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婚約破棄された完璧令嬢は、微笑みのまま王都を去る~王太子に選ばれなかった私が、自由を手に入れるまで~   作者: カルラ


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第十二章 消えないインク

エリオット・ヴァレンが命令書に違和感を抱いたのは、レーヴェ侯爵の第一回公判が開かれる二日前だった。  

彼は事件の捜査責任者ではない。  

王都警備隊から王国軍へ出向している立場であり、侯爵逮捕時の護送を指揮したにすぎなかった。  

それでも、証拠品の受け渡し記録へ署名した以上、形式上の確認は必要になる。  

王立法務院の証拠保管室で、エリオットは机に広げられた命令書を見た。  

内容はすでに新聞で報じられている。  

レーヴェ侯爵が家令へ過剰徴税を命じ、利益を個人口座へ移すよう指示した文書。  

筆跡鑑定官二名が、本物である可能性が高いと認めている。  

紙もインクも侯爵家で使われていたものと一致した。


「何か問題でも?」  


法務官が尋ねる。


「いや」  


エリオットは紙の端を見た。  

折り目がつき、わずかに黄ばんでいる。  

数年間、古い資料箱の底に眠っていたように見える。  

ただ、日付の右下に、小さな黒い点があった。  

インクを落とした跡だろう。  

それ自体は珍しくない。  

しかし、黒い点は折り目の上へ広がっている。


「この文書は、いつ折られた」

「分かりません」

「少なくとも、書かれたあとか」  


法務官が顔を寄せた。


「通常は、そうでしょう」

「インク染みが、折り目の溝へ入り込んでいない」

「どういう意味です」

「折り目をつけたあとで、インクが落ちている」

「保管中に何かの拍子でついたのでは?」

「資料箱は乾燥していたと聞いた」  


エリオットは命令書へ触れないよう、顔を近づける。  

インク染みは署名と同じ濃さだった。  

書いた直後、筆先から落ちたものに見える。


「この紙は、先に古く見えるよう折られ、そのあと文字を書かれた可能性がある」  


法務官の顔色が変わった。


「まさか」

「可能性の話だ」

「筆跡鑑定は通っております」

「鑑定官が見たのは筆跡だ」

「紙とインクも」

「種類が一致することと、同じ日に書かれたことは別だ」  


エリオットは身体を起こした。


「命令書の日付は、三年前だったな」

「はい」

「インクの製造時期は確認したのか」

「同じ品が、十年以上前から使われております」

「製法は変わっていない?」

「メーカーへ問い合わせます」

「急いでくれ」  


法務官は頷き、部下を呼んだ。  

エリオットはもう一度、命令書を見る。  

紙の上にあるのは、悪人の罪を暴いた証拠。  

これによって何百人もの領民が救われる。  

命令書が偽造であれば、レーヴェ侯爵の罪が消えるわけではない。  

しかし、証拠を偽造した者が別に存在することになる。  

その可能性を見なかったことにはできなかった。



翌日、インク工房から回答が届いた。  

同じ名称で販売されている黒インクは、二年前に配合が変更されている。  

旧製品には鉄分が多く、年月が経つとわずかに茶色へ変色する。  

新製品は黒さを保つよう改良されていた。  

命令書の文字は、三年前の日付にもかかわらず黒い。  

もちろん、保管状況によって変色の程度は異なる。  

これだけで偽造と断定することはできない。  

だが、疑う理由には十分だった。


「鑑定官へは?」  


エリオットが尋ねる。


「紙とインクの種類が侯爵家のものと一致するかだけを依頼しました」  


捜査官が答えた。


「年代の鑑定は?」

「行っておりません」

「なぜだ」

「命令書が発見された経緯に、不審な点はないと判断されておりました」

「発見者は死んでいる」  


エリオットの声が低くなる。


「エリアス・ノルト」

「証拠偽造への関与を疑われ、自死したものと」

「本人が関与した証拠は?」

「ございません」

「なら、なぜ死んだ」

「分かりません」  


エリオットは椅子へ座り、記録を開いた。  

エリアスが侯爵家の旧倉庫へ入ったのは、命令書発見当日の午前九時。  

公爵家の調査役として許可を受け、二人の警備兵とともに入っている。  

許可証の日付は前日だったが、発行記録では翌日になっていた。  

一日のずれ。  

単純な書き間違いにも見える。


「許可証を作った官吏は?」

「侯爵家の家令と同じ区画に収監されております」

「話を聞く」

「すでに、エリアスから偽造を頼まれたことはないと」

「では、なぜ日付を誤った」

「記憶にないそうです」

「記憶にない者は便利だな」  


エリオットは記録を閉じた。


「倉庫へ同行した警備兵を呼んでくれ」



二人の警備兵の証言は、細部で食い違っていた。  

一人は、資料箱が棚の最上段にあったと記憶している。  

もう一人は、腰の高さだったと答えた。  

箱の蓋が閉まっていたかどうかも一致しない。  

ただし、二人とも同じ点だけは明確に覚えていた。


「ノルト殿は、最初からあの箱を探しておられたようでした」

「なぜ、そう思う」

「倉庫に入ってすぐ、北側の棚へ向かわれましたので」

「指示を受けていた?」

「はい」

「誰から」

「グランフェルト公爵令嬢のご指示だと」  


エリオットは黙った。  

胸のどこかで、その名が出ることを予想していた。  

それでも実際に耳へ入ると、認めたくない気持ちが先に立つ。


「アデライド様は、箱の場所まで指定したのか」

「北側の棚を、もう一度調べるようにと」

「特定の箱ではない?」

「はい」

「ならば、不自然ではない」  


同席した捜査官が言う。  

エリオットは頷かなかった。


「ノルトは、その棚を以前にも調べていたのか」

「三日前に」

「そのとき、命令書は?」

「見つかりませんでした」

「三日前と発見当日の間に、誰が倉庫へ入った」

「記録では、誰も」  


エリオットは目を閉じた。  

最初の調査で見つからなかった命令書が、誰も出入りしていない倉庫から三日後に発見された。  

エリアスが持ち込んだのでなければ、同行した警備兵のどちらか。  

あるいは、最初から隠されていた場所を知る者が、エリアスへ指示した。


「違っていてくれ」  


思わず、声が漏れた。


「中尉?」

「何でもない」  


エリオットは立ち上がった。


「アデライド様へ事情を伺う」

「任意で?」

「ほかに何がある」  


彼女を罪人として扱う証拠はない。  

まだ、疑いと呼ぶことすら躊躇われる段階だった。



公爵邸を訪れたエリオットは、アデライドの執務室へ通された。  

彼女は黒いドレスを着ていた。  

喪服だった。


「エリアス・ノルト様のためです」  


エリオットの視線に気づき、アデライドが説明した。


「公爵家の調査へ協力し、亡くなられました」

「ご家族へは?」

「見舞金と年金をお送りしました」

「受け取られましたか」

「最初は拒まれました」

「今は?」

「お父様から直接、お話しいただきました」  


アデライドの顔には、隠しようのない疲労があった。  

化粧で整えてはいるものの、目の下の影は消せていない。  

エリオットは自分が抱いた疑いを恥じそうになる。  

だが、願いと事実は分けなければならない。


「本日は、レーヴェ侯爵の命令書について伺います」

「わたくしに分かることであれば」

「旧倉庫を再調査するよう、ノルト殿へ命じたのはアデライド様ですか」

「はい」

「なぜ、北側の棚を?」

「最初の報告で、確認にかけた時間が短かったからです」

「報告書には、すべての箱を確認したと」

「時間と箱の数が合いませんでした」  


アデライドは机の引き出しから書類を出した。


「北側の棚には、大小合わせて四十三の箱があります」

「はい」

「最初の調査時間は、四十分」

「一箱あたり、一分未満」

「帳簿を確認するには不十分です」  


筋は通っている。  

事実、再調査によって命令書が発見された。  

アデライドが置いたのでなければ、彼女の判断は正しかったことになる。


「命令書をご覧になったのは、発見後が初めてですか」

「もちろんです」  


迷いのない答えだった。  

エリオットは彼女の手を見た。  

机の上で重ねられた指は、微動だにしない。


「命令書の筆跡に、不自然さは感じませんでしたか」

「筆跡鑑定官が本物と判断したと伺っております」

「アデライド様は、筆跡にお詳しい」

「なぜ、そう思われるのです」

「王太子殿下の招待状を、代筆されたことがある」  


アデライドの目がわずかに細くなる。


「殿下のご許可を得ております」

「存じております」

「それが、何か?」

「他人の筆跡を正確に真似られる方は多くありません」  


室内の温度が下がったように感じられた。  

アデライドは微笑む。


「わたくしが命令書を作ったと疑っておられるのですか」

「疑いたくありません」

「おかしな言い方ですね」

「アデライド様」  


エリオットは膝の上で拳を握った。


「私は、あなたを犯人にしたくて調べているのではありません」

「では、何のために?」

「あなたでないと証明するためです」  


アデライドは、しばらく彼を見つめていた。


「それは、捜査官の言葉ではございません」

「本日は、捜査官として参ったわけではありません」

「ならば、何者として?」  


エリオットは答えに詰まった。  

かつて彼は、アデライドが王妃になれば国は安泰だと信じた。  

今も、その思いを完全には捨てられない。  

だからこそ、彼女が証拠を偽造した可能性を認めることが恐ろしい。


「一人の王国軍人としてです」  


エリオットは答えた。


「法が正しく働くことを望む者として」

「レーヴェ侯爵が無実だと?」

「違います」

「では、命令書が真正であるかどうかは、何を変えるのです」

「法が、偽りによって動かされたかどうかを変えます」

「偽りであっても、結果が正しければ?」

「その問いに、私が答える必要がありますか」  


アデライドの微笑みが薄れる。


「ありませんね」

「命令書の日付と、インクの製造時期が一致していません」  


エリオットは告げた。  

アデライドの瞳が、ごくわずかに揺れた。  

瞬き一つほどの変化。  

見落とそうと思えば、見落とせる。  

それでもエリオットは見てしまった。


「新しい配合のインクが使われています」

「鑑定官は、本物だと」

「依頼された範囲が不十分でした」

「では、鑑定の失敗です」

「そうかもしれません」

「わたくしにお尋ねになることではないでしょう」

「侯爵家と同じインクを、調査資料として入手していますね」

「ベケット氏が管理しております」

「公爵邸へ運ばれた記録があります」  


アデライドは椅子の背へ身を預けた。


「グランフェルト家の者を疑うと?」

「記録を確認したい」

「正式な令状をお持ちください」

「アデライド様」

「こちらは、王都警備隊の取り調べ室ではございません」  


エリオットは唇を結んだ。  

これ以上、任意の会話で聞き出すことはできない。


「失礼いたしました」  


立ち上がる。


「本日の記録は?」

「捜査として参ったわけではありませんので、残しておりません」

「そうですか」  


アデライドは穏やかに微笑んだ。


「でしたら、この会話はなかったことになりますね」

「いいえ」  


エリオットは彼女を見た。


「私が覚えています」  


二人の視線がぶつかる。  

先に逸らしたのは、エリオットだった。


「失礼いたします」  


扉へ向かう。  

開ける直前、背後から声が届いた。


「中尉」

「はい」

「レーヴェ侯爵が釈放されれば、領民たちは再び苦しみます」

「それを防ぐのも、法の仕事です」

「法が間に合わなければ?」

「だからといって、誰か一人が法になることはできません」  


エリオットは振り返らなかった。


「あなたほど賢い方なら、お分かりのはずです」  


返事はなかった。



エリオットが帰ったあと、アデライドは長い間、椅子から動けなかった。  

新しい配合のインク。  

その違いまでは知らなかった。  

侯爵家で使われているものと同じなら、問題ないと考えた。  

文書を作った夜、マリアンヌは部屋にいた。  

透かし紙とインクの存在も知っている。  

彼女が証言すれば、疑いは一気にアデライドへ向かう。


「マリアンヌ」  


呼ぶと、侍女はすぐに入ってきた。  

エリオットとの会話を、扉の外で聞いていたのかもしれない。


「証拠品の管理記録を確認してください」

「何のために?」

「侯爵家の紙とインクを、誰が公爵邸へ運んだことになっているか」

「ベケット殿でございます」

「受け取った者は?」

「わたくしです」  


アデライドは息を整えた。


「記録を、訂正してください」

「どのように?」

「インクは公爵邸へ運ばれず、ベケット氏が保管したことに」  


マリアンヌの顔から血の気が引いた。


「お嬢様」

「受領欄の署名は、あなたのものです」

「わたくしに、虚偽の記録を作れと?」

「記載を誤っただけです」

「本当に?」

「このままでは、無用な疑いが公爵家へ向きます」

「無用ではございません」  


マリアンヌは震える声で言った。


「正しい疑いです」

「声を落として」

「いつまで、お続けになるのですか」

「これで最後です」

「そのお言葉を、何度伺ったことでしょう」  


アデライドは立ち上がった。


「わたくし一人の問題ではありません」

「いつも、そうおっしゃいます」

「侯爵への裁判が崩れれば、領民が」

「エリアス様がお亡くなりになったときも、領民のためと」

「事実でしょう」

「亡くなった方の命よりも?」

「比べられるものではありません」

「比べておられるではありませんか」  


マリアンヌの目に涙が浮かぶ。


「何百人を救うためなら、一人が死んでも仕方がないと」

「そのようなことは言っていません」

「では、真実をお話しください」

「できません」

「なぜです」

「ここまでしたことが、すべて無駄になるからです」  


言ってから、アデライドは自分の言葉に気づいた。  

領民のためではない。  

公爵家のためでもない。  

ここまでしたことを無駄にしたくない。  

それが、口から出た。  

マリアンヌも気づいている。  

二人の間に、重い沈黙が落ちる。


「記録を訂正してください」  


アデライドは繰り返した。


「これは命令です」

「お断りしたら?」

「あなたも疑われます」

「脅しておられるのですか」

「事実を申し上げています」  


マリアンヌは目を閉じた。  

頬を伝った涙が、顎から床へ落ちる。


「お嬢様を、守りたいと思っておりました」  


静かな声だった。


「存じています」

「違います」  


マリアンヌは首を振った。


「お嬢様を守りたかったのではございません」

「では、何を?」

「お嬢様が間違えないという、わたくしの思い込みです」  


アデライドは何も言えなかった。


「記録は、訂正いたします」  


マリアンヌは一礼した。  

安堵が胸へ広がり、すぐに自己嫌悪が追った。


「ありがとう」

「感謝なさらないでください」  


マリアンヌは顔を上げた。  

涙に濡れた目には、これまでにない冷たさがある。


「わたくしは今から、お嬢様の罪へ加わるのです」

「罪ではありません」

「そう思っているのは、もうお嬢様だけでございます」  


侍女は部屋を出ていった。  

アデライドは呼び止めなかった。  

机の上には、エリアスの報告書が残っている。  

黒いインクの染み。  

時間が経っても消えず、紙の繊維へ深く入り込んでいる。  

命令書のインクも。  

管理記録のインクも。  

書いてしまった事実は、紙を燃やしても完全には消えない。  

どこかに跡が残り、いつか誰かの目に触れる。  

その夜、マリアンヌは証拠品管理簿の一頁を書き直した。  

古い頁は暖炉で焼かれ、灰になった。  

けれど、帳簿を閉じる直前、彼女は新しい頁の番号を小さな紙片へ書き留めた。  

紙片を折り、亡きアデライドの母から贈られた首飾りの留め具へ隠す。  

アデライドは、そのことを知らない。  

窓の外では、雨が降り始めていた。  

王都の石畳を濡らし、汚れを流していく。  

それでも消えないものがあることを、二人は別々の場所で知っていた。










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