温め直した紅茶を運んできた。
「お休みください」
「まだです」
「明日の朝、上奏書が提出されます」
「分かっています」
「でしたら、今から新しい証拠が見つかるとは思えません」
「侯爵家の過去の命令書を確認しています」
「すでに三度、ご覧になったものです」
「見落としがあるかもしれません」
「お嬢様に?」
皮肉ではなかった。
アデライドが三度確認して見つけられなかったものを、四度目に見つける可能性は低い。
それでも手を止めれば、レーヴェ侯爵は逃げ切る。
飢えた子供たちの顔が浮かぶ。
広場で証言した老農夫。
息子を兵に殴られ、妻を失った男。
彼らに正義を約束した。
アデライドは、人々の拍手を受けた。
白銀の正義と呼ばれた。
ここで侯爵を裁けなければ、すべてが口先だけになる。
「マリアンヌ」
「はい」
「侯爵家の透かしが入った紙は、何枚残っていますか」
侍女の動きが止まった。
「資料として入手したものなら、五枚でございます」
「インクは?」
「侯爵家で使われている品と同じものを、ベケット殿が提出しております」
「筆跡の見本もございますね」
「お嬢様」
マリアンヌの声が低くなる。
「確認しただけです」
「何をなさるおつもりですか」
「何もしません」
アデライドは資料を閉じた。
「必要なものが揃っているか、確認しただけです」
「その必要が、どこにございます」
「あなたは疲れているようね」
「お嬢様ほどではございません」
「先に休んでください」
「お断りいたします」
アデライドは顔を上げた。
マリアンヌは銀盆を持ったまま、机の前から動かない。
「これは命令です」
「では、侍女としてではなく、お嬢様を幼い頃から知る者として残ります」
「仕事と私情を混同しないで」
「お嬢様がそれをおっしゃいますか」
鋭い言葉が落ちた。
アデライドの胸に怒りが走る。
「下がりなさい」
「いいえ」
「マリアンヌ」
「証拠がないのでしたら、ないまま上奏なさいませ」
「侯爵は罪を逃れます」
「監督責任は問われます」
「それでは足りません」
「誰にとって?」
「領民にとってです」
「本当に、それだけでございますか」
マリアンヌは机上の透かし紙を見る。
「侯爵が殿下の婚約解消へ関与した証拠は、見つかりませんでした」
「今は、その話ではありません」
「お嬢様が侯爵を調べ始めた理由です」
「動機と結果を混同しないで」
「混同なさっているのは、お嬢様です」
アデライドは立ち上がった。
「わたくしが、罪人を罰しようとすることが間違いだと?」
「罰を決めるのは、お嬢様ではございません」
「法が機能しないなら、誰かが正さなければなりません」
「その誰かが、なぜお嬢様なのです」
「できるからです」
声が思いのほか強く響いた。
「わたくしならできます」
マリアンヌは悲しそうに目を細めた。
「ええ」
侍女は呟いた。
「お嬢様なら、できてしまいます」
アデライドの胸が詰まる。
「だから、止めているのです」
「何もしておりません」
「これから、なさるおつもりでしょう」
「わたくしを罪人のように扱わないで」
「でしたら、その紙をお捨てください」
マリアンヌは暖炉を示した。
「今すぐ、すべて」
アデライドは透かし紙へ視線を落とした。
白い紙が、蝋燭の光を受けている。
何も書かれていない。
まだ、何の罪も宿していない。
「必要な資料です」
「何に必要なのですか」
「侯爵家の書式を検証するためです」
「では、わたくしが預かります」
マリアンヌが手を伸ばした。
アデライドは反射的に紙を押さえた。
二人の手が机の上で止まる。
長い沈黙が流れた。
「触らないで」
アデライドは静かに言った。
マリアンヌの手が離れる。
「今夜は、もう下がりなさい」
「お嬢様」
「下がって」
今度の命令には、反論を許さない響きがあった。
マリアンヌはしばらく主人を見つめ、やがて深く一礼した。
「承知いたしました」
扉へ向かい、手をかける。
「お嬢様」
振り返らずに呼んだ。
「正しい人間が行えば、偽りが真実になるわけではございません」
扉が閉じた。
アデライドは一人になった。
時計の振り子が、規則正しく時を刻んでいる。
暖炉の火は弱まり、赤い熾火が脈打つように明滅していた。
机上の紙を一枚取る。
レーヴェ侯爵家の透かし紋が、光へかざすと浮かび上がる。
同家の命令書と同じ紙。
同じ大きさ。
同じ厚さ。
アデライドは筆を手に取らなかった。
ただ、過去の命令書を隣へ置いて見比べる。
侯爵の筆跡は大きく、右へ傾いている。
署名の最後に、獅子の尾のような長い払いが入る。
アデライドは幼い頃から、外国大使の署名や王族の筆跡を見てきた。
アルベルトが病で手紙を書けなかったときには、彼の筆跡を真似て招待状を書いたこともある。
もちろん、王太子本人の許可を得たうえで。
自分ならできる。
その考えが浮かび、すぐに打ち消した。
これは偽造である。
明確な犯罪だ。
レーヴェ侯爵が罪人であっても、存在しない命令書を作ってよい理由にはならない。
アデライドは紙を暖炉へ投げようとした。
そのとき、机の端に置かれた新聞が目へ入った。
証言した老農夫の写真が載っている。
痩せた頬。
土に汚れた手。
息子を殴られ、妻を亡くしても、法を信じて王都まで来た男。
明日、侯爵への処分が監督官の解任だけに終われば、彼は何を思うだろう。
正義など存在しないと、諦めるのではないか。
侯爵は罪を犯した。
これは疑いではない。
帳簿も証言も、すべてが示している。
命令書が見つからないのは、侯爵が慎重に処分したからだ。
ならば、アデライドが作るのは嘘ではない。
すでに存在する事実へ、法が認識できる形を与えるだけである。
「事実を変えるのではありません」
誰もいない部屋で、アデライドは呟いた。
「不足している形を、補うだけです」
筆を取り、インクへ浸す。
最初の一画を置くまでに、長い時間がかかった。
書き始めれば、手は震えなかった。
過去の命令書から言葉遣いを拾い、侯爵が家令へ命じたであろう内容を整える。
領民から規定以上の穀物を徴収せよ。
不足分は商会から貸し付け、返済不能の者から土地を没収せよ。
利益の一部を侯爵個人の口座へ移せ。
最後に、ジークハルト・レーヴェの署名を入れる。
獅子の尾のような払いまで、正確に。
書き終えた紙を見つめた。
それは、最初から存在していた命令書のようだった。
アデライド自身でさえ、見本と並べれば一瞬迷う。
罪悪感より先に、完成度への冷静な評価が浮かんだ。
インクが乾くまで待ち、紙の端へ古い帳簿と同じ折り目をつける。
蝋燭の熱を遠くから当て、紙の白さをわずかに鈍らせた。
すべて終えたあと、アデライドは椅子へ深く腰を下ろした。
手が冷たい。
胸が速く上下している。
まだ引き返せる。
暖炉へ入れれば、誰にも知られない。
マリアンヌは疑っているが、証拠はない。
燃やしてしまえば、これは行われなかったことになる。
アデライドは命令書を持ち、暖炉の前まで歩いた。
火へ近づける。
紙の端が熱でわずかに反った。
あと少し手を伸ばせば、炎が触れる。
だが脳裏に浮かんだのは、レーヴェ侯爵の笑顔だった。
法廷で監督不行き届きを詫び、罰金を払い、領地へ戻る。
数年後には王宮で地位を取り戻し、民衆は忘れる。
アデライドは手を引いた。
「一度だけです」
自分へ言い聞かせる。
「これが、最後です」
命令書を封筒へ入れた。
偽造文書は翌朝、侯爵家の旧倉庫から発見された。
実際に倉庫へ置いたのは、アデライドではない。
公爵家の調査役として出入りしていた若い書記官へ、未確認の棚をもう一度調べるよう指示し、その資料箱の底へ極秘に紛れ込ませた。
書記官の名はエリアス・ノルト。
二十二歳。
貧しい騎士爵家の次男で、法務官を目指して勉学を続けていた。
「見つけました」
エリアスは公爵邸へ駆け込むと、頬を紅潮させて報告した。
「侯爵本人の命令書です」
アデライドは驚いた顔を作った。
演技をしたつもりはない。
ただ、驚くべき場面であると理解し、それに相応しい表情を選んだ。
「本物ですか」
「筆跡も紙も一致しております」
「鑑定官へ回してください」
「すでに手配いたしました」
エリアスは嬉しそうに笑う。
「これで、領民の方々が救われます」
「ええ」
アデライドは微笑み返した。
「あなたのおかげです」
その日のうちに、レーヴェ侯爵は逮捕された。
命令書の内容と侯爵個人の口座記録が一致し、逃げ道は塞がれた。
王都の民衆は歓喜した。
新聞はアデライドを称賛し、広場では彼女の名を叫ぶ者まで現れた。
白銀の正義が、巨悪を討った。
その見出しを見ても、アデライドの胸は以前ほど満たされなかった。
命令書の一枚だけが、目の奥に焼きついている。
それでも結果は正しい。
侯爵は罪人であり、領民は解放される。
誰も傷つけてはいない。
そう考えていた。
三日後、エリアス・ノルトが逮捕された。
命令書の発見者として事情を聞かれるうち、倉庫へ立ち入る許可証の日付に不備が見つかったのである。
許可証を作成したのは、侯爵家の家令と同じ牢に収監されている官吏だった。
偽造文書を侯爵の敵対者から託され、倉庫へ持ち込んだのではないか。
そのような疑いが、エリアスへ向けられた。
「すぐに釈放させてください」
報告を受けたアデライドは、家令へ命じた。
「王都警備隊へ公爵家の保証を」
「すでに申し入れております」
「では、なぜ」
「証拠偽造の可能性がある以上、取り調べは避けられないと」
アデライドの喉が乾いた。
「彼は何も知りません」
「存じております」
「無関係です」
「それを証明する必要がございます」
皮肉な言葉だった。
証拠がなければ、無実は認められない。
アデライドがレーヴェ侯爵へ向けた論理が、今度はエリアスへ向けられている。
「わたくしが証言します」
「何をでございますか」
家令の問いに、アデライドは黙った。
自分が命令書を置いたのだと話せば、エリアスは釈放される。
その代わり、レーヴェ侯爵への告発は崩れる。
公爵家は証拠を偽造した家として信用を失い、証言した領民たちも虚偽を語ったと疑われる。
侯爵は釈放されるだろう。
すべてが失われる。
「公爵家の命令で、倉庫を調べたと」
「それはすでに証言しております」
「ならば、待つしかないというのですか」
家令は目を伏せた。
「現状では」
アデライドは拳を握った。
「面会を手配してください」
「承知いたしました」
しかし、面会は間に合わなかった。
その夜、エリアスは獄中で死亡した。
監視役が目を離した隙に、自ら命を絶ったと報告された。
遺書はない。
取り調べで暴力を受けた形跡もない。
無実の自分が証拠偽造の罪へ問われ、家名へ泥を塗ることを恐れたのではないかと、警備隊は結論づけた。
知らせを持ってきたマリアンヌは、執務室の扉の前で立ったまま動かなかった。
「亡くなった?」
アデライドは聞き返した。
「はい」
「なぜ」
「それは、お嬢様がお分かりなのではございませんか」
「わたくしは、死ねと命じておりません」
マリアンヌの顔が歪んだ。
「そのような話をしているのではございません」
「逮捕されるとは思いませんでした」
「はい」
「許可証に不備があることも知らなかった」
「はい」
「これは、わたくしの意図した結果ではありません」
言葉を重ねるほど、何かが違っていく。
エリアスは死んだ。
それなのにアデライドは、自分が殺したのではないと説明している。
誰も責めていないうちから。
マリアンヌの目から、涙が一筋落ちた。
「お嬢様」
侍女は掠れた声で言った。
「その言葉を、亡くなった方のご家族へおっしゃるおつもりですか」
アデライドは答えられなかった。
机の上には、エリアスが最後にまとめた報告書がある。
几帳面な文字。
頁の端に、インクで小さな染みがついている。
彼は命令書を見つけたとき、嬉しそうに笑っていた。
これで領民が救われると。
「これは、想定外でした」
アデライドは呟いた。
「想定外であれば、罪ではないと?」
「そのようなことは言っていません」
「では、何とおっしゃっているのです」
「わたくしに、どうしろというの」
声が震えた。
マリアンヌは泣きながら、それでも主人から目を逸らさない。
「真実を、お話しください」
アデライドは命令書が保管されている王立法務院の方角を見た。
真実を話せば、すべてが崩れる。
侯爵は釈放される。
公爵家の名誉も、領民たちの証言も、アデライドが行ってきた善行も、偽造という一つの罪で汚される。
自分だけの問題ではない。
「今は、できません」
アデライドは答えた。
「では、いつなら?」
「侯爵への裁判が終わったあと」
「それまで、ご自分の罪ではないとお考えになるおつもりですか」
「罪人を裁くために必要なことでした」
口にした瞬間、マリアンヌの顔から何かが消えた。
怒りでも、悲しみでもない。
長年抱いていた信頼の一部が、音もなく崩れたように見えた。
「左様でございますか」
侍女は一礼した。
「どこへ行くの」
「エリアス様のご家族へ、お悔やみを」
「わたくしも」
「お嬢様は、何とおっしゃるのです」
アデライドの足が止まる。
「息子を殺したつもりはなかったと?」
マリアンヌは扉を開けた。
「今は、お会いにならない方がよろしいかと存じます」
扉が閉まる。
アデライドは一人、執務室に残された。
吐き気がした。
指先が震え、机の縁を掴まなければ立っていられない。
後悔している。
エリアスが死んだことを悲しんでいる。
それは確かだった。
だが同時に、命令書が偽造だと知られなかったことへ安堵している自分もいた。
その安堵こそが、何より恐ろしかった。
アデライドは両手で顔を覆う。
「一度だけです」
声が指の間から漏れた。
「本当に、一度だけだったのです」
答える者はいなかった。




